充実した教育環境の日大付属高校
関西最難関中学のスレ
<男子>灘、東大寺、西大和、甲陽、洛南、星光、洛星
<女子>西大和、洛南、神女、四天(医志)
上記 最難関校以外でも大いに語ろうではありませんか。
―灘といえば東大への進学校として全国的に有名ですが、いつごろからそうなったのですか。
和田 戦後の学制改革で5年間の旧制中学が中学校3年、高等学校3年になりました。ほとんどの公立ナンバースクールは高等学校になりました。本校は、1年延ばして中学、高等学校を併設しました。旧制中学時代は主要教科については先生が持ち上がるシステムでしたので、戦後も中学1年から高校3年まで同じ先生が教えるという形をとりました。いち早く6年間の一貫教育を取り入れたことで、効率良く学習指導ができ、生徒たちの変化にも気付きやすいというのが大きな要素だと思います。ただし、アルファベットのAから教える中1から、大学受験準備の高3までを幅広く教えるには優秀な先生が必要です。そういった先生方に集まっていただくためには、当時の校長先生はじめ、関係者の大変な努力があったのだと思います。
http://kobe-kobecco.com/archives/34289
――灘校は東大合格者数の多さで知られます
和田 昭和2年に灘の酒造家の篤志家らと、その縁戚で東京高等師範学校長や柔道の講道館館長を務めた嘉納治五郎(かのう・じごろう)先生の尽力で創立されました。当時は、神戸一中(現・神戸高校)など公立に進学しなかった生徒が入学し、公立に追いつき追い越せで、結果的に東大の合格者数の多さにつながったという経緯があります。戦後に中高一貫校となりましたが、嘉納先生による校是「精力善用、自他共栄」(個性を生かし、幸福な社会づくりに寄与する)を掲げ、何より自由と自主性を重んじる校風は変わりません。ですから、とりたてて「東大を目指せ」という教育をしていません。
――それは意外ですね
和田 戦前は能力別でクラス編成していた時期もあったようです。作家の遠藤周作さんが在籍していた頃ですね。遠藤さんは「入学時は上のクラスで、卒業するときは下のクラスだった」というようなことをユーモアを交え、よく話していたと聞いたことがあります。
――和田さんが入学した昭和40年頃はどうでしたか
和田 私は大阪で商売をしていた親が「良い学校がある」と勧めるので入学しました。入学試験はそれなりに難しかったですが、当時は阪神間の入学者が多く、倍率も2倍ぐらいで、現在(約4倍)に比べると入りやすかったと思います。中3の時に東大合格者数で東京都立日比谷高校を抜き全国一になったことが話題になりましたが、同級生にガリ勉はいなかったし、学校の勉強は小テストの再試験があったぐらいで補習もないし、授業後にはクラブを楽しんでいました。
https://www.sankei.com/article/20210625-IFRT44UKJFIOXNWQCTLLBFPCDE/?outputType=theme_nyushi
西大和の手法は当然議論になりますよ。
究極の手法が芝国際。
入試の種類はぜんぶでなんと50種類。1回の定員が5名、10名という入試です。
定員120人に対しのべ出願者4681名の“人気新設中学校”「芝国際」はなぜ炎上したのか
https://bunshun.jp/articles/-/61686
関西でもこういった手法を導入する学校が後をたちません。
そういうことでは無いと思いますよ。
西大和の手法は現在の新興校が成長するためには妥当な方法ということでしょう。(灘が新興校の時とは取り巻く状況が異なります。同じ基準で考えるべきでは無い。)
西大和の手法が悪ければ、評価されることなく凋落していくと思いますよ。あなたの言うところの色々やらかした結果として、今のところ進学校として着実に成長していると思います。答えは今後出るでしょう。






























