今年入学した高1生が語る青春リアル
東京大学が国際系新学部設立→国際系の学校が人気に?
東京大学 新学部開設:2027年秋
新学部名:「カレッジ・オブ・デザイン」
入試概要:
A方式(50名)
*大学入学共通テストの結果
*高校の調査書(または成績証明書)
*エッセー
*東大が指定する英語試験の結果などの書類
*英語による面接
B方式(50名)
*東大が指定する国際的な統一試験の結果
*複数の提出書類
*英語による面接
特定学校の誹謗中傷は厳禁でお願いします
配偶者が地方公立進学校出身ですが
そもそも学校の判断基準が偏差値と大学進学実績しか無いんです。校風とか本質的教育とか言われても、自分の経験していないものは分からないのですよ。目に見えないものですしね。
なので学校選びの基準は基本的にその2つ。
でも英語教育とかグローバルなんたらとか言う
ワードは何故か刺さるみたいです。
何故なんでしょうね?不思議。
うーん、地方公立進学校に校風や本質教育が無いというのは偏見だと思いますよ。
なぜ無いと思うのか不思議です。
無いわけないと思うのですが。
私自身は地方公立進学校出身ではないけど、知る限りでは、校風はありますよ。
同程度の偏差値の学校が複数あって、好みに合う校風の学校を選んだりしますよ。
都立高校に校風があるのと同様です。(都立の具体的な校風はよく知らないけど)
公立の場合、創立者が定めた教育理念や教育目標に沿って生まれた校風ではなく、集まった生徒たちから自然に生まれて受け継がれてきた校風だというところが私立との違いではないかと思います。
本質的教育とは大学受験のための勉強ではない教育のことだと思いますが、それも地方公立進学校にもあるんじゃないですか?
大学受験のための勉強しかしない学校があるとは思えません。
凡人さんの指摘には深く頷かざるを得ません。上位層の一握りが持つ知性や判断力は、確かに一度触れれば後は自力で広がっていくものです。しかし、このスレの喧騒は、まさにその余力のない層が目先の学校や倍率に踊らされ、数値の浮沈に一喜一憂する典型です。
とはいえ、西千葉さんはそのクラスにしても、私は凡人です。大学受験時は勉強で[削除しました]るほど勉強しましたが、第一志望には届かなかった。努力の天才と評されたこともありましたが、やってみての実感として、努力に天才も凡人もないのです。と、私の話は置いておくとして。
前述の#FR2の石川涼さんの話(https://www.fashionsnap.com/article/ishikawaryo-fr2/)
彼は創業当初から日本市場の反応を無視し、世界で通用する価値を追い続けた。うさぎのアイコンと過激なプリントだけのブランドに見えて、その根底には「自由度」と「時間の厚み」を計算せずとも取り込む姿勢があります。国内の小さな成功や評価に縛られないその視座は、教育や制度に欠かせない余白の象徴のように感じられます。
御三家や附属校で醸し出される空気感、時間の蓄積は、数字には現れない「2割」(喫茶店の絶品サンドイッチを再現したら8割は再現できたけれど、残り2割がどうしても再現できないという単純な体験から生まれた概念です)を抱えています。新興校の謳う国際や探求も、教育の本質に触れる前に表層のスローガンに終わることが多い。目の前の倍率や偏差値に惑わされるのは、石川さんの言う「日本人の動向を追いかけているだけ」の状況と重なります。
教育も企業も、目先の成功や評価にとらわれず、経験と蓄積の厚み、そして自由度を守れるかが全てです。その「2割の違い」を見抜き、育て、次に手渡すこと。それが未来の日本に必要な本質的判断であり、残される価値です。目先のランキングや出願者数の増減で一喜一憂するだけでは、この本質を見逃すでしょう。
掲示板の喧騒を遠くから眺めると、小川のせせらぎに浮かぶ泡のように見えます。その泡のひとつひとつには物語があるかもしれませんが、水面の揺らぎの前では、真に深い流れを見失いがちです。教育の時間の厚み、自由度、経験の層。それらを見据え、未来を形作る行動を選ぶ者だけが、やがて泡ではなく確かな流れを掴むのです。
私自身、御三家出身ですが、やはり最大の価値は学友です。学校が特別なことをしてくれるわけではなく、自ら考え行動する生徒たちが育み紡ぐ空気が「校風」となり、その積み重なりが歴史となって、伝統へとつながる。新興校に特に感慨はなく、追いつけ、追い越せの勢いには感心するものの、見下したり、上位風を吹かすことはありません。
しかし、学校側が過剰にレールを敷き、強制的に導きすぎるのも問題です。等々力のTQ(Time Quest) ノートの例、10年でMARCH5大学の合格者を53→463と8.7倍に増やした実績を見れば、学校の積極的施策は有効であることも明らかです。けれども、上位であればあるほど、自主性や自発性に重きを置くことが重要だと思います。
結局のところ、教育の本質とは、経験と自由度の重なりの中にあり、時間の厚みを抱えた「2割」をいかに育て、次世代に渡すかに尽きます。目先の成果や数字に踊らされず、その宇宙を守り、育てる者だけが、未来に確かな流れを残せるのです。泡が流れを見失わぬように、自らの手で流れをつかむ—それが、教育を生き抜く者の唯一の道ではないでしょうか。
英語教育、と聞くとソワソワしてしまう風潮の源とも思われる光景に出逢いました。 自宅に冷房が無いので、さすがに今年は避暑として、何度か東京駅の八重洲口地下街で過ごしました。雰囲気より味、のカフェを確かめながら気付いたのは、英語で笑い合う外国人と日本人の連ればかりでなく、日本人同士のそれ、も街区やバスターミナルで見たものでした。そんなヤエチカの事例が、新幹線と高速バスによって全国へ伝わると、どう成り得るのか。極端なところでは、東京では日本語が通じない、という過剰反応でしょうか。そのような懸念があるいは、各地に公立中等教育学校設立を促迫する下地を作らないでしょうか。思えば幕末に、浦賀への黒船4隻来航が、京都では100隻、と伝えられた、といわれます。もちろん、今は同時通信の媒体が発達していますが、そうであればなおの事、情報受け取り手の分析力が試されています。
義務教育の子を連れて海外に教育移住したり
国際系を謳う一貫校に入れても、なんだかんだ国内難関大入学が目標だったりしますね。
某校の東大見学セミナーとかわかりやすい。
世界に羽ばたきたいって生徒は実はそんなに多くはない。帰国生はまあ色々だけど。
英語は難関大へのパスポートという現状。
目に見えないから「偏差値と大学進学実績だけで学校を選ぶ」という話を聞くと、正直、受験の現場としてはかなり単純で浅薄に思えます。むしろ、そういう思考をしている方がマイノリティではないかと思います。
私自身の経験で言えば、小学校時の中学受験でも、数字はもちろん意識しましたが、それだけでは選びませんでした。在校生の声を聞き、実際に学校を訪れ、先生方とも話し、総合的に判断しました。
東大時代、都立出身の学生もいましたが、人数が多く、関係性の密度が薄いためにカラーや校風を感じることはあまりありませんでした。それでも、同じ学校の学生同士で自然とつるむ都立生には、ある程度の特色を感じることはありました。
一方、名古屋大学医学部医学科では状況がまったく違いました。少人数で、地元東海地区の公立上位校出身者がある程度固まって入学してくるため、それぞれの学校の「カラー」が非常に鮮明に見えました。旭丘高校出身の学生はやや個性的でクセ(良い意味ですよw)がある子がいたり、岡崎高校出身者は真面目タイプで天才肌が多いなど。こうした観察は、単なる偏差値や合格実績からは絶対に読み取れません。
以前、私がこの話をした際には「出身校でそんな傾向なんて存在するはずがない」と強烈に否定されましたが、私個人が感じた私的感覚を否定される筋合いはありません。アンチ校風、校風否定派という派閥がいるようですが、笑って受け流すしかありません。
つまり、目に見える数字だけで選択するのではなく、経験と観察、実際の空気感を取り込む姿勢こそが、教育の本質を理解する鍵だと思います。「英語教育」や「グローバル」という表層的な言葉に一喜一憂するだけでは、この本質を見逃してしまいます。
抽象的なキャッチコピーが刺さる方もいますが、言葉の裏にある教育の空気感や時間の厚みを見極めてこそ、本質に近づけます。そこに関心がないのであれば、そもそも書き込みすら不要だったのでは、という気もします。
要するに、目に見えないものを意識して選び取る経験こそが、教育の本質を理解するために不可欠です。偏差値や合格実績だけに目を奪われ、表層の言葉や宣伝文句に踊らされる選択は、教育の本質から遠く離れてしまいます。




































