在籍生徒の9割が東京と神奈川の学校
受験学力以外のもの
受験学力を上げるためにせっせと予備校通いして青春時代の貴重な時間を費やすことに意味があるんだろうか?
共通テストレベルで基準点が取れればもう受験勉強点取りレースはやめて、部活や運動、読書、趣味などに時間を使った方が将来有望な大人が出来るのではありませんか?
アメリカのようにAO入試で本人のやる気や将来性、適性見て入学させる方が良い人材選べるのでは・・・と思います。
日本のGDPは、中国、ドイツ、インドに抜かされ、世界5位に墜落。市場価値でトップ50企業に日本企業は一つもない。研究力は3年連続世界13位と落ちるところまで落ちている。
今までと同じことをしていたら、下がり続けていくだけ。
現在の一部の日本企業の活躍が子どもたちが退職する頃の約50年後も持つと思う?少子化は凄まじく日本のマーケットは縮小し続け、日本企業は日本人を採用することもできなくなる。
しかも日本企業は世界でも最も人気がなく、世界の優秀な人材が採用できない状況で日本人も少子化で採用できなくなるんだよ。日本の大企業への就職は子どもたちにとって最もリスクが高い。
答のある問題を解くことができるだけの人材を大学が選抜する時代は終わり、
もはや総合型選抜や学校推薦による大学入学が半数以上となっている。
答のない課題を設定し、その課題を解決できる独創的な取組をする能力、創造力などを評価して選抜する。大学のアドミッションポリシーに基づく学生像にあった人材を選抜すべき。
大学はマッチング。決して偏差値順に合格するゲームにしてはならない。AIが東大入試でほぼ満点取れるのに、それを競わせるのは愚の骨頂。
答のある問題を解くことができるだけでなく、答のない課題に挑戦する人材を選抜すべき。
各個人の関心、好奇心、探究心をもとに大学や学校はその個性をのばすサポートに徹する。それが本来の教育。
うーん。
アサイーボウル。
答のない問題という言葉が出た時点で、もう既にパターンマッチングの網に絡め取られている。
答のない問題は、実は教育の世界では昔から存在している。研究も、起業も、政策も、すべて答のない問題。
しかし、その入口に立つためには、基礎学力という極めて答のある領域を通過する必要がある。
つまり、答のある問題と答のない問題は対立関係ではない。地続き。連続した地平。
さらに言えば、答のない問題を評価するという発想自体が、すでにパターン化されている。
探究活動
課題設定
独創性
こうした言葉が並んだ瞬間、評価のテンプレートが生まれる。そして対策産業が成立する。言葉にした時点で探究でも独創でもないんだよね。
実際、総合型選抜は既にそうなっている。
探究活動の外注
コンクール実績の量産
ストーリーの設計
答のない問題どころか、寧ろ高度にパターン化された選抜に近づいている。
さらに本質的なのは、創造性は短期間で評価できるものではないという点。
創造性は、知識の蓄積の上に生まれる。
基礎がない創造性は、単なる思いつきに近い。
だから世界のトップ大学ほど、実は基礎学力を重視している。
AIが東大入試で満点を取れるという議論も、少し論点がズレている。
AIが満点を取れるのは、人間の思考を代替しているからではない。膨大な知識とパターンを処理しているだけ。つまりは「作業」なんだよ。
そして、それを使いこなす人間側にも、同様の基礎力が必要になる。
むしろAI時代は、
答のある問題を解く力
答のない問題を設定する力
両方が必要になる。
どちらかを否定する議論は、少し単純化しすぎている。教育の本質は、答のある問題から始まり、答のない問題に到達する過程。
それを対立構造で語った瞬間、答のない問題という言葉そのものが、最も分かりやすい答になってしまうパラドクス。
答のある問題を解くことができるだけでなく、答のない課題に取り組むとともに創造力ある人材等を選抜すべきと言っている。
答のある問題を解くことができるだけでの筆記試験で選抜すべきではないと言っている。
松下村塾が日本の歴史を変えた人材を多数輩出したのは、決して答のある問題を解くことができるだけの人材教育をしたわけではない。過去や今までの体系的な知識等を学ぶことは必要だが、そこが重要なのではない。
あなたはどう考えるのか、何を志すのか、等を問い続けた結果。世界で日本が負け続けているのはなぜなのか、良く考えてみよう。
論点は理解しています。
ただ、その前提の置き方自体が少し単純化されていると思います。
まず、答のある問題だけで選抜すべきではないという点は、多くの人が共有している。
問題は、答のない課題を選抜の中心に据えたときに、本当に創造性を測れるのかという点。
現実には、そこが最も難しい。
創造性は長期的な成果として現れるもので、短期の出願書類や面接で判定するのは極めて困難。
結果として、ストーリー性やプレゼン能力、環境格差が強く反映される。
つまり、理念は正しくても、選抜として機能するかは別問題。
松下村塾の例も、少し文脈が異なる。
あれは選抜ではなく教育。
しかも少人数、長期間、人格的関係の中で行われた。
大学入試は大量選抜。
短時間で公平性を担保する必要がある。
この二つは構造が全く違う。
さらに言えば、松下村塾の門下生も、和漢の古典や兵学など基礎知識を徹底して学んでいる。
決して知識軽視ではない。
寧ろ、強固な基礎の上で志を問う教育だった。
そして、日本が負け続けているという議論も、単純に入試制度に帰着させるのは難しい。
産業構造
人口動態
為替
地政学
技術投資
複合的要因が絡む。
入試を変えれば解決するというのは、やや因果を単純化しすぎている。
寧ろ重要なのは、
基礎学力を担保する選抜
多様性を確保する選抜
このバランス。
どちらか一方を強調しすぎると、別の問題が生じる。答のある問題か、答のない問題かという対立ではなく、どう組み合わせるか。
議論の焦点は、そこだと思いますよ。




































