在籍生徒の9割が東京と神奈川の学校
受験勉強よりも大切なこと
偏差値第一主義、ペーパーテストの点数さえ取れればいいという考えでやってくると社会に上手く適合できない。では彼らは何が足りなかったのか?
1.相手がどう思うかという「思いやり」
2.自分は完璧ではないという謙虚な姿勢
受験勉強ができる=自分は他人より頭がいい=相手を見下してもいい
という考えのまま大人になるのは非常に危険。思い上がった人間は人に嫌悪される。
将棋の藤井君、囲碁の井山裕太をご覧なさい。圧倒的な勝率を収めても謙虚だ。彼らは自分の力などどれほどのことでもないと思っている。藤沢秀行はこういった。「碁の神様を100とするなら私など2~3ぐらいのものだろう」
隣の小学生より受験勉強ができて灘、開成、桜蔭などに入学できても社会で活躍できなければ意味がない。自分より能力の低い者にいらいらするのではなく彼らを引っ張り上げる、モチベーションを上げさせる努力をしなければいけない。
受験勉強の神様など存在しなくても数学や物理、分子生物学などの神様(今の人間にとって未知なもの)はいるかもしれない。受験勉強ができて東大に入ってもそこで満足するのではなく神様相手に精進して欲しい。
道を誤った彼女は、私がいつも言っている「受験勉強ばかりしていると大切なものを取り落とす」を満天下に示してくれた。私の危惧が的中した。
優秀な受験生を持つ親にとって今回の事件は他人事ではない。
家族でよく話し合い、何のために勉強しているのかもう一度確認すべきだろう。
自分の発言に責任を持たない人の書き込みはすぐ底意が見えるので、間違って共感してしまう人がすでに「存在しない」ということになっている。
次の発言はお忘れですか?
現在どうとらえているのかのコメントが楽しみです。
「小保方さんは公立中出身、早稲田AO入学。でもラクロス部で奮闘。自分のやりたいことを追及して生物学の常識を覆す発見をした。
受験勉強でまんべんなく高得点を取る生徒(受験秀才)が入る東大医学部からノーベル賞が未だなく、自分のやりたいことを追及する資質のある生徒(不得意科目や興味のない教科があるかもしれない)が成果を上げる。
受験秀才は知識の獲得は早いし、暗記力も優れている。でも新しいことにチャレンジしたり何かにこだわる執着心は少ないようだ。結局彼らが一番得意なことは教わったことを忠実に覚えてどこかに吐き出すだけ。オリジナリティーがまるでない。オリジナリティーを産む元になるのは子供時代の感動やとことん何かをやった経験だ。長年の塾通いで感性を麻痺させ小学校を休んで塾で勉強し入学後にまた大学入試目指して走り出す。
こんなことしなくてもいい世の中にしなくてはいけない。潜在力のある子供を中学受験は潰している。学歴主義、偏差値主義が習い性になり東大合格後もまだ駿台模試を受ける青年を産んでいる。親が貴重な黄金の子供の生活を奪っている。
東大医学部は基礎研究でも臨床でも成果を上げていない。 受験秀才を集めているだけでは永遠にノーベル賞など出ないだろう。受験勉強の専門家を排除するためにも理3は全員AO入試でいい。」
>何だろうね。自分が都合が悪くなると殻に閉じこもって世間から逃げてしまう。
そうそう。本当だね。
四方八方から矛盾点を突かれると自分でたてたスレッドを放り出してダンマリになるか、壊れたように同じことを繰り返してやり取りをせず消える。
そしてまたしばらくすると同じ話題でスレ立てをするという繰り返し。
こんなことを10年。本当に殻にこもった思考だよなぁ、動機は・・・
と思いながら遡って読んだら動機爺さん自身の発言かい~
より大切なもの、優先順位ですね。私個人としては仕事、趣味、知識、健康、金、心の順にどれも大切にしています。私の場合は資格職なので学歴は役に立ってますが学歴がなければやれる仕事をやれば良いのです。
一般論としての優先順位は人それぞれなので語っても仕方ないのですが三つのタイプがあると思うのでこれだけ書き込みます。
人は成長していく過程で一人称、二人称、三人称として世界をこの順番で広げます。植物が根、茎、葉、花の順に育つ様にこの順番を変えたりバランスが悪いとおかしくなります。
将棋の棋士は指し手を誰かが教えてくれる訳ではないので一人称(マイワールド)の世界が最も大切です。タイトルをとった棋士の親は将棋が指せないケースが多いのですがこれは偶然ではないと思います。
二人称の世界の始まりは親子関係ですが中学受験組には過保護、過干渉などのケースもあります。親を最優先でも生きて行けますがマザコンが過ぎると良くないのはその通りでしょう。
三人称(組織)の世界の始まりは幼稚園や学校です。一人で楽しめて親子関係が良くてその次に学校があるのですが趣味もなく親から干渉されて良い学校など世間体を保てたとしても歪みが出るでしょう。
政治家や芸能人に人格障害者が多いと感じていますがこれは注目されているからだけではないと思います。
筑駒、開成、桜陰の鉄緑会御三家は倫理観が大きく欠如しているね。
日比谷、西、湘南、県千葉が強かった頃に戻さないと、だね。
金持ちのドーピング鉄緑会頼みで大きく日本のエリート教育が歪められたのは確か。
これから30年、日本がどんどん悪くなる気がするよ。
ガリ勉時代に戻してどうするんだよ。
学校で教養を学び、受験テクニックは適宜塾で取得するのが今のトップ校のスタイルだ。
こう言う教育が社会での活躍に生きてくる。
ガリ勉ばっかりじゃ将来活躍出来る人材は育たない。
↑は実に下らない主張だ。
私筑駒(昔の教駒)出身、上の子日比谷出身(中二で東京に転校したので東京で中学受験が出来なかった)、下の子桜蔭在学。なので、国立、都立、私立が全部揃っているという珍しい(?)家庭。独断での各々の印象を語らせてもらえば、
筑駒:実に自由。と言っても野方図な自由では無く、生徒は先生を尊敬し、先生は生徒を一人前の大人として扱うという緊張感がある自由(ちなみに、中学生徒会が学校と掛け合って制服を無くさせたのは(高校が私服で中学が制服はおかしいとか何とか言って)私の学年です。また、集団生活を乱したり、自分勝手な行動をしたりする奴は。こっぴどく叱られていた)。先生は勝手に自分が教えたい事を教え、生徒は自分のためになることを受け取る。受験教育はほとんど一切無く、大学受験の勉強は個人が勝手にやる。なので、どうして進学率が良いか(昔は鉄緑なんぞ無かったし)、未だに分からぬ。運動部も文化部も充実して、文化祭や音楽祭に命をかける奴もいたりして、実に楽しい学校でした。
日比谷:良くも悪くも全体主義。昔からの伝統だろうか、学校内は上履きに履き替えないので埃だらけで実に汚い。学科によっては答えが無い教材を使い、試験も枝葉末節なことを出すので、平均点が20点とかいう悲惨な教科もあり、あれでは自尊心が粉砕される生徒もいるだろう。文化祭(星陵祭)は伝統なのか強制的に全クラス演劇。役者と裏方に分かれ、夏休みも強制練習で、これが高校三年間まで続く(美女と野獣、キャッツなどミュージカルもあり相当レベル高い)。受験前の高三くらい、筑駒みたいに演劇、お祭り広場、等々自分の希望で積極的にやりたい奴、やりたく無い奴と自由度を与えれば良いと思うのだが。これをやれば、東大合格者数は今の人数から倍増するだろう。
桜蔭:先生方はもの凄く教育熱心。全ての教科で学校自作のプリントを中心に授業し、中学低学年ですでに一部高校の範囲に入っている。試験は全教科(礼法、副教科含めて)筆記で、答案は先生方の詳細なコメントを付けて返って来る。筑駒の教師のいい加減さを思うと、桜蔭の先生方の熱心さに土下座したくなる。これほど学校の勉強が大変なのに、さらに鉄緑に通う桜蔭生は、どれほどの向上心があるのか空恐ろしい。かと言って全員ガリ勉という訳では無く、おしゃれも好きだし、ジャニオタ・アニオタが一杯いるし、誘い合ってディズニーやカラオケやジャニーズショップに行くし、誕プレ交換、バレンタインはチョコの嵐。こういうところは普通の女の子。
分析的な解析が続いている中、個人的な感想ですまぬ。
小保方女史があんなことになって誠に残念。捏造する科学者と見なされてしまってはもう彼女もアウト。
高等教育が本人の意思次第ではなく競争試験を突破した人だけしか受けられなくなって久しい。本来はやりたい人は全員やらせればいい。その中で適性のあるなしが自分で分かりダメな人は去っていくだろう。
長崎海軍伝習所や緒方洪庵の適塾などに入試はあったのだろうか? もちろんある程度蘭学の素養のある人物や学問に適した人物を各藩の上役が選んだのだろうが、本人の意思が一番だったろう。医者になる気もないのに受験勉強の最高峰だから東大理Ⅲを受けるようなことは無かったはずだ。
たしかに身分制度や世襲制のある時代と今は違う。公平に人材を選抜するという意味では入試は必要なんだろう。コネで入学が決まるのは四民平等、民主主義のの原則に外れている。だが、人の推薦というのも人材登用の柱にしてもいい。将棋の名人は将来の名人候補が分かるというではないか。推薦入学で数学や物理をやってもいいのでないか?
家老の子はどんなぼんくらでも家老。足軽の子は足軽。八百屋や大工の子や百姓は決して武士にはなれない。(新選組など例外はあったが)そんな社会では優秀な人材を取りこぼす可能性があるので維新後試験をすることになった。学問をした武士階級が制度を作ったが彼らはペーパー試験より大事なものがあることはよく知っていたと思う。
藩校上がりの修猷館に今どんな気風が残っているかは知らないが、武士としての心得のような(ノブレス・オブリージュ)ものが多少とでも伝わっているのではないか?
それは明治時代に各県に創設された尋常中学も同じだろう。初期にはどういう人物になるべきかという武士道的な倫理が教えられたこともあっただろう。
T議員や篠原さんの振る舞いを見ると某校にはそういう教育方針がないようだ。
戦前の帝国大学、旧制高校、旧制中学には大なり小なり将来は国家有為の人材になり「末は博士か大臣か」という個人の立身出世主義以外に、公への奉仕、リーダーとしての心得、庶民の手本になるという規範があったと思う。
それは私の恩師にも感じたし中曽根、後藤田時代の東京帝大法学部出身者にもあったように思う。民主化後の教育は自分さえよければいいという価値観の人物を量産した。 教育として大切な何かを取り落としている。
公立は雑多でそんなことは無理としても、せめて素材として優秀な者が集まる中高一貫校は東大合格だけではなく公への奉仕の気持ちや人格を磨くことも教えて欲しい。




































