アートの才能を伸ばす女子教育
平和学習の内容
辺野古のボート転覆事故のご遺族の発信を拝読しました。
https://note.com/beloved_tomoka
>今回、実際の抗議活動や政治活動を目的としたわけではありませんが、知華が乗ったのは「抗議船」と認識されている小型ボートでした。定員ぎりぎりの生徒を乗せ、海上保安庁の船が監視する中、抗議活動の場を通り抜ける――。それを第三者がどう見るかは、火を見るより明らかです。
>私は当日まで、知華が「抗議船」に乗ることなど全く知りませんでした。
>当時の私たちが疑問を持つには、私たちが学校を信頼しすぎ、そして提供されていた情報があまりに少なすぎました。
お父様が発信されていますが、同じ状況だったら、私もリスクを把握することはできなかったと思います。
そもそも、関関同立と言われるような大学の付属校でこのようなことが行われているとは考えも及びませんでした。
学校説明会などで見抜けるものなのでしょうか。
文科省と京都府は、学校の安全管理体制と平和学習の内容が適切だったのかについての検証中。
抗議船に乗せたり、活動家の家に民泊したりというのが、「平和学習」として適切では可能性が高く、教育基本法に抵触する恐れがあるからこそ、文科省が直接聞き取り調査を行うという異例なことが行われているのだろう。
文科省と京都府は、学校の安全管理体制と平和学習の内容が適切だったのかについての検証中。
抗議船に乗せたり、活動家の家に民泊したりというのが、「平和学習」として適切ではない可能性が高く、教育基本法に抵触する恐れがあるからこそ、文科省が直接聞き取り調査を行うという異例なことが行われているのだろう。
私がこのスレッドで「ネタ」と言うワードセレクトをしている事に噛みついて来たユーザーがいた。
人1人命が失われている事件をネタとは何事かと言うのだろう。
する必要も無いが、敢えて少しだけ補足しておく。
確かに、文脈を切り取れば刺激的な言い方に見えるのは分かる。
コレが、実名で私が責任を負うコラムだったなら、私もその語は選ばないだろう。
誤解を避ける為でも、品位の為でもなく、読み手のリテラシーに過度な期待ができないからという単純な理由という一点において。
ただ、ここで問題にしているのは語感ではない。
現実に起きているのは、事故そのものが様々な文脈に回収され、消費されていく過程。
メディア間の対立、思想の対立、教育批判、あるいは誰かを断罪するための材料。どのルートでもいいが、分かりやすい構図に変換された瞬間に、出来事は「理解する対象」から「使われる素材」に変わる。
それを指してネタと言った。
軽く扱っているのではなく、軽く扱われている現実を指摘している。
この事故は、高校生が修学旅行中に命を落としたという極めて重い出来事だ。
しかも同様の痛ましい事故、知床の件から然程時間が経過していない。
制度も一度は見直されている。その直後に、似た構造の穴が残ったまま再び人が死んでいる。
本来であれば、ここで社会全体の危機感が立ち上がらなければおかしいのだ。
どこで止められたのか、なぜ止まらなかったのか、同じ条件が揃ったときに次をどう防ぐのか。そこに集中すべき場面だ。
それなのに、語の選び方に噛み付いて終わる。
文科省が異例の〜
同志社は元からダメだった〜
そこにエネルギーを使う時点で、何が本質なのかがズレている。この議論にも満たない、醜い論争を、将来グローバルを視野に勉学に励んでいた武石知華さんに聞かせられるだろうか?
エデュのこの事故に対する不毛な書き込みを見てどう思うだろうか?
厳しい言い方になるが、こういうズレこそが、事故を消費に変えていく。
重い出来事ほど、周辺の論点に逃げやすい。言葉尻、立場、印象。そこに引き寄せられて、肝心の構造の話が置き去りになる。
だから言葉を選ぶこと自体を否定するつもりはない。
ただ、この局面で優先順位を取り違えるべきではないと思う。
問題は、言葉の強さではなく、現実の重さだ。
そしてその重さをどう扱うかで、次が決まる。































