アートの才能を伸ばす女子教育
平和学習の内容
辺野古のボート転覆事故のご遺族の発信を拝読しました。
https://note.com/beloved_tomoka
>今回、実際の抗議活動や政治活動を目的としたわけではありませんが、知華が乗ったのは「抗議船」と認識されている小型ボートでした。定員ぎりぎりの生徒を乗せ、海上保安庁の船が監視する中、抗議活動の場を通り抜ける――。それを第三者がどう見るかは、火を見るより明らかです。
>私は当日まで、知華が「抗議船」に乗ることなど全く知りませんでした。
>当時の私たちが疑問を持つには、私たちが学校を信頼しすぎ、そして提供されていた情報があまりに少なすぎました。
お父様が発信されていますが、同じ状況だったら、私もリスクを把握することはできなかったと思います。
そもそも、関関同立と言われるような大学の付属校でこのようなことが行われているとは考えも及びませんでした。
学校説明会などで見抜けるものなのでしょうか。
文春オンラインが以下記事を出した。
「メディアは沈黙」は本当か…辺野古転覆事故を1か月追って分かった、沖縄2紙と産経新聞の決定的な違い
長いのでまとめると、沖縄2紙は事故直後から連日大きく報じており、市民団体・学校双方の責任を厳しく問う検証企画も早々に展開していた。「メディアはダンマリ」はデマで、実態は「なぜ産経ほど報じないのか」という話だった。そして産経は事故原因の検証より沖縄の平和教育への思想攻撃に軸足を置き、高校に「 ね」という電話が殺到するほどデマや誹謗中傷が拡散したにもかかわらず、それは一切報じなかった。
この記事自体は読む価値があると思うが、一方でこれもまた「産経vs沖縄2紙」という対立構図のネタとして消費されていく気がして、どうにも居心地が悪い。
そもそも修学旅行中の高校生が死んでいる。まずそこだろ。
運航していた市民団体は海上運送法の登録をしていなかった。知床の観光船沈没を受けて届け出制から登録制に変わったのに、その周知すら届いていなかった。天候判断の基準も明文化されていない。乗船名簿も把握していない。学校側と市民団体で船使用料の認識すら食い違っていた。これだけ穴だらけの状態で子どもを海に出していた。
で、誰がそれを止めたか。誰も止めていない。学校も、旅行会社も、行政も、社会も「まあ大丈夫」で通してきた。知床で死者が出て制度を変えても、結局また同じことが起きた。
事故前にこの問題に気づいて声を上げた人間がどれだけいたか。
亡くなった生徒の父親がnoteで学校を責め続けている。その怒りは理解できる。
が、同意書にサインして子どもを送り出したのは親でもある。もちろん親が専門的なリスク判断をするのは難しいし、遺族の発信は強い言葉を伴うものになるのは当然だと思う。
ただその一方で、学校だけを中心に責任を固定していく構図になると、問題の全体像は見えなくなる。
同意書の存在もあるし、そもそもリスク設計は学校単独で完結するものでもない。
本来は複数主体の分散した責任の重なりを見ないといけない話なのに、議論はどうしても「誰が悪いか」に収束していく。
そこにメディア論や政治対立が乗ると、さらに構造は単純化される。
産経か沖縄紙か、左派か右派か、教育か思想かという枠組みに変換されていく。
そしてその単純化が、ネット上では拡散の燃料になる。
エデュでもさも正義感を翳し、議論のテイを借りたネタ消費をしている。
「その結果何が起きるかというと、事故そのものの学習可能性の低下。
再発防止のための設計論ではなく、断罪と対立の消費になる。
本来必要なのはかなり退屈な話だと思う。
登録制の周知徹底。
旅行会社を介した安全確認の義務化。
出航判断基準の明文化。
学校側のリスク管理の標準化。
どれもバズらないし、物語にもならない。
でも事故を減らすのはそっち側だ。
一方で、バズるのは別の構図だ。
左派が悪いでも、メディアが隠しているでもいい。
わかりやすい敵がいた方が流通する。
その流れの中で、事故は「理解されるべき出来事」から「消費される素材」に変わっていく。
沖縄で語られる「命こそ宝」という言葉があるなら、本来この事故はそこから最も遠い形で起きた現実だったはずだ。
それが思想論やメディア論に吸い込まれていくことに、どうしても違和感が残る。
問うべき中心は誰が悪いかではなく、なぜここまで複数の安全の穴が同時に見逃され続けたのかという一点だと思う。
それを政治的なネタとして語り、消費し続けることへの違和感
エデュ民は誰一人感じていない様だ。
文科省と京都府は、学校の安全管理体制と平和学習の内容が適切だったのかについての検証中。
抗議船に乗せたり、活動家の家に民泊したりというのが、「平和学習」として適切では可能性が高く、教育基本法に抵触する恐れがあるからこそ、文科省が直接聞き取り調査を行うという異例なことが行われているのだろう。
同様の教育をしている学校に対して、抑止力が働けばいいなと思います。
>異例なことが行われているのだろう。
また戻った。
堂々巡り。
「異例かどうか」に意味はない。
事故が起きたあとに行政が動くのは当然で、それを根拠に教育内容の是非に話を飛ばすのは順序が逆だ。
今回問われるべきは、思想でも平和学習でもない。
未成年を預かる側の安全管理が機能していたのか、その一点だ。
抗議船かどうか、民泊先がどうか。
それは事故の原因分析とは別レイヤーの話だ。混ぜるから議論が歪む。
実際、報道を追えば学校側と運航側双方の管理の甘さが指摘されている。
出航基準の不明確さ、名簿管理の不備、法的位置づけの曖昧さ。問題は極めて具体的だ。
そこを詰めずに「教育基本法」や「抑止力」に話を広げるのは、原因の分解ではなく、印象で処理しているだけに見える。
そしてもう一つ。
事故のあとに語る「抑止力が働けばいい」という言葉は軽い。
若い命が失われている。
その意味は、次に同じ構造を繰り返さないことにしか回収できない。
祈ること自体を否定するつもりはない。
だが、祈りで代替できる問題ではない。
やるべきは、感情ではなく構造の特定と再発防止だ。
こちらにお答えください。
>分解と検証を飛ばして空気で処理する。その態度そのものが問題だと言っているんですよ。
分解とは何ですか?
辺野古転覆事故に係る事案で言うと、何をしたら分解したことになるのでしょうか。
Margauxさんは「空気で処理できる」とお考えなのでしょうか。
問題提起されてますので、詳しくお聞かせいただきたいです。
よろしくお願いします。
スレ主の提示している遺族のnoteは読んだ。
その上で書くが、感情に乗って誰かを叩くためではなく、あくまでこの事故をどう受け止めるかという話として。
まず前提として、学校側の安全管理に重大な問題があった可能性は否定できない。
登録制度の運用、天候判断、名簿管理、旅行設計。どれを取っても穴が重なっている。ここは検証されるべきだし、責任も問われるべきだと思う。
ただ、それとは別に、遺族の発信の中にある論理については少し距離を置いて考える必要がある。
「知らなかった」「情報が少なかった」という点は理解できるが、それがそのまま責任の全てを外部に預ける根拠になるかというと、そこは簡単ではない。
同意書にサインして送り出すという構造の中で、リスク認識が完全に外部委託されていたこと自体も、この事故の一部ではないかという視点は避けて通れないと思う。
もちろん親が専門的にリスク判断をするのは難しい。だからこそ学校や旅行会社に安全管理の責任がある。
ただ一方で、だからといって誰か一つに100%の責任を集約してしまうと、今回のような複合的な事故の構造は見えなくなる。
実際に見えているのは、単一のミスではなく、複数の「見過ごし」が重なった状態だ。
制度の周知不足、現場の判断の曖昧さ、形式化した手続きへの過信、そしてそれを深く疑わなかった側の構え。
どれか一つを切り出しても説明がつかない。
この手の事故は、誰か一人を悪者にした瞬間に、理解が止まる。
ネット上で見られるような単純な断罪や、思想や立場に結びつける語りは、結局その典型だと思う。
スレ主の問いにある「見抜けるのか」という話に関して言えば、正直、個々の家庭が説明会で見抜ける類のものではない。
だから本来は、見抜けなくても事故が起きないように制度と運用が設計されているべきだった。
今回の件を、学校が悪いか、団体が悪いか、あるいは親がどうかという話だけで終わらせるのではなく、
なぜここまで安全の前提が崩れていても誰も止められなかったのか。そこに目を向けないと、同じことはまた起きると思う。































