今年入学した高1生が語る青春リアル
東京大学が国際系新学部設立→国際系の学校が人気に?
東京大学 新学部開設:2027年秋
新学部名:「カレッジ・オブ・デザイン」
入試概要:
A方式(50名)
*大学入学共通テストの結果
*高校の調査書(または成績証明書)
*エッセー
*東大が指定する英語試験の結果などの書類
*英語による面接
B方式(50名)
*東大が指定する国際的な統一試験の結果
*複数の提出書類
*英語による面接
特定学校の誹謗中傷は厳禁でお願いします
欧米の先進に食らい付くための従来型教育の旗色が、どうも悪いようです。そのような評価あるいは貶価のプロセスで思い起こしたいのは、追い付け型、と申し上げておくと、その型の教育隆盛の只中から産まれた、国際的な日本製商品の数々です。中東を疾走する日本製実用車を、もっと、誇ってよいのではありませんか。課題としての日本教育展望は、この点の自負を欠いてはならないと思いますが、いかがでしょう?
西千葉さん、ありがとうございます。
短いながらも、社会に出てまで、偏差値だ倍率だという表層に目を奪われて右往左往のアリの如き烏合と違って西千葉さんの問いに安心しました。
仰る通り、追いつき型教育の只中から生まれた国際的な日本製品の数々は、誇ってよい歴史的成果です。中東を疾走する日本車の姿は、単なる追随ではなく、独自の工夫と粘りの積み重ねが形となった象徴に他ならない。そしてタフネス、ヘビーデューティという価値はその日本のモノづくりの真髄たる副産物で、アティテュードの結実だと思うのです。
その視点の欠如は、教育論議を語る上でも大きな損失だと感じます。
少し無関係に聞こえるかもしれませんが。。。
先日、いつもの通り道の脇にある、しかも狭い階段を登って入る、入りづらい喫茶店に入った。つまり、入店しない限り、店の雰囲気が全く掴めないギャンブル。
念の為に確認した、食べログ3.0台。普通なら却下案件。
が、その日は何かに誘われて、セレンディピティに賭ける事に。
これが大正解だった。
古い喫茶店の雰囲気の良さ、マスターの落ち着きのなさ(笑)、そして何より絶品サンドイッチ。
そのギャップ、純粋な美味しさにやられた。個人的には4.0。もっと高くてもいい。
早速、家に帰って絶品サンドイッチを再現。
さすが料理上手の私(自画自賛)、8割の再現度。
が、全然っ違う。その2割が大きな差異を生み、味を左右する。
付け焼き刃の試行錯誤ではどうしても埋まらない、味は別物になってしまう。その差は、配合の妙や長年の試行錯誤が生んだ「時間の層」だと気づかされる。
この気づきは、教育や社会の在り方にも重なります。偏差値や出口の数字で「8割」までは追いかけられる。だが、残りの「2割」に宿る経験と蓄積の厚みこそが、本質を形づくる。
その2割を侮り、数値に還元してしまったとき、人も制度も味気なく、薄っぺらなものに堕してしまうのではないでしょうか。
教育とは、まさにその2割を抱え続ける営みのはずです。数字に映らない微妙な差異、時間の重なり、不可視の蓄積。それをどう継承し、次の世代に渡していくか。その問いを考えることが、今の日本に最も必要なのだと思います。
数字では3.0と世間で評される喫茶店のサンドイッチが、実際には4.0の価値を持つように。
出口や倍率に還元されることのない教育の営みも、同じです。
西千葉さんが示された「誇るべき成果の記憶」と「そこから次を問い直す姿勢」に、あの喫茶店で学んだ小さな真理が重なりました。
教育とは、まさに数字を超えた「2割」の宇宙を抱える営み。
その小さな違いを大切にできるか否かが、未来を大きく分ける。
そんな思いを、再現の試行錯誤に散らかったキッチンを前に思う午後。平和だ。
巣鴨、桐朋、桐蔭、学芸、ラサールなど、伝統校も胡座をかいていると進学校から脱落する。
中等教育の醍醐味は保護者の教育ニーズとこれからの社会に必要となる人材を育成していくことが不可欠。
10年以上前に、渋幕、渋渋、広尾などが御三家をゴボウ抜きするなんて誰も予想できなかったはず。
今や広尾小石川、三田国際、開智日本橋や開智所沢など、国際、探求、理数教育などを掲げる学校が次々と台頭している。
秀英のような学校でも、国際、探求、理数を柱に教育改革をするというように、従来の学校でも次々と改革している。時代の流れと教育ニーズを踏まえた学校選択は不可欠では。
偏差値や出願者数に拘るのはどうかと思うが、保護者の教育ニーズや時代の変化を知ることができる点で参考になる。
今年の出願者数増加ランキング
埼玉県
開智所沢 6569人増加
開智 5523人増加
淑徳与野 524人増加
開智未来 367人増加
栄東 314人増加
と埼玉県の出願者増加数が桁違いに増えている。増えた学校は淑徳与野が医進コースを設置して人気となった。栄東もアクティブラーニングで特色を打ち出している。
開智系は探求、国際、医進などのコースを設定して、昨年に引き続き、爆発的な人気となっている。
埼玉県の出願者数が増えた学校はすべて探求学習など、特色のある学校であり、保護者の教育ニーズに応えている。
しばらくROMを決め込んでみたが、やはりエデュお約束の偏差値や倍率の数字のコピペで群がり、議論はいつもの狭い渦に矮小化していく。予想通りの光景。日本がグローバルの舞台で凋落してきた要因の縮図を見ている気さえする。
東京の一部学校の志願者数や倍率を追うことに、どれほどの意味、そして価値があるだろう?
麻布、開成、桜蔭。。。数字の上下に一喜一憂するのは斜陽日本の都市市場の動きに過ぎず、日本の教育や社会の未来を映すものではない。「東大新学部ができたから国際系にシフトするか」といった問いも、所詮は数合わせを占うブックメーカーの様な野次馬に過ぎない。
問題は東京だけにあるのではない。地方を軽んじ、資源を一点に集中させる思考回路そのものが、日本の国力を削ぎ、教育の多様性を殺いできた。その視点を欠いたまま倍率や偏差値に囚われることは、未来の人材を見誤ることに他ならない。
教育と研究の価値は、市場やブランドの変動で測れるものではない。問いを立て、答えのない課題に挑む力。社会の実態を読み解く柔軟な知性。変化に応じて自らを更新する人材。そうしたものこそがイノベーションと変革を生む。
では、具体的に何をすべきか?
教育機関は、知識の伝達に留まらず、問いを立て挑戦する機会を制度として保証すべきだ。地域や企業、海外とのネットワークを活かし、研究者や教員が現場の知見を子どもに還元する仕組みをつくる。地方の学校にも同等の学びの場を提供し、地域固有の課題を題材に子どもが自ら解決策を考えるプロジェクト型教育を広げる。大学や企業は人材の流動性を高め、学問と実務の往復を可能にすることで教育と社会の接点を増やす。
桜蔭OGとして言えば、教育の価値は数字やブランドに宿るのではない。
倍率、定員削減、東大合格者数。そうした数字に群がり、不毛な議論にもならぬ戯言と誹謗の応酬に延々と興じる様子を見ていると、どこか薄寒さすら覚える。桜蔭の空気の中で六年間を過ごした者にとって、そんな表層的な揺れに学校の価値を還元する視線こそ、むしろ狭く息苦しい。
桜蔭が育んできたもの。それは合格実績のために競争心を煽ることでも、ブランド維持のために倍率を操作することでもない。礼法も家庭科も、すべては「人としての基礎を徹底して磨く」という哲学の表れ。教養と規律、そして自由。その土台の上で、それぞれが自らの道を歩んでいく。まさにそれが桜蔭の本懐。
東大合格者数が増減しようが、偏差値が上下しようが、その根は揺らがない。外からは地味に見えるかもしれないが、内にいた者は知っている。桜蔭という場の強さは数値の動きには還元できない、と。
晁桜の同窓生にとって、この不毛な応酬はただ水面の細波にすぎない。その遥か下には、変わらぬ水脈が流れ続けている。その静けさと強靭さに、私たちは誇りを抱いている。
本当の強さと価値。それは世界を知り、問いを立て、変化の中で自らを更新していく力にこそある。
東京の数字、しかも私立中学の、特定学校の倍率などと言う、宇宙の中の砂塵の一粒に踊らされる事なく、地方、地域、制度、個々人の主体性を包括的に見据えること。
問いを立て続ける視座と、それに応える仕組みを築くこと。これが、日本の教育と社会が未来を失わないための唯一の道。
勿論、神は細部に宿り、巨大建造物が小さな傷から瓦解する様な視座を軽視するつもりはない。
が、このスレッドで語られてきた視座と議論の内容からすれば、特定校の倍率の数年の推移に捉われている様はあまりにかけ離れていると指摘したまで。
目の前の出願者数や倍率は、ほんの一瞬の指標にすぎない。その先に何を見据え、何を育むか?その問いだけが、静かにして、しかし確実に、残響する。
砂で描いた模様のように消える倍率や合格者数、けれど問いを刻む歩みは、決して消えない。
ほんの一瞬の数字に揺らぐことなく
奥で続く水脈を聴きとる耳こそが試されている。
東京の出願者数増加が最も多かった中学は、芝国際の754人増加。その他三田国際の281人増加など、こちらもインターコースなど特色を打ち出している学校に志願者が集まっている。
全体的に共学校に出願者数が増加した学校が多く、男女別学は、出願者数が増加している学校は一部に限られている。
このように、東京も埼玉も探求や国際など打ち出す学校に出願者が増える傾向にあり、それが偏差値の上昇に繋がっていく。
御三家の80%偏差値が高く、50%偏差値が低いのは、志願者数が少なく、実質倍率が低いから。
80%偏差値と50%偏差値の乖離が大きい学校の共通点は志願者数が少なく、実質倍率が低いという特徴がある。
それと国公立のような特色入試をしているところも80%偏差値と50%偏差値の乖離が大きい傾向にある。学校の書類などが入試に影響するような学校は偏差値は参考程度になる。
近年、筑駒が多くの辞退者を出し、開成の合格者数は過去最高にもかかわらず、補欠合格も過去最高レベルになっており、もはや偏差値だけでは学校を選ぶ基準にならなくなっている。
中学受験の出願数や学校間のシフトの話が盛んですが、こうした数字の変化は本質的な意味ではほとんど無力です。
御三家や広尾、三田国際の動向を追いかけることは、まるで水面の波紋に一喜一憂するようなもので、根本的な潮流を見失わせます。日本の市町村の四割が消滅する現実を前に、どの学校が増え、どの学校が減るかを議論すること自体、野次馬的関心に過ぎないのです。
教育の本質は、都市の名門校のランキングや偏差値の上昇にあるのではありません。
地域に生きる子どもたちがどのように世界と関わり、社会に価値を生み、地域の文化や知を受け継ぐか。そこにこそ教育の意味があります。東京に身を置いた私の経験からしても、地方と都市の格差は単なる経済の話に留まらず、教育の未来そのものを左右する深い構造問題です。
学校がどれだけ国際化や探究を打ち出しても、子どもを取り巻く社会の持続可能性が失われれば、育まれる未来は幻にすぎません。
もちろん、渋幕や広尾、開智といった学校が果敢に教育改革を試みる姿勢は称賛に値します。しかし、私たちは数字の変動や改革の表層だけで安心してはいけません。
教育を語るなら、制度、地域、人口、社会経済、文化を一体として見通す必要があります。学校の選択や偏差値の上下は、変化の兆候に過ぎず、問いの本質はそこにはありません。
私はこう問いたい。東京で揺れる教育市場の喧騒に耳を傾けるだけで、私たちは本当に日本の教育の未来を見ているのか?
地方が消え、社会構造が変容するなか、学校という器は、単に存在し続けるだけでは意味を持たないのです。教育は、どの地域に生きる子どもも、社会の変化に適応し、価値を生み出す力を培うことにこそ、使命があります。
目先の倍率や出願者数の増減に囚われるのではなく、日本の教育の行く末を支える構造を見据え、持続可能な価値の創造に目を向けること。
そこにこそ、私たちが読むべき景色があり、問い続けるべき未来があります。数字の裏に潜む静かな崩壊の気配に目を閉ざすなら、教育は単なる市場競争に還元され、次世代は確かな基盤を失うでしょう。




































