日大明誠が選ばれる理由とは?
英語教育に強みのある共学校がよいのでは?(渋渋、渋幕、広尾学園、都立小石川等)パート2
中学受験予定の保護者ですが、皆さんのご意見をお聞きできればと思います。
学校選びに正解はないというのは理解しつつも、調べていくうちに以下のような考えに至り、男子女子問わず、英語教育に強みのある共学校の渋渋、渋幕、広尾学園、都立小石川あたりが6年間通わせるのにベストな学校と思えてなりません。(塾は別学伝統校の合格数を大きく宣伝するところが多く、ギャップを感じています。)
[英語教育]
まだ若くて言語習得力が高く時間的余裕もある中学生の間に耳と口をしっかり鍛えてくれる学校の方が、将来使える英語が身に付き、成績も後で伸びやすく大学受験でワンランク上の大学に受かりやすいのでは。
渋渋や渋幕は話す書くを重視した英語教育に昔から定評があり、広尾は一般コースでも英語授業の半分がネイティブ教員、都立小石川は2回の海外研修やオンライン英会話実施。
[英語以外の教科]
総論として、上記の学校は偏差値がまだ低い時代から教育内容やカリキュラムの優位性を受験生や在校生(評判に影響)に認められた結果、今では人気校に登り詰めてきている。
加えて、都立小石川はSSHの取り組みが魅力的で、広尾も実験環境が充実。またこれらの学校は座学以外の取り組みが多く、東大を始めとした推薦型入試の合格実績も良好(渋渋は東大総合型合格者数のトップ)。
[人間教育]
一般論として、どこの学校でも学校生活や友人関係を通じて子供は勝手に成長するものであるが、それに加えて自調、自立、立志といったものが上記の学校の教育理念に含まれており、総じて自主性を重んじ、グローバル教育やキャリア教育といったものにも力を入れている。
[異性との関わり]
別学のメリットもある一方で、異性理解や異性コミュニケーションの力を高めるためには共学の方が有利では。思春期に異性と隔てられるより、自然な共学環境の方がよさそうに思える。
[自己肯定感・世間体]
一昔前と違い、上記の学校は高偏差値の人気校になっており、本人も胸を張って入学できるのでは。親世代にも御三家を目指すだけが中学受験じゃないという価値観はすでに広まってきている。
皆様のご意見を伺いたく。
異論反論、大歓迎です。ただし個別の学校批判はなるべく避けていただければと思います。
(※前スレの考えに共感していましたが、問題のある投稿がされたせいか書き込めなくなっていたので、加筆してスレ建てさせていただきました。)
>更に、英語は早期が教育が大切、他の学問はあとでも追いつける。
第一言語を確立しないままでは英語学以外の学問が効率よく身につかないのでは?
そもそも、英語ノンネイティブにとって英語習得と他教科の学問は同列ではないですよね?
学問のレベルが上がれば上がるほど英語の価値はツールという位置付けに下がると思うのですが。
インドやフィリピンなど、高度な教育は英語で、という国も少なくない。
植民地と馬鹿にするが、個人レベルでみると英語ができた方が得に決まっている。
昭和の日本が英語なしで成功できたのは、世界が今ほどグローバルに繋がっていなかったのが原因。
今は世界中が英語環境になり、英語が話せない者人にあらず、という時代になった。
韓国人も英語が上手になった。フランス人も然り。
個人レベルで成功するには母国語より英語。
インドやフィリピン、その他旧植民地の富裕層は幼少期から国外のボーディングスクールに入れたり国内に留まる場合も英才教育をしてますね。勿論家庭内も英語環境で。そのレベルの層は英語が第一言語なので問題ないですよ。
我々と一緒にしたら彼らに失礼です。
英語優先の早期教育を受けた日本の子供達が将来日本を変えていける存在になると本気でお考えで?英語はツールですけど大丈夫?
>学問のレベルが上がれば上がるほど英語の価値はツールという位置付けに下がると思うのですが。
英語を「早期教育で優先するか」「後追いで十分か」といった水準で論じている時点で、すでに視座が狭いのです。
問題は、英語そのものではありません。
学問や研究の価値は、どの言語で表現されるかではなく「何を発見し、どのように世界に接続するか」に尽きます。
言語はその通路に過ぎず、時代ごとに主役も揺らいでいる。実際、科学史を見てもラテン語、ドイツ語、ロシア語と中心は移ろってきたし、今の英語覇権も永続する保証はどこにもない。
AIが既に「翻訳」をほぼ無償化しつつある以上、今後ますます決定的になるのは、母語で深く考え抜ける能力とそこから導いた知を世界に届ける主体性。
英語は確かに当面の必須ツールですが、ただ早期に叩き込めば優位になると考えるのは、数十年前の発想の焼き直しに過ぎません。
インドやフィリピンの事例を引き合いに出すのも本質を外しています。植民地的文脈で英語が第一言語化した層と、日本の子どもたちを単純に比較できるはずがない。そこで見落とされているのは「自国語で学問を立ち上げ、なお国際社会と往還する力」をどう育てるかという次元です。
つまり。
英語教育を巡る二項対立自体が、すでに未来に対しては鈍い問いということ。問うべきは言語を超えて、どのように知を世界と共有しうる人材を育てるかで、その設計図はまだ誰の手にもない。
だからこそ今必要なのは、英語至上主義でも反英語主義でもなく、言語を通路に変える主体の強度。早期教育だの効率論だのに終始している限り、その議論は子どもの背中を押すことにはならないでしょうね。
母国語が日本語というだけで国際社会ではハンデを背負っているわけで、子供にはこんな思いはさせたくないです。
30年前と違い、英語ができなければ、学問の入り口にも立てません。中身が良い悪い以前に、共通言語が使えないと相手にしてもらえないのです。
AIについては、メタさん論破されてますよね。翻訳は技術的に可能であっても、日本語翻訳に投資はされないので、いつまでたっても日本語環境のAIはできません。




































