アートの才能を伸ばす女子教育
私立中学の価値ーゼロ
内容は、私立中学の価値から続く話題です。教育全般です
条件は1つだけ・・「最初から、誰かを、無視する意図がある人を除く」です。
企業人様
私、頭の中で、企業人様の書斎には小さな仏像が一杯あるのかな~、なんて勝手に想像しておりました。(笑)
で!すごい書き間違いしています!!
私が行って来たのは、「龍谷大学」のhttp://museum.ryukoku.ac.jp/です!
自分の頭の中では、龍谷大学と、しっかりと自覚しているのに、佛教大学って書いてます。。、、、龍大の方も仏大の方も申し訳ありません。。
龍谷大学のミュージアムは、西本願寺の前にあります。大学構内にあると思ったらなんのなんの、京都の一等地にミュージアムだけが独立してあるのです。
松風のお店にも近い♪
ひょっとしたら、、企業人様はすでに行かれているかもしれませんね。
間違った事を書いてしまい、申し訳ありませんでした。
白砂様が教えて下さったように、ガンダーラ期~の仏教、仏像に関する素晴らしい遺跡や資料が展示されております。
都出張の折に、是非足を運んでみて下さい♪
企業人様はすでにご存じかもしれませんが。。。
愛読者様
愛読者様のお子様はお嬢さんなのですね。
男の子、、自分自身の高校時代と比べても幼いですよ~。
とりあえず、家事だけは協力的、、という感じです。
お仕事、お互い頑張りましょうね!
悩みごとって、暇があると、大きく大きく膨らんでいく。
忙しいと、その悩みごと自体も客観視出来たりして、なんとな~く、自分の中で上手に消化出来るような気がします。
中学受験もそんな部分があるような、ないような。
「受験」だけを見ていると子供の成績や偏差値だけが、これからの子の将来を決めてしまうような気になったりして。。。
でも、実際、本当にそうなのか?と言われたら、そんな事だけで決まるわけがない。
私はそのように感じるのですね。
特にこの時期位から、6年生の模試の出題のされ方は劇的に変化していると思います。
いや、塾によっては6年生に入った頃から出題のされ方が違ってきていると思います。
それまでは出題範囲が決まっていて、やっていれば得点できるような模試になっているかと。
それが、全範囲からの出題になっていて、暗記だけでは乗り切れないような出題のされ方になって言っていると思います。
いや、全てをしっかり理解出来ていないと、5年の頃と同じような安定した偏差値を維持するのは難しいかと。
でもそれは、言い方を変えれば、「子供の穴がとてもわかりやすい模試」になっていると思います。
ですので、偏差値の上下もある程度はある。(うちの子もありました)私はそう思います。
ですので、成績そのものに一喜一憂せずに、偏差値ががくっと下がった教科の分析に模試を利用するのがここからの模試の遣い方なんじゃないかな、、と私は思うのですね。
「この範囲に穴があったから、この点数になったんじゃないの?」と、徹底的にアドバイスに徹する。
怒っても、嘆いても、何にもならないと思います。
子供達は一生懸命頑張っていると思うんですね。
ですので、ここからの模試は「弱点を教えてくれる良い機会」そのように親御さんは捉えて子供さんを支えてあげるのが良いんじゃないかな~、、と思います。
終了組の親が何かお手伝い出来る事はないのだろうか?
そう考えて、ちょっとだけ書いてみました。
地域、時代様
しばらく京都に行ってないので行こうと思っていたところに素敵な情報、ありがとうございます。
私も知識は無いのですが仏像は好きです。
今のお気に入り?は知恩院です。男坂は貧血気味で根性無しの私にはしんどいので女坂をゆっくり登って本堂に行くのですが、
本堂で静かにご本尊と対話するのがとても貴重な安らげる時間です。
奈良大学が通信制でいろいろ勉強できるみたいなので(スクーリングでいろんな博物館で学芸員の方に直接説明していただけるらしい)
余裕が出来たら学士入学しようかと考え中です。
悩みごとは悩んでいるだけでも、嘆いているだけでも解決しないのですよね。
行動しないと。
前に向いて歩いていかないと。
自分自身も弱い弱い性格ですので、私はいつも自分にそう言い聞かせながら日々、なんとかやってます。
あ~♪
ピース様だーーー(*^_^*)
ピース様も学士入学、考えてらっしゃるのですね。
私もそうなんです。
いつか、思いっきり暇と余裕が出きたら、もう一度学び直したい。
そう思っております。
うちの母は、それを実践しています。
理系の人間なのですが、自分が今まで触れた事がない学問をやってみたい、と、文学部で聴講生として頑張っています。
母から聞くところによれば、そういった定年後や40代や50代の聴講生は結構多く、母も大学で出会った方達と色々話をしたりして楽しそうです。
白砂様
神戸観光案内2様あらため、ですね。
了解~♪です。
仏像の出現については諸説あるようですが、たしかインドの北西にあったガンダーラ王国で、200年ごろ
だったでしょうか。
仏教が西の方に広がっていって、ギリシャ文明と交わった結果だそうです。
_______________________________________________
そうでした!そうでした!
ガンダーラ王国って何度も先生が説明していて、資料にも一杯書いてありました。
無学な私の「想像(笑)」は、間違ってなかったのですね。
嬉しい~♪
立ち寄らずに、常駐、よろしくお願いいたします(笑)。
適性さん
ご返答拝見すると、わたしが「こうすべきだ」と主張したつもりの内容、あるいは範囲が適性さんにうまく伝わっていないことがわかります。掲示板の議論で正確に意図をつたえるのはことのほか難しいですね。
以下、適性さんのご返答からの引用は、その範囲がわかりやすように、空白行をつめています。
>「宗教の自由」
>『好意的で寛容』
>「原理」主義的
>が、気に入らないなら・・誤解であるなら・・・
>基本的には、「その時」に、お願いします。いまさらですし。
企業人さんからもご指摘がありましたが、最初に疑問を感じた時点でご指摘すべきであったと反省しています。
>それに、使い方に、それほど問題があるとは、思っていません。
>『好意的で寛容』
>どうしても、好意的を「除きたい」なら、
>「寛容であれば、好意的である必要はない」と、主張すればいい。
通常の語義では、たんに「寛容である」といったばあい「好意的にする」までは含まれない思います。
>しかし、です。単に「寛容」であればいいという主張ですか?
>単に「寛容」というのは、こういう態度も含まれますよ。
>どちらかというと・・ほんとうは、いやだが、彼らの権利だから、彼らの宗教的言動を我慢する。
>宗教的言動を黙認する。
>(しかし、積極的に、受け入れようとか、近づこうとかはしない。なんだあの集団は?と不信感さえもつ。
>心のなかでは、異様なものとして、否定しているかもしれません)
>内心はいやだけれど相手の権利だから我慢する、
>単に、攻撃的行為をしなければいい。のではないのでしょう?
わたしがとるべきであると主張している寛容な態度にはこのような場合を含めます。内心はいやだけれど我慢して相手の権利を認める、というのはむしろ立派であるとさえいえると思います。相手の言動になんら抵抗を感じないのであれば、かれらの権利をみとめることも容易ですから。
>それをはるかに超え。
> >もしかしたら、オウム真理教をテロ行為に追いやったのは、自分たちとは価値観のこと
> >なるかれらを、異様なもの、不気味なものとしてさげすみ否定した、わたしたちの心で
> >はなかったでしょうか?
>と・・「心」までも、踏み込んで、否定しているわけですから。
>さらに、あの事件の「責任」さえある。
>より「肯定的に思い」、そして、「好意的態度」で、彼らに、接することを、「わたしたち」に
>求めていると感じたのです。違うのですか?
わたしが「寛容に」ということばでみなさんに求めているのは、オウム真理教の流れをくむ団体、具体的にはアレフとひかりの輪、の宗教活動を妨害したり信者のひとたちを差別したりしないでほしいということです。その直接の根拠は信教の自由です。わたしたちの心がオウム真理教をテロ行為においやったのかもしれない、とわたしは感じますが、おなじ感想をいだくことを他の人たちに求めるつもりはありません。わたしのこのことばを読んで共感していただける人があればうれしいですが、まったくそうは思わないと感じるひとがいてもそのことを批判するつもりはありません。
ここで誤解が生じたわけですが、適性さんが「好意的」ということばを付加されたのは、わたしの主張にそのような内容が含まれていると理解されたからであって、意図的にわたしの主張を変えようとされたのではないということがわかりました。
>そういう、好意的心、好意的態度でないのだから・・・彼らを「追い込んだ」のだ。
>という主張だ・・と思っているのです。
オウム真理教にたいする積極的ないやがらせが多々あり、そのことが彼らが反社会的な行動にでたひとつの理由ではなかったかと思うのです。
>ですから、
>特に問題がなければ。
>気に入らなくても、宗教には、攻撃的態度を、とならければ、それで十分だと思っています。
>私は、好意的心、好意的態度までは、求めません。
>(好意的態度は任意です)
この適性さんのお考えはわたしの主張と完全に一致します。
>だいたい、スループさんも、既存の宗教に、好意的心はないのでしょうし、好意的態度でもないでしょ。
そのとおりです。
>スループさんは
>***********************************************************
>やりすぎ度から言えば、日本仏教の戦争協力は、オウムのテロと比較にならない程罪深い。
>ただ戦争を是とする社会的合意の有無が違う。オウムは反社会的殺人肯定。日本仏教は
>社会的殺人肯定。形而上学で具体的な殺生の罪を誤魔化したのは同じ。
>***********************************************************
>という文章を、どこらから、引用したぐらいですから。これ批判でしょ?
これは動機さんの書き込みへのコメントでしたが、もちろん批判です。適性さんと議論している内容からはずれるのですが、日本仏教は「一殺多生」という考えをかかげて、太平洋戦争を積極的に後押ししていました。ここにも宗教が教義をねじまげて殺人を肯定するということがみられます。
>そこらへんは、矛盾を感じますね。
以上ご説明させていただきましたが、矛盾はとけましたでしょうか?わかりにくい点が残っていましたらご指摘ください。































