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理系の進路について
夫の方がいわゆる医学科など理系高学歴の上流家庭なので、子どもを理系と考えていますが、いつごろから勉強をしたらいいでしょうか。理系に強い学校についても教えてください。
ご主張、拝読致しました。
理系大学院では英語文献を読み、国際学会で発表し、英語論文を書き、留学生とも自然と交流が生まれる。。。
それゆえ「英語の基礎はできている」という見立てには、一定の説得力があります。
ですが、だから「大手就職が合理的」と結びつけるのは、飛躍が過ぎるのではないでしょうか。
英語力を「備えている」からこそ、まずは大手企業で保険をかける。
その理屈は、英語ができることを「動かない理由」に転化してしまってはいないでしょうか。
現実には、AI時代の今、翻訳はほぼリアルタイムで実務に適用されています。そもそも今後は語学力が一気に陳腐化するのは間違いありません。
技術者の世界で英語が通じやすいのは、専門用語と数値、パラメータが会話の鍵を握るからで、
それは言語力というより「共通記号の一致」に近い。
ところが、いざビジネス領域に足を踏み入れると、事情は一変します。
中途半端な「なんちゃって英語」は、通じないどころか、誤解されます。
canとcan’tを聞き間違われれば、結果は真逆になる。
皮肉な話ですが、「I can’t」と明瞭に発音するよりも、むしろ「アイ・キャン・ノット」とカタカナ風に言った方が、確実に伝わる場面もある。
こうした感覚を欠いたまま、「英語は訓練されているから、大手で土台は万全」という発想は、どうにも机上の空論です。
加えて「まずは大手で経験を積んでから、世界を広げるのも一つの手」という一節。
この表現に、90年代的な就活観が色濃く残っているのを感じます。
「世界を広げる」という語感そのものが、どこか他力的で、受動的です。
実際には、今の世界を牽引しているのは、「まず自分の看板で勝負する」層です。
「実家が太くないから大手」「人脈がないからまず就職」と言っているうちに、その「ない状態」のまま5年、10年が過ぎ、動けなくなっている例は少なくありません。
事実、いまや東大理III卒であっても、官僚・医師・企業勤務を経由せず、最初からスタートアップや起業に進む流れが定着しつつあります。
藤井輝夫総長が「東大発スタートアップ700社創出」を明言したのも象徴的です。
東京大学でさえ、もはや「安全就職」ではなく、「創造と実装」へ軸足を移している。
私自身、不動産領域のテックスタートアップで事業を動かしていますが、きっかけは、理III卒の兄の同級生が構築した収益システムを、無償で譲ってくれたことに始まります。
彼はすでに必要な額を調達し、新たなステージの設計に入っていた。
だからこそ、そのスキームを惜しげもなく手放すことができた。
未練もなければ、振り返りもない。大手や既存の枠組みに時間を費やすという発想自体が、彼の中には存在しなかった。
もちろん、誰もが彼のようなスキルを持っているわけではない以上、地味で無難な大手を選ぶこと自体が“悪”とは言いません。
ただ、その先にあるのは、精々「失敗ではない」人生です。
「そこそこの勝ち」であり、「何も賭けなかった人生の帰結」にすぎない。
かつてNTTが、外資系コンサルの登竜門とされ、「コンサル予備校」と呼ばれた時代もありました。
しかし、そのルートを忠実になぞったところで、せいぜい「コンサルどまり」。
最初からリスクを取って動いた者には、永遠に追いつけない。
今はもう、「就職しなければ動けない」時代ではありません。
信用・仕組み・情報、それらを設計できれば、個人でも起動できる社会が現実に存在します。
私自身、大手を経由していたら、今の事業は間違いなく成立していなかったと思っています。
「まずは大手で土台を作ってから」と口にしている間に、
その「土台」ごと、社会の前提が変わっている。。。
そんな構造変化への感度を、若い人たちには持ってほしいと願っています。
理系研究室や大手企業の描写、よく分かります。
学生時代から起業したければすればいいと思いますが、会社で社会人としての土台作りや人脈作りを経て、30代40代からでも新しいビジネスはスタート可能です。
普通は誰かが構築した収益システムを無償で譲ってもらえるわけではないので、社内起業システムや副業から始めるのも現実的で賢明です。
あと、やたら起業を褒め称える風潮がありますが、会社の枠組みの中で夢や理想を追い求めるのも十分立派だと思います。
やはり大企業は資金力があり他業種含めてネットワークも構築されてますから、若くともスケールの大きいプロジェクトに参画できるメリットもありますね。
>事実、いまや東大理III卒であっても、官僚・医師・企業勤務を経由せず、最初からスタートアップや起業に進む流れが定着しつつあります。
いやいや、そんなわけないでしょう。
スタートアップも、塾を主体とした教育系以外で、どれだけ起業していることか。
>NTTが、外資系コンサルの登竜門とされ、「コンサル予備校」と呼ばれた時代もありました。
今はGAFA予備校と言われていますね。
>最初からリスクを取って動いた者には、永遠に追いつけない。
こんなことは分かった上で大手企業に就職していると思いますよ。
決して大勝ちしようとしては思っていない、世の中には上には上の人がいると認識しているからこそ、リスクなくそこそこ勝てる道を歩みたいと思っている。
医学部に行きたがる人が多いのも、まさにその典型でしょう。
私自身も高校時代に物凄い人を何人も見て、こんな人たち相手にピンで戦っても勝てないと思い、国内一流大から国内大手企業という無難なリスクの低いルートを選びました。
特別な才能やリスクを冒さなくても、就職する企業選びを間違えなければ30代で年収1000万円、40代で年収1500万円くらいまでは保障されているに等しいですからね。
ご返信、ありがとうございます。
ご自身の「そこそこでいい」という選択に、後ろめたさがないことは伝わってきました。
ただ、あなたが書かれた内容は、厳しい言い方になりますが、負けを前提にした合理化に他なりません。
社会には上がいる、だから勝負しない。。。それは戦略ではなく、いわば思考の停止です。
しかも、その「そこそこ」の経路で手に入る生活が、果たして本当に余裕ある人生なのでしょうか?
たとえば、年収1000万円と聞くと、一見「勝ち組」に思えるかもしれません。
しかし、現実の手取りは約731万円。月あたり約61万円です。
仮に子どもを2〜3人持ち、都心に暮らし、住宅ローンと教育費を抱えるなら、これは「勝ち」どころか、ほぼフルベット状態。
以下に、年収と可処分所得の概算を記します。
•年収400万円 → 手取り約317万円(月26万円)
•年収800万円 → 手取り約595万円(月50万円)
•年収1000万円 → 手取り約731万円(月61万円)
•年収1500万円 → 手取り約1027万円(月86万円)
•年収2000万円 → 手取り約1307万円(月109万円)
年収が2000万円を超えなければ、家族を持ちつつ老後資産まで賄うには、正直カツカツです。
しかも、この水準であっても、決して「富裕層」ではありません。
米国やシンガポール、韓国の都市部と比較すれば、日本の年収1500万は「中の上」どころか、グローバル基準では「やや下」です。
翻って、私は学生時代の家庭教師の収入だけで、年収1000万弱ありました。
粗利で言えばほぼ利益で、悪くないですし、時間単価も9,000〜10,000円。
大学生にしては十分割の良い仕事でした。が、実際は長いと1日10時間近い実働。全然楽じゃなかった。そこまでしての1000万。
もちろん、家庭教師を続けることが目的ではない。
でも、その経験は教えてくれました。
「時間を売って生きる」という働き方が、いかに収益性と自由を両立させられないかを。
あなたが描くのは、「年収1000〜1500万」「上には上がいる」「だから勝負しない」という縮小均衡のルートです。
それを否定するつもりはありません。
しかし、そこに本当の余裕はあるのか?
子どもに十分な教育資金を残せるのか?
想定外のリストラや配置転換にあったとき、立て直せるのか?
仮想通貨の一波やAI革命に乗った20歳と、10年後も肩を並べられるのか?
自らの選択を「合理」と名付けるのは自由です。
でも、それは「賢さ」ではなく、怖さに起因していることが多い。ひょっとして、あなたもそうではないですか?
勝てないから賭けない。
負けたくないから動かない。
上がいるから下で満足する。
そうして生きていくことの危うさを、私は学生時代に多くの家庭で見てきました。
親がそこそこ稼ぎ、そこそこ教育を与え、結果として「そこそこ」の子どもが出来上がる。
その連鎖を、どこかで断ち切らなければならない。
だから私は、「まず大手で土台を…」という発想を拒みます。
動けるうちに動かず、動けなくなることこそが、一番怖かった。
土台などという曖昧な幻想に、時間も才能も奪われていくからです。
最初から勝負する人間が、世界を変えている。
最初から仕組みを作った人間が、個人で法人を超えている。
あなたの中に、それでも残る葛藤があるなら、
その違和感を無視しないでほしいと願っています。
まあ、おそらくあなたより年下の戯言ですけどね。
ご返信ありがとうございます。
戯言ですねのハンネで突き放したつもりでしょうが、戯言と締めた相手に対して、それを言い放つのはなかなか滑稽です。さて。
まず前提として申し上げるなら、私は裸一貫ではありません。実家は三代にわたる医師の家系で、現在は単科病院を営んでおり、いわゆる資本ゼロからのスタートではありません。
ただし、大学入学以降は生活費も学費も自力で賄い、一定の収益を上げながら暮らしてきました。
資産家とは言いませんが、少なくとも階層的な欠如を前提に語られるのは、事実とは異なります。
そうした出自や環境を踏まえた上で、私はあえて、資産に依存せず、自らの思考と行動で立つことを選択しました。
それが裸一貫の土俵入りに映るのであれば、それは寧ろ自分で選んだ構図です。なぜなら資産による安全性が、必ずしも自由や選択肢の多さを担保するとは限らないと考えていますから。
マルクスを引かれたようですが、資本論的な世界に居住し続けるか否かという話ではなく、問題は、いかに資本と向き合い、それを再配分し、活用し得るかというフェーズに来ているのではないでしょうか。
また、お気に障る場合/障らない場合と、予め相手の反応を予測して記すスタイルは、ご自身が揶揄されていた合理化そのものに限りなく近いのではないでしょうか。
人生、時に資本を持たない者の一撃のほうが、ずっと深く刺さるものです。
そして、思考ではなく想定による予防が働いた時点で、論理を深めることよりも、感情を避けることが目的化している。そのスタンスでは議論は発展しません。
まあ、そもそも議論するご意志があるようには見えませんでしたが。
最後に。
階層という軸で相手の選択や価値観を一義的に片づけようとする態度は、資本主義社会における構造的なフラット化の潮流に、逆行するものでしょう。
今という時代の臨場感においては、資産があるか否かよりも、それを動かせる人間かどうかのほうが、よほど本質的な違いを生んでいる。
だからこそ私は、資産の有無に関係なく、一人の個人として、どこまで動けるか、何を変えられるかという観点で生きています。
静けさの中で響くものは、時に言葉より雄弁です。どんな立場からでも、見えるのは結局は自分の地平だけ。
では、引き続き健闘をお祈りします。






























