女子美の中高大連携授業
私立中学の価値ーゼロ
内容は、私立中学の価値から続く話題です。教育全般です
条件は1つだけ・・「最初から、誰かを、無視する意図がある人を除く」です。
地域、時代様
>単純に「文化背景の違い」でエエんですかね?
>私は、「学校出の勉強の方法の違い」も大きく作用しているような気がしているのですが。。。
「勉強方法の違い」ってどんなことですか?
その辺り全然知らないもので。
ただ、些細な選択(オリエンタルにとって)に強い意味合いがあることを授業で感じとれました。
例えば、ここでも前にシルバースプーン様が入試方法を2通り用意すれば良いのではないか?
と、おっしゃったように、「同一集団」の中でも「その人の能力のあり方」というものは大きく違いますよね。
例えば、同じ平均点の子がいても、全教科平均的に出来る子もいれば、国語はダメだが数学が得意。みたいなアンバランスな子もいる。
でも、彼等は数字の上で「同じ点数」をとるわけですよ。
また、もう一つ私が考えたのは、科挙制度にのっとったオリエンタルの「紙の上の入試」と、アメリカの奨学金制度が潤沢に貰えるタイプの「学生生活の中でのでき杉君入試」があると思うのですね。
私はアメリカの大学って比較的、ざっくり言えば日本の内申制度に近いような基準があると思うのです。
(アメリカは、でき杉君をよしとする風潮があるような気がするんです)
長兄は、ハーバードやスタンフォードなどの名門大学に、返済義務のない奨学金の基準を、現地のアメリカ人学生が満たそうとすれば、そのハードルは並大抵ではない。と言います。
つまり日本の学習は「幅が狭い」アメリカの場合「日本人が学習と思っていない所も学習と捉えるので幅が広い」
つまり、選択師が狭い教育 と 選択師の広い教育。と。。。
でも、彼等は数字の上で「同じ点数」をとるわけですよ。
↑
「同じ平均点」をとるわけですよ。
の間違いです。(人と人を比較した場合)
別の補足として↓
それを、個人で考えれば「量的様が言われる キャラ 」ですね。(個人の能力の中で比較した場合)
あらゆる事に長けた子供さんもいるし、強烈に一つの事に長けているが、その能力がアンバランスな子供さんもいますよね。
うちの子だったら、運動はめっちゃ出来るが、絵を描かせれば、トホホ、、みたいな。
勉強がすごく出来るが、他の事は苦手が多い。
とか、運動だけはすごく出来るが、勉強は苦手、、みたいな。
苦手を克服する事の意義はいくつかありますが、私の意見は「最終的には苦手は苦手のままでいい」です。
苦手をどうするかを考えるより、得意分野を延ばす事に注目した教育が、日本の教育現場には必要な気がします。
これはつまりキャラとか個性とか重視の方向性です。
そして、実は・・・何かに特化した能力を伸ばすためには、究極のところで苦手分野にも努力が必要になる場面が出て来ると私は思っています。
苦手な分野は必要に迫られなければ克服できないと思います。
地域、時代様
なるほど、わかりました。
成長段階での学力選別方法や関わり方という意味で納得できる部分もあります。
では、就学前の幼児期においてはどうなんでしょうか?
この時点で既に選択肢に関する傾向が現われているんじゃないかと思うんですけど。
どうなんでしょうか・・・。
ただ、些細な選択(オリエンタルにとって)に強い意味合いがあることを授業で感じとれました。
↑
信頼感様
え?
些細な選択にオリエンタルは無自覚。なんじゃなかったでしょうか?
同じ事をしても、アングロ系は「俺が選択してる、してる」と自覚があるが、オリエンタル系は「それを選択していると自覚していない」と。
コロンビア大学のビジネススクールでの授業ですので、
自分が「部下を扱う時に」は○アングロ系には選択肢を多く与えてやる気を起こさせようーそれが生産性に繋がる。
○ヒスパニック系には人間関係に注意を払いやる気を起こさせようーそれが~
○オリエンタル系には選択師の幅を狭くして、不安を取り除こうーそれが~
自分が仕事で人を動かしていく時、「自分を基準」におかず、「相手ー人種や文化背景」を考慮した方が良いですよ。
という授業だったと思うのですが。。。。
ある意味、量的様がおっしゃる「キャラ論」とすごく繋がりのあった授業だったと思います。




































