女子美の中高大連携授業
哲学について語りませんか?
国家の品格について語り合ってから早一年が経ちました。
その節は大変有意義な時間をありがとうございました。
ご意見を寄せてくださった皆さんの博識に感嘆し、
私自身も学びや気付きが多く、スレを立ててみて良かったと
思ったものでした。
その後、品格に関連する本を読んだり施設を訪ねたりしておりました。
首都圏に住んでおられる方、白州次郎邸が神奈川県にあるのを
ご存知でしょうか?品格のある人物として様々な書籍でも
取り上げられているので行ってみましたが、生活用品にも
残された資料から垣間見える言動にも確かに品格が漂っていました。
そこでよく目にした言葉、Principleは主義や主張といった意味ですが、
そこに哲学を感じました。
人が持つ主義や思想を理解しようとひもとき、それにロジックをはめて文章化すると
哲学の範疇に入ってくるように思います。
私はなんの変哲もない文学部英文科の出身なのですが、
人文系学部には哲学科を擁しているところもいくつかありますよね。
この期に及んで大変自分勝手なのですが、哲学を修められた方や
興味のある方、考えることが好きな方とまた語り合いたいなあ・・・
なんて思いまして、学際的スレとして立ててみました。
よろしかったらお付き合いください。
哲学といってもあまりに難しいことは考えていません。
今個人的に考えているのは、人はなぜ易きに流れるのか、です。
勉強から逃げて遊び呆けている子供たちをみて、心乱れています。
これに関しては、親としてのなんらかの達観が必要な私です。
私自身は昔からどちらかというと敢えて成り難い方を選ぶ性格です。
わからないことやできないことを放置できない性格、というだけのことですが、
世の中を見回すとそういった易き流れる例(タイムリーな事例では年金問題)
にはよく遭遇しますので、人の行動パターンとして哲学的に言えるのでは
ないかと。最近注目し始めた土屋賢ニ氏なら、なんと表現するだろうか、と。
に寄って、ボンヤリする事があります。
「無」の境地です、そんな時は。
敷地内の施設で、弓道の矢走をただ目で追ったり。
何だかそういう時に、精神が充電されるような気がするのです。
無宗派な身ですが「神」は「我」の中に存在するものだと思っています。
「神」というものは、・希望
・自己を奮い立たせる励ましであったり、
・絶望の慰め
・問いかける媒体
・完全なるものへの憧れ/不完全さへの慈愛
そんなもののように思っています。
テクノロジーはどうでしょうね。
やはり、実際にサイパンなどで霊の写真が撮れますと、
生と死の世界が同一上にも存在する、科学も合いまみえない事ではない、
と考えております。
> >>胡乱さん、
> 聖書は、もともと英語で書かれた物では無いよ。
そうでした・・原書はへブル語でしたっけ?
大学では近しいラテン祖語?英語の古典語で学習したような記憶がありましたが、
英語が原語ではないこと、すっかり抜けていました。
ご指摘感謝します^^
最近、英語と和訳併記の聖書を読む機会があって、和訳には違和感を感じ、
英語表記の方がよほどしっくりきた、という体験をしたもので、
言語にはやはり魂が宿っているなあ、と思った次第です。
言語には思想が染み込んでいますよね。
哲学家の言葉をそのお国の言語で理解しないことには、理解した気になれないです。
あと、あひゃ〜さんがデカルトさんに宛てた最初の書きこみは、
口調はいただけなかったですが、表現がとても面白いですね。
変なこと聞きますが、次から次へと頭に浮かんでくるのですか?
いろいろな方面のことを実によく知ってらっしゃる。
>古典的全知全能の神は、
とっくに数学的に殺され物理学的に追放されてるわ!
数学的に殺され、には唸りました。
私なりの解釈では、この表現からは、
全知全能の神は、0か100か?
0は存在を意味することができるのか?
限りなく0、限りなく100は不完全であるが、そもそも
完全自体を証明できるのか?
なんて思考が拡がっていきました・・
哲学堂さん、
哲学堂という場所があるのですか?
大変興味をそそられます。
おっしゃる「無」の境地も、哲学っぽいことを語り合うのに
そぐう言葉ですね。最初の書きこみに書いたとおり、白州次郎氏の奥様が
「和」を究められた方だったのでそれ関連の書物を購入しました。
「和」というと、「仏教」が登場し、仏教には般若心経という「無」の境地を
説いたお経があり・・とつながっていきます。
哲学思想と宗教はどこかに共通点があり、きってもきれない縁なのでしょうね。
宗教は魂の救済が目的でしょうが、哲学は何が目的と言えるのでしょうか?
哲学には、それを活かせる場があるのでしょうか?
胡乱 さんへ:
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> 哲学は何が目的と言えるのでしょうか?
> 哲学には、それを活かせる場があるのでしょうか?
考えてみました、
哲学とは:
心や精神活動も含む森羅万象を、
個人の及ぶ限り考慮した上で、
整理統合した結果の命題の体系
目的:
迫られた事柄に対する思考的対処を講じる上で、
真に新しい知識の統合を生み出す可能性を残し、
より自由度の高い価値観を提供する素地とする。
活かせる場:
一般的な価値観(利害的、打算的等)とは異なる価値観を
要望する、自己も含めた個人や社会への発信の場
ミジンコさん、
考えてくださり、ありがとうございます。
哲学は命題そのもの、目的は高い価値観、活かせる場としては発信・・
この発信によって、結果として個人や社会にどう活かされるのかまでを
さらに考えてご意見くださるとありがたいです。
社会が多種多様な価値観である現在、活かされ方(活かされないことも含めて)
を知りたいです。
あひゃ〜 さん、
> >>胡乱さん。
> >そもそも完全自体を証明できるのか?
>
> 【660140】でも、記載しましたが。
ごめんなさい。あひゃ〜さんの数学的に殺されているという表現のみで
思いつくままに書いたのですが、【660140】の中で、その回答を
書かれているのですね?読解力がなくて、どの部分に記載されて
いるのか理解しそこなっています(涙
> キーワード
> ゲーデル 不完全性定理 対角線論法
> で、ググッてくだされば、答えがあります。
ググってみました。
まだアマゾンのページしか見ていませんが、コメントを読んで驚きました。
不完全性定理という考え方を、私もきっとどこかで聞いたのでしょうね・・
人は、記憶がなくても記憶していたことは無意識に発するのでしょうか。
私にはこういうことは実によくあります。
自分は勘が良いのかと思っていたけど・・単に講義中に寝ていて睡眠学習していたとか
観ていないテレビの音声が勝手に脳に刷り込まれるかしていたのかな(笑
新たな発見でした。
対角線論法は明日ググってみます。
これも言葉そのものから勝手に想像したものを携えてから、視てみます。
>>うが〜ちゃん。
あひゃ〜の福音書。
囚われ人への、手紙。
人は、エデュの上で恥をかかされる事は、
幸いである。
なぜならば、リアルでの恥を予防できたからからである。
出来るならば、全ての恥をエデュ上で矯正してもらいなさい。
さすれば、リアルワールドでいっぱしの常識人?賢人?として
扱って貰えるであろう?
>>あひゃ〜さん、あなたの福音書、おもしろいけれど
果たしてデカルトさんはその真意を理解してくれるでしょうか・・・?
マタイによる福音書
「人をさばくな。自分がさばかれないためである。
あなたがたがさばくそのはかりで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで
自分にも量り与えられるであろう。
なぜ、兄弟の目にあるチリを見ながら、自分の目にある梁(はり)を認めないのか」と
デカルトさんはそう思ってらっしゃるかも知れませんよ・・・。
私も自分に書かれたことでないのに、なぜ、あひゃ〜さんに「うざい」などと
否定的な書き込みをしたのかわかりません。私にも「マタイによる福音書」は
必要です。
でも、五年もこの掲示板にはお世話になっているのに、人に対してこんなに否定的な
気持ちになったのは今回が初めてです。
あまりにも一方的(そう、いつもネットって一方的)に
人を正論で追い込み「あなたレベル」を連発なさるあなたの書き方に
読み手である私のほうが(書かれたデカルトさんより?)過剰に反応してしまったのかも
知れません。
あひゃ〜さんはリアルワールドで初対面のデカルトさんに対して
あんな強い言葉であの方の考えを否定できますか?
まあ、そもそも初対面で哲学を論じ合うことはリアルワールドでは
なかなかないでしょうが・・・・。
でも・・・。個人的にはあひゃ〜さんの「うが〜ちゃん」という呼び方は
かわいくて好きです。




































