在籍生徒の9割が東京と神奈川の学校
私立中学の価値ーゼロ
内容は、私立中学の価値から続く話題です。教育全般です
条件は1つだけ・・「最初から、誰かを、無視する意図がある人を除く」です。
離陸さん
>演出的には、糸子の周りの人が皆年取ってきて別れのシーンはどうするのかな~と思っていましたが、お母さんの前に・・が現れ、そして一気に・・・と、成程、そういう演出が、と感心しました。再放送は必見です。笑)
私も再放送をまた見てしまって、また泣いてしまいました(アホです)
麻生さん、本当の老け役がお上手でした。
あの人が最後に出てくるとは・・・ですね(しみじみです)
離陸さんの成功者の条件、なるほど~と思いました。
2)の呉服屋に生まれ・・・の部分ですが、私はここに「付加価値の価値観」の醸成を加えたいのですが、いかがでしょうか?
シルバースプーンさん
狩猟民族と農耕民族の違いって、私も最初思いました!
でも、闘争心などだと違いが明確だと感じるのですが、個人主義の部分の違いは、よくわからなくなっちゃったんですよね~?
モンゴリアン・・・エイゴリアンみたいで、なんかかわいいです♪(笑)
前回までで、生きる力の定義の中教審のない洋を見ました。
ある意味では、1996年の定義を懇意知的に見直す、否定的ではなく建設的に見直す必要がある・・・
というところから試みに続けます。
(*)
項目は3つで、文案を書いて行きます。
1.「生きる力」として必要なことには、現状、の深い把握があります。
現代日本が置かれている様々なIssueを、深い次元で理解することが求められています。歴史的に見たり、多国との文化も紙しながら発展段階の比較も必要になります。
例えば、これまでの歴史のトレンドとの対比で考えれば、1945年以降の日本であれば、一言で言えば目標は大きく括って、「戦災からの復興」であり、「資源のない先進工業国として、工業化に邁進し、生活水準を向上することを目指す」でありました。判りやすい目標があった。技術に関わらない部分についても、社会システムの高度化、例えば利便性の高い、費用対効果の高いシステムを目指してきました。環境についても、経済成長&環境対策のなどは、背反する部分はあるが、それでも判りやすい。
しかしながら、今、直面している、日本の課題の多くは、単純なものではありません。複数の「知恵の輪」が複雑に絡み合っているようで、一体いくつの「知恵の輪」が絡んでいるのかがわからない無い状態です。現状を深く理解するためには、様々にIssueを切り出して見ながら理解を進めることが必要です。理解も受け身に知識を流し込まれるとか、誰それが置こう言ったという分析ではなく、Proactiveな理解が求められる。
2.上位に関連して、次に「生きる力」として必要なことには、現代日本が置かれている様々なIssueを、上手に課題として切り出して、回答可能な問題に近づける能力、これが求められます。これが後に再度述べる、「問題を作れる」能力というIssueを扱える人材ニーズです。
問題を上手に定期できるか、これが企画力であり、戦略生でありますが、今、求められているのは、そういう側面で、これを具体的な表現で言えば、目前の問題を如何に、回答可能な問題群に分けて、順番に並べられるか、です。
3.「生きる力」として、大事になっていることは、自分の頭で考えることです。(*)
応用が特に求められる時代だからという点に加えて(これも少しはありますが)、変化が激しいので、その場で判断することが必要になっていることがあります。日本人は、比較的アジア人、欧米人に比べて、判断が遅いという致命的な欠陥を最近は指摘されています。
確かに、失敗してもやり直せるような状況があれば、それを担保する社会の仕組みを手当すれば良いですが、やり直しのきく社会というものとは別で、グローバル社会が、現実として不可逆に変化しているときに、(=世界がまったなしで変化しているときに、)自分たちだけ、違うルールでゆったりとめーペースで変化していれば、歴史からおいて行かれるということです。(**)これが、日本だけの閉じた社会とグローバル社会の一つの著しい違い、あるいは特徴でもあります。ある意味で、二十一世紀に入った今、改めてReviewされて出てくる「生きる力」として必要な側面だと考えます。
(*)実はここが工夫のしどころ、ある意味で、ここが書きたいことがあるかが、分析することに価値があり、その議論戦略に説得力があるかの分かれ道。個の高3として書きましたが、提案として切り出しても良いデスが、考えも多少はあって前項の続きとして書いていきます。
(**)
アジアの先進諸国の経済発展や、IT化、電子化といった技術変化の激しい時代が到来したおかげで、知識が陳腐かするスピードが速くなって、都度、応用・工夫して対応するところの「応用・工夫して」が極めて多岐に亘っています。、また、採算性が極度に変化して、国内で産業が全く成り立たない条件というようなこれまでの日本では想定していなかった部分が勝負処になっています。欧米人はそのことも含めて、様々な競争をしていますが、かれらに負けないで、様々な階層の思考を行き来して、ビジネス判断ができる人材が、理系文系に関係なく、求められることになります。これが「生きる力」の今日的な知的なありようとして、新たに加わります。
(この項、記載終了)
すみません、作成の途中で、投稿をしてしまいました。
こちらをご覧ください。
・・・「生きる力」とは何かを定義する部分に、追加の提案を部分ですが、ご興味のない方はスルーください。
前回までで、「生きる力」の定義の1996年7月19日の中教審の内容を具体的に見ました。
ある意味では、1996年の定義を今日の視座から見直す、それも否定的ではなく建設的に見直す必要がある・・・
というところから、考察を続けます。 (*)
項目は3つで、文案を書いて行きます。
1.「生きる力」として必要なことには、現状の深い把握をすること、があります。
現代日本が置かれている様々なIssueを、深い次元で理解することが求められています。その意味は、歴史的な文脈で見たり、他国との文化の違い、仕組みの違い、発展段階の比較もおこなった現状理解、ダイナミックな変化に関する理解が必要になります。
例えば、これまでの現状理解との対比で考えれば、1945年以降の、所謂、”戦後日本の状況理解”であれば、一言で言えば目標は大きく括って、「戦災からの復興」であり、「資源のない先進工業国として、工業化に邁進し、生活水準を向上することを目指す」でありました。判りやすい目標があった。技術に関わらない部分についても、社会システムの高度化、例えば利便性が高く/費用対効果の高いシステムを目指してきました。環境についても、経済成長&環境対策のなどは、背反する部分はあるものの、それでも問題の所在(そして目標も)判りやすい。
しかしながら、今、直面している、日本の課題の多くは、理解をすることがそもそも単純なものではありません。複数の「知恵の輪」が複雑に絡み合っているようで、一体いくつの「知恵の輪」が絡んでいるのかがわからない無い状態です。現状を深く理解するためには、様々にIssueを切り出して見ながら、理解を進める作業が必要です。理解も受身に知識を流し込まれるとかではないところがあります。(誰それが置こう言ったという静的な分析ではなく、Proactiveな理解がプラスして求められる。この部分は3.にも関わります。) 先に書いた、Issueの歴史の中の理解についても、「戦後の歴史」の文脈だけの理解ばかりではなく、世界史全体のに及ぶ理解が不可欠であったり、科学・技術史に深く触れなければ歯が立たないと思われるIssueが出てきている。また、理解した、と思い込むケースも増えていますが、実は浅い理解だったりすることに気づかず失敗するリスクも出てきています。
2.上の1.に関連して、次に「生きる力」として必要なことには、現代日本が置かれている様々なIssueを、「上手に課題として切り出して、回答可能な問題に近づける能力」、これが求められます。これが後に再度述べる、「問題を作れる」能力というIssueを扱える人材ニーズです。 問題を上手に提起できるか、これは、企画力/国語力/戦略立案力/であるかもしれませんが、そういういう区分けよりも差しあたり、大事なことは、「目前の問題を如何に、回答可能な問題群に分けて、適切に、それをわかりやすく提示できるか、上手に順番に並べられるか、」です。
3.「生きる力」として、大事になっていることは、自分の頭で考えることです。(*) これは与えられた問題に想定された解放で答えを出すだけではなく、別解を求めたり、問題を再度替えたりとする、フィードバックも含むダイナミックな問題の取り組みです。
応用が特に求められる時代だからという点に加えて(→これも少しはありますが) 変化がとても激しく、不可逆(=後戻りしない)なので、その場で判断することが必要になっていることがあります。日本人は、比較的アジア人、欧米人に比べて、判断が遅いという致命的な欠陥を最近は指摘されていますがこのことに関わります。
確かに、失敗してもやり直せるような状況があれば、それを担保する社会の仕組みを手当すれば良いですが、個々で言っているのは、やり直しのきく社会というものとは別で、グローバル社会が、現実として不可逆に変化しているときに、(=世界がまったなしで変化しているときに、)自分たちだけ、違うルールでゆったりと、マイペースで、「まったあり」で変化していれば、歴史からおいて行かれるということです。(**)これが、日本だけの閉じた社会とグローバル社会の一つの著しい違い、あるいは特徴でもあります。ある意味で、二十一世紀に入った今、改めてReviewされて出てくる「生きる力」として必要な側面だと考えます。 この点を適切な分解能を持った言葉で切り出し学びにつなげることが必要になっています。
(*)実はここが工夫のしどころ、ある意味で、ここが書きたいことがあるかが、分析することに価値があり、その議論戦略に説得力があるかの分かれ道。個の高3として書きましたが、提案として切り出しても良いデスが、考えも多少はあって前項の続きとして書いていきます。
(**)
アジアの先進諸国の経済発展や、IT化、電子化といった技術変化の激しい時代が到来したおかげで、知識が陳腐かするスピードが速くなって、都度、応用・工夫して対応するところの「応用・工夫して」が極めて多岐に亘っています。、また、採算性が極度に変化して、国内で産業が全く成り立たないような条件等のような、これまでの日本では想定していなかった部分が勝負処になっています。欧米人はそのことも含めて、様々な枠組みで競争をしていますが、かれらに負けないで、様々な階層の思考を行き来して、ビジネス判断ができる人材が、理系文系に関係なく、求められることになります。これが「生きる力」の今日的な知的なありようとして、新たに加わります。
(この項、記載終了)
離陸さん、そして信頼感さん、
・・・ついさきほどですが、求められている「生きる力」の定義について③を書きましたが、
1996年7月19日第一次答申の「生きる力」定義が2008年1月17日の中教審答申「幼稚園、小学校、中学校、高等学校及び特別支援学校の学習指導要領等の改善について」に反映されており、H23年4月(つまりこの春)からの中学校、高等学校H25年度入学生からの学習指導要領改訂のバックボーンな訳なので、とても重要な部分と個人的には考えています。
信頼感さん、
なお、信頼感サンの発達段階の議論は、わたしにはありがたく、「生きる力」の提案から、例えば「学びの中身」・・教科別目標・総合学習での目標・部活でカバーされる要素」を、今度は、発達段階を注意深く考えた、タイムラインでの学びのプラン作成という段階になると、見ている為です。そういう考え方で、まずは、議論のフレームを考えてみて造っているので、子議論を軽視しているわけでは決してありません。今、議論させていただいていないわたしの考えはそういう理由ですので、お許しください。この部分の議論内容についても見ていただければ幸いですが。
(*)
<新学習指導要領、全面実施です>
小学校:平成23年4月~ 中学校:平成24年4月~
高等学校:平成25年度入学生から(数学及び理科は平成24年度入学生から)
幼稚園の新教育要領:平成21年度~
特別支援学校の新学習指導要領等:幼稚園、小・中・高等学校に準じる
離陸様
>ゆとり教育の目指す目的がここまで明確であったにもかかわらず、実際は、総合学習が運用に置いてうまく機能せず、教科学習内容の削減が強調されてとん挫して、この方針が見直されました。それは、実行計画が現場での先生と生徒の授業でどのように「生きる力」を子供に芽生えさせるか、末端まで具体的な指針として落としこまれずに、「生きる力」の理念が浸透しなかった、ことにあります。
仰る通りだと思います。「ゆとり教育」が上手く機能できなかっただけだと思うのです。「ゆとり教育」の理念そのものがダメだとは思えない。詰込教育時代より学力低下は多少あっても、創造性と解決力を身につけるはずだった。しかし、学力、創造性共に低下してしまったという印象です。「個性の尊重」は決定的に運用ミスだったと思います。本来、自律したものだけに与えられる、自由と個性を自律していない子どもにも適応してしまったわけです。我儘、怠惰という本来、個性と扱わない気質まで肯定してしまったところに大きな問題があったと思います。
結果的に我儘、怠惰、短気が個性というお墨付きを得てしまったと感じています。
更に、放任主義(ネグレクト)を個性尊重の免罪符にも使われてしまいました。
本当に「個性の尊重」を目指すのであれば、少なくともコールバーグの第5段階の道徳性を共有する必要があると感じています。つまり、道徳的規準を自律して持ち、その上で「個人の権利の尊重が社会的公平性を担保しているか」の認識、また、公平でなかった場合、それを是正する意志があること。このレベルの道徳性が必要条件だと思います。
量的様
>今、議論させていただいていないわたしの考えはそういう理由ですので、お許しください。
いろいろかき回してスミマセン。
>日本人は、比較的アジア人、欧米人に比べて、判断が遅いという致命的な欠陥を最近は指摘されていますがこのことに関わります。
>確かに、失敗してもやり直せるような状況があれば、それを担保する社会の仕組みを手当すれば良いですが、個々で言っているのは、やり直しのきく社会というものとは別で・・・
以前から思っていたことなのですが・・・
判断が遅い理由として「責任を取る」=「社会で再生できない」という危機感が過大にあるからじゃないでしょうか。「失敗してもまたやり直せる」←「無責任」ではなく「責任を負う者への権利」だと思うのです。
アイエンガー教授の「選択」授業でも「二度とチェックアウト出来ないホテルならいくら豪華であっても招待を受ける人はいない」。二度と社会で再生できないと判っていれば、責任者は決定しないという選択をすると思うのです。「成功」の反対は、「なにもしない」=「失敗しない」と同じ考えです。
意志決定のスピードは、罪と罰のバランスで成り立っているように思うのですが・・・。
ちがいますかね・・・。
もちろん、文化的背景も大きな理由ですけど。
地域、時代さん、
シルバースプーンさん
シルバースプーンさんのお名前の件、お詫びと御礼がおそくなりました。あのあと、まじまじと、T-falのフライパンを取り出して
眺めていました。(まじです)
・・数日前に、リーダーシップについて書かれた中で、とてもリアルに感じられる部分があり、その感覚をお持ちの地域、時代さんが
③の「生きる力」の表現部分をどう見ておられるか、が興味あります。お暇なときにコメント頂けたら嬉しいです。
それとコロンビア白熱教室の議論も、今全く手が回りませんが、白熱シリーズの中でも、大変に興味がありますので、キャッチアップして、混ぜていただけたらと思ってます。そのときはよろしくお願いします。
【2450823】 投稿者: 地域、時代(ID:mgYwa0hRWeU)投稿日時:12年 03月 01日 02:03
一番見ているのはどこか?と言われれば、私の場合、支えてくれる側にまわってくれている人達の、キャラ、発信の方法、そういう部分を大切にしていきたい、そんな風に思っています。
それに、自分が極力合わせていき、出来るだけその人の力が最大限生きるように。
また、その人がやった事は「00さんが中心になって~」と、明確に周囲に語ります。
(基本、ギャランティー仕事の人間の集まりですので、企業の方達とは少し集団の編成が異なりますが。)
ポートキー様
>私は、その時にとても理不尽な気持ちになったものですが、その時は母親の言う事を聞きました。
ポテンシャルを感じさせるエピソードですね♪
>その時の理不尽に思った感覚が、今、この話題を読んだ時にふっと思い出されました。もしかしたら、しつけの方法論が、日本人と欧米人は根本的に違うような気がするのです。
それもあるかもしれませんね。欧米(←こうやって括るを怒られるんですけどね)の躾けを良く理解していないもので・・・ちょっと調べてみます。
シルバースプーン様の儒教に関するお話も大きく関連しているでしょうし。
農耕の始まりが、長く付き合わなければならない「隣人」という存在を生み、争いが始まったとのこと。農耕こそ戦いを激化させたものだったようです。
狩猟が戦いの始まりだったと思っていたので目から鱗でした。
信頼感さんへ、
欧米人とアジア人の優秀な人を見るにつけ、と書く方がより良かったと思います。ご意見ありがとうございました。
単に、職説的名理由である「処理の能力がたりない」のを自覚せずに取り組んでいる人が多いことが、かなりあるのではないか、と今は考えている部分です。
例を3つ4つあげさせていただきます。
最初は、英語というか、それだけではないですが、昔々のある日、外人とのミーティング(電話会議)して、そのフォローアップを日本人でしたときに、「Thank you ,Appreciateを連発していて、良い評価があって、不安がアリながら臨みましたが、ほっとした会議でした」と自己評価が高かったけども、実は答えを間髪入れずに状況説明を的確に入れて結論を導かないから、もういいというわけで、相手はいらだって話題を切られたんだよ。その言葉のトーン聞いてなかったの」みたいなケースがありました。これは狭い範囲での「コミュニケーション能力」の例です。
2つ目の例は、わたしがかつて仕事をした、グローバルの仕事で、アジア人、欧州人の全員でないですが、一部のその分野に長けている人は、なかなかの方々であっというまにキーパーソン間で電話会議をセットして、議論を煮詰めて、パッと結論を出しました。これはバックグラウンドと能力が十分で且つ、英語で負けないように説明できる自身も彼らにあったからだと思います。日本人は結構、その会議では蔭が薄かったりしていました。この例では、失敗に対するとがめは、同じ会社なので、部門違ってもほぼ同じです(この会社は当時グローバル的な評価や賞罰の運用でした)ですので、これもこなせる処理速度の違い(=要求水準にたいする個人能力の余裕度)だと思います。
最後の例は、先生がいじめに対処できずに、コンサーバティブになりがちで、生徒に強く言えない、という問題を議論したときに、ある先生は、それはそんなことがなくて、クレームなり、意見なりに、向き合って、処理できる、説明できるということで考えられれば、意外にできるのですよ。わたしはそうしてきました、という先生に出会ったことがあります。つまり、その方は能力があったので、バッテンがつくなどのマイナス思考で動いておらず、眼中に無かったのだろうと思います。
(あと、信頼感さんがお読みになられているかはわかりませんが、適性さんがご推薦の「宇宙飛行士選抜試験」のグループ課題の中にありましたリーダーシップ、フォロワーシップのところも、実は、その問題をどう見る、という個人作業で差がついていると思うところがありました。そうなると、リーダシップ取るどころではなくなります。・・・このJAXAのし件では、能力無く、リーダーを買って出て「沈没」した例も出ていました。・・採点の結果は、見かけ上、リーダーシップの点が低いという形ででるかも知れませんが、それ以前の問題ということがあり得ます。・・・適性さんはどう読まれましたか?この部分)
それで、とりわけ、日本が「大人の社会で」(=生徒の評価基準・採点基準でなく) 横並びを尊ぶのか、は職種によるのではないか友思います。個人的には、失敗についてはアメリカも欧州も日本も、大失敗なら同じように許容しないと思いますし、日本だけが、特別かどうかはわからないところです。
あと、2番目の例ですが、かれらははーそるが高いIssueになると同じ人かと思う位黙りを決め込むことがあります。
これも、場の空気を読んだり、自分がハンドルできるかを瞬時に判断している事例でもあります。(この辺も身を守るに必須の技術と個人では思うのですが。)
>日本人は、比較的アジア人、欧米人に比べて、判断が遅いという致命的な欠陥を最近は指摘されていますがこのことに関わります。
>確かに、失敗してもやり直せるような状況があれば、それを担保する社会の仕組みを手当すれば良いですが、個々で言っているのは、やり直しのきく社会というものとは別で・・・
以前から思っていたことなのですが・・・
判断が遅い理由として「責任を取る」=「社会で再生できない」という危機感が過大にあるからじゃないでしょうか。「失敗してもまたやり直せる」←「無責任」ではなく「責任を負う者への権利」だと思うのです。
アイエンガー教授の「選択」授業でも「二度とチェックアウト出来ないホテルならいくら豪華であっても招待を受ける人はいない」。二度と社会で再生できないと判っていれば、責任者は決定しないという選択をすると思うのです。「成功」の反対は、「なにもしない」=「失敗しない」と同じ考えです。
意志決定のスピードは、罪と罰のバランスで成り立っているように思うのですが・・・。
ちがいますかね・・・。
もちろん、文化的背景も大きな理由ですけど。




































