アートの才能を伸ばす女子教育
平和学習の内容
辺野古のボート転覆事故のご遺族の発信を拝読しました。
https://note.com/beloved_tomoka
>今回、実際の抗議活動や政治活動を目的としたわけではありませんが、知華が乗ったのは「抗議船」と認識されている小型ボートでした。定員ぎりぎりの生徒を乗せ、海上保安庁の船が監視する中、抗議活動の場を通り抜ける――。それを第三者がどう見るかは、火を見るより明らかです。
>私は当日まで、知華が「抗議船」に乗ることなど全く知りませんでした。
>当時の私たちが疑問を持つには、私たちが学校を信頼しすぎ、そして提供されていた情報があまりに少なすぎました。
お父様が発信されていますが、同じ状況だったら、私もリスクを把握することはできなかったと思います。
そもそも、関関同立と言われるような大学の付属校でこのようなことが行われているとは考えも及びませんでした。
学校説明会などで見抜けるものなのでしょうか。
この件、遺族の発信や学校の責任に議論が集まるのは自然だが、それだけで閉じると見誤ると思う。
今回起きているのは、誰か一人の判断ミスではなく、複数の前提が同時に緩んだ結果だ。
制度は変わっていた。知床の事故を受けて登録制になっている。
それでも現場には十分に落ちていない。
旅行会社のチェックも機能していない。
学校側もリスクを構造として把握できていない。
それでも実行される。誰も止めない。
この「止まらなさ」こそが一番の問題だと思う。
事故後はどうしても責任の所在に議論が集中する。
ただ、それを一つに集約した瞬間に、この構造は見えなくなる。
学校だけでもないし、団体だけでもないし、親だけでもない。
それぞれが少しずつ見過ごした結果として成立している。
そしてもう一つ厄介なのは、事故の後に語られる言葉の強さだ。
怒りや悲しみが強いほど、原因も単純化されやすい。だが現実の事故は、むしろ単純ではない。
だからこそ、本来やるべき議論はかなり地味になる。制度の周知をどう徹底するか。
外部団体を使う場合の安全確認をどう義務化するか。現場の判断基準をどう可視化するか。
こういう話は目立たないし、盛り上がらない。
だがここをやらない限り、また同じ構造は繰り返される。
「見抜けるか」という問いに戻ると、個々の家庭にそこまでの検知能力を求める設計自体が無理がある。見抜けなくても事故が起きない仕組みにするしかない。
今回の件は、誰が悪いかを確定させて終わる話ではなく、なぜこれだけ条件が揃っていても止まらなかったのかを問う話だと思う。
ネタ消費でない、議論のできるユーザーの意見を伺いたい。
>分解と検証を飛ばして空気で処理する。その態度そのものが問題だと言っているんですよ。
こちらの問題提起が気になります。
分解とは何ですか?
辺野古転覆事故に係る事案で言うと、何をしたら分解したことになるのでしょうか。
飛ばしてはいけないプロセスとお考えのようなので、具体的にご教示ください。
検証は飛ばされてないと思います。
海上保安庁が捜査中で、文科省が直接聞き取り調査をしています。
流れがまた単純化してきているので、本筋に引き戻す。
「被害者側には何の落ち度もない」で思考停止するなら、この手の事故は繰り返すだけだと思う。
感情としてそう言いたくなるのは分かるが、それを前提にした瞬間に検証は止まる。
ここで言っているのは、遺族を責めたいという話ではない。
寧ろ逆で、自分の子どもに置き換えて考えたときに、同じ状況が再現され得る構造を直視する必要があるという話だ。
現実として、同意書にサインして送り出している。
その時点で、リスク判断の一部を学校や旅行側に委ねているのは事実、が、「完全にゼロ関与」ではない。
法理的に見ても、100%免責という形にはならない類の話だと思う。
だからこそ、「全部あちらが悪い」で閉じるのは危うい。
それは責任の押し付けというより、リスクの所在を見誤ることにつながる。
今回の構造は、学校や団体の問題が大きいのは前提としても、制度の周知不足、チェック機能の形骸化、そして受け手側の信頼の置き方まで含めて成立している。
親が専門的に海のリスクを判断しろという話ではない。
ただ、何にサインしているのか、その枠組みがどういう性質のものなのかに無関心でいられる構造は、そのまま次のリスクになる。
「被害者は完全に無垢」という整理は、心理的には楽だが、現実の安全には寄与しない。
それを受け入れてしまうと、また同じ条件が揃ったときに同じことが起きる。
平和学習がどうこうという話に逃がすのも同じで、本質からズレる。
問うべきは思想ではなく、なぜこのレベルの安全の穴が通過してしまったのかという一点の筈。
それをベースに議論すべき。
私がこのスレッドで「ネタ」と言うワードセレクトをしている事に噛みついて来たユーザーがいた。
人1人命が失われている事件をネタとは何事かと言うのだろう。
する必要も無いが、敢えて少しだけ補足しておく。
確かに、文脈を切り取れば刺激的な言い方に見えるのは分かる。
コレが、実名で私が責任を負うコラムだったなら、私もその語は選ばないだろう。
誤解を避ける為でも、品位の為でもなく、読み手のリテラシーに過度な期待ができないからという単純な理由という一点において。
ただ、ここで問題にしているのは語感ではない。
現実に起きているのは、事故そのものが様々な文脈に回収され、消費されていく過程。
メディア間の対立、思想の対立、教育批判、あるいは誰かを断罪するための材料。どのルートでもいいが、分かりやすい構図に変換された瞬間に、出来事は「理解する対象」から「使われる素材」に変わる。
それを指してネタと言った。
軽く扱っているのではなく、軽く扱われている現実を指摘している。
この事故は、高校生が修学旅行中に命を落としたという極めて重い出来事だ。
しかも同様の痛ましい事故、知床の件から然程時間が経過していない。
制度も一度は見直されている。その直後に、似た構造の穴が残ったまま再び人が死んでいる。
本来であれば、ここで社会全体の危機感が立ち上がらなければおかしいのだ。
どこで止められたのか、なぜ止まらなかったのか、同じ条件が揃ったときに次をどう防ぐのか。そこに集中すべき場面だ。
それなのに、語の選び方に噛み付いて終わる。
文科省が異例の〜
同志社は元からダメだった〜
そこにエネルギーを使う時点で、何が本質なのかがズレている。この議論にも満たない、醜い論争を、将来グローバルを視野に勉学に励んでいた武石知華さんに聞かせられるだろうか?
エデュのこの事故に対する不毛な書き込みを見てどう思うだろうか?
厳しい言い方になるが、こういうズレこそが、事故を消費に変えていく。
重い出来事ほど、周辺の論点に逃げやすい。言葉尻、立場、印象。そこに引き寄せられて、肝心の構造の話が置き去りになる。
だから言葉を選ぶこと自体を否定するつもりはない。
ただ、この局面で優先順位を取り違えるべきではないと思う。
問題は、言葉の強さではなく、現実の重さだ。
そしてその重さをどう扱うかで、次が決まる。































