女子美の中高大連携授業
哲学について語りませんか?
国家の品格について語り合ってから早一年が経ちました。
その節は大変有意義な時間をありがとうございました。
ご意見を寄せてくださった皆さんの博識に感嘆し、
私自身も学びや気付きが多く、スレを立ててみて良かったと
思ったものでした。
その後、品格に関連する本を読んだり施設を訪ねたりしておりました。
首都圏に住んでおられる方、白州次郎邸が神奈川県にあるのを
ご存知でしょうか?品格のある人物として様々な書籍でも
取り上げられているので行ってみましたが、生活用品にも
残された資料から垣間見える言動にも確かに品格が漂っていました。
そこでよく目にした言葉、Principleは主義や主張といった意味ですが、
そこに哲学を感じました。
人が持つ主義や思想を理解しようとひもとき、それにロジックをはめて文章化すると
哲学の範疇に入ってくるように思います。
私はなんの変哲もない文学部英文科の出身なのですが、
人文系学部には哲学科を擁しているところもいくつかありますよね。
この期に及んで大変自分勝手なのですが、哲学を修められた方や
興味のある方、考えることが好きな方とまた語り合いたいなあ・・・
なんて思いまして、学際的スレとして立ててみました。
よろしかったらお付き合いください。
哲学といってもあまりに難しいことは考えていません。
今個人的に考えているのは、人はなぜ易きに流れるのか、です。
勉強から逃げて遊び呆けている子供たちをみて、心乱れています。
これに関しては、親としてのなんらかの達観が必要な私です。
私自身は昔からどちらかというと敢えて成り難い方を選ぶ性格です。
わからないことやできないことを放置できない性格、というだけのことですが、
世の中を見回すとそういった易き流れる例(タイムリーな事例では年金問題)
にはよく遭遇しますので、人の行動パターンとして哲学的に言えるのでは
ないかと。最近注目し始めた土屋賢ニ氏なら、なんと表現するだろうか、と。
>>胡乱さん。
>>【667585】
是も、あひゃ〜の自己言及だけど。
>あひゃ〜は、地球環境の悪化との競争だと思っています。
>文明が崩壊する前に、タマシイと言う名のテクノロジーに
>たどり着けるか?
>其れ以前に、環境悪化と資源確保の軋轢で、
>文明が崩壊するのか。
>ギリギリの、タイムレースでしょう!!!
さすが、胡乱さんは議論で熱く熱したサロンの窓をそっと開け
一風の新鮮な空気を入れてくださったように思います。
胡乱さん、どうぞお気になさらないでくださいね。
私は、ここ数日からの参加者ですし、もともと南京大虐殺、従軍慰安婦問題については
どうコメントしてよいのか・・・、自信がないので
ずっと傍観することに留まっていますから・・・。
さ、この間にお茶を入れ替えますので
ミジンコさん、皆様どうぞご一服・・・。
ミジンコさんもどうぞお気になさらないでください。
私はお二人の討論を読むのが大好きですよ・・・。
皆さん、年齢、性別、育った環境や今の社会的立場もさまざまですし、
意見の相違は当然あるでしょう。
ただ、ネットでしかとうてい知り合えない皆さんとのご縁。
大切にしたくて、こうしてお邪魔しております。
あひゃ〜さん、
あひゃ〜さんの考えで、
核保有国として認定できるのは米国のほかはどこですか?
一国だけで保有することは、抑止力というには危険ですよね・・
核などの脅威(暴力)に頼らない抑止力ってないと思っていますか?
病気などに勝って生き延びることはとても大事だけれど、
その方法が倫理を無視してなんでもござれでは美しくないのでは?
・・・最初のころの論点
が、だんだんに、
戦争で生き延びるのも大事
に変わっていき、戦争そのものが論点になってしまって
まさに手段の目的化が起こってましたね・・
子孫に戦争の体験をさせたくないのは究極の一致です^^
その方法が科学技術によるか
人の心の在り様(言いようによってはこれも科学?)によるか。
言語の違い(by ロム専さん♪)を超えて、
何か歩み寄りを模索してみませんか?
要は、姿勢の問題^^
ヒートアップ論戦もディベートのスキルアップには良いけれど、
ちょっと疲れちゃいました・・(私的にはムリした感じ)
ちょっとした気遣いの言葉とか、クッション言葉を入れて
みませんか?
胡乱 さんへ: から騒ぎです。知らない人文科学系で。
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あの人に、
>> 「無知の知」とは、知ることを希求する態度です。
> --
> 違うと思います。
と否定されたままでしたね。自分は分かってるということか?
普通、他人の意見を否定したら、自説を述べるもんだが。
この「無知の知」の大切さを説く人は多いですが、なぜか「自分は『無知の知』という言葉については知っている」ということは疑っていないですね。
> 「無知の知」は、
> 知を希求した上で得た結論として、どこまで追求しても
> 仕切れないのだ、というある種、達観の言葉だと思うのです。
> だから、「知」を求め続けるというのは付随部分として
> 正しいとは思いますが、この言葉の持つ意味としては
> 違うのではないかと私も思います。
ご意見、ありがとうございます。
僕は、物事について知れば知るほど、自分が知らないことが沢山あることを重々自覚しています。書や人から知識を吸収して考えることが好きなだけです。
そういう僕も、ふと自分が「無知の知」という意味について何も知らないことを知って、また調べてみました。
「無知の知」という言葉をちゃんと受け取れば、「はて?、自分は『自分は《自分は何も知らない》ということは知っている』と思っていたが、本当にそうなのか?」ということを自省する必要がありますから。
「無知の知」とは「自分自身が無知であることを知っている人間は、自分自身が無知であることを知らない人間より賢い。真の知への探求は、まず自分が無知であることを知ることから始まる。」ことのようですが、これは自分が自覚することであって、「無知の知」という言葉を使って、他人に「あなたは何も知らないということを自覚しなさい」と批判することではないと思います。
ソクラテスは、かつて、こう言ったとされます。
「世の識者たちは、自分が大事なことを知らないということに気づいていない。つまり、分かっていないということを忘れてしまっている。それに対して、自分は知らないということを知っている。つまり、分かっていないということを忘れていない。この点で、世の識者たちよりも自分の方がものごとがよく分かっている、と言えるだろう。」
この「無知の知」は、プラトンの「ソクラテスの弁明」にある言葉ですが、ギリシア語原典は読めないし、そもそも、プラトンがソクラテスの真意をどこまで伝えているのかも分かりません。
僕は、自分が知らないことを自覚してこそ、それによって生ずる不足感が、偽りの理解や見せかけの知識に満足してしまわないための批判の刺としての機能も果たし、より深く探求し続けることができると解釈しています。(ソクラテスの真意は、誰にも知りえません)
「知らないということを知っている」というのは面白い表現です。矛盾する二つのものを組み合わせる言い方をオキシモロン(自己言及矛盾語法)といいますが、素朴に考えれば変です。
つまり「自分は何も知らない」はずなのに「自分は何も知らない(分かっていないことがある)ということを知っている」というのは矛盾しているじゃないか?
「貼紙禁止」という貼り紙みたいなもんです。
ミジンコさんの、「自分は何も知らない、分からない」と言いながら、僕に対して最初から「そのことは答えられないことだけは分かっていた」って変じゃないですか? 自分が知らないことは自分で自覚できますが、他人が分からないだろうと知りえますか? あげくに答えても答えていないと言う始末。
「知らないことを知っている」と満足して、知らないことを調べたり考える気もない。
それでは、論語読みの論語知らずですよ。
Web情報は信用しないそうなので(沢山の有益な知識や知恵があるのに)、
岩波文庫の久保勉訳「ソクラテスの弁明・クリトン」によると、
アポロンの神が「当代一の智者はソクラテスである」との神託を行い、ソクラテスがそれを確かめるために、賢人を次々に訪ねるのでした。で、ソクラテスは「賢人」と呼ばれる人たちが、実は何も知らないことに気づき、次の言葉になります。
「彼らは何も知らないのに、何かを知っていると信じており、これに反して私は、何も知りもしないが、知っているとも思っていない」
この表現であれば矛盾していません。
ソクラテスは「知っているとも思っていない」わけで、「知らないということを知っている」と言っているのではないからです。
つまり、ソクラテスによれば、大切なことは「知らないということを知っている」ことではなく、「知っていると思わない」ことだということになります。これは大きな違いです。
「無知の知」が引用される場面で、ちょっとしたズレがあることが分かります。
ソクラテスが言いたかったのは、「お前が○○について知っていると思っているようだが、本当か?」ということであって、「お前は○○について知らないのだ、それを自覚せよ」ということではないからです。
一見、同じことのようですが、注意をむける対象が違うのです。ソクラテスは「知」(だと思い込んでいるもの)を反省せよと言っているのであって、「無知」に目を向けよと言っているのではないのです。
このソクラテスの指摘は妥当です。一般に「自分が知らない」ことなどについて考えるのは、大変難しいからです。
「あることを知らない」というのは、そもそも、そこに考えるべき問題があるということに気づいていない状態ですから、当然それについて考えるのは無理です。それなのに「知らないということを知れ」と言われても、「きっと自分には知らないことがいっぱいあるんだろーなー」と考えるのが関の山で、単なる思考停止に入るだけです。
ソクラテスは、そんな難しいことを言っているわけではなく、「自分は知っている」と思い込んでいることについて反省せよ、と言っているのでした。
今日は「無知の知」について反省して学んでみました。
うが〜 さんへ:
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> さすが、胡乱さんは議論で熱く熱したサロンの窓をそっと開け
> 一風の新鮮な空気を入れてくださったように思います。
> 胡乱さん、どうぞお気になさらないでくださいね。
さすが、なんて言葉はこっぱずかしいですが、
優しいお気遣いの言葉にほっと胸をなでおろしました。
自分の書き込みをほんの数ページでも見返してみたら、
漢字の誤変換やら入力ミス(手のミス)やらの多いこと!
そんな失敗はまだよいとして、一瞬でも「無視された」と
不快な思いをさせてしまって本当に申し訳なかったと
思っていたので、お許しいただけて感謝です^^
> 私は、ここ数日からの参加者ですし、もともと南京大虐殺、従軍慰安婦問題については
> どうコメントしてよいのか・・・、自信がないので
> ずっと傍観することに留まっていますから・・・。
> さ、この間にお茶を入れ替えますので
> ミジンコさん、皆様どうぞご一服・・・。
自信は私もないですよ^^
門下生として書き込みさせていただいてます。
先生を募集したら、個性豊かな先生がいっぱい来てくださった。
せっかく先生がたくさんいるのだから、同期生だって
勿論いたほうがいいです^^
傍観しないで、どんどんお茶入れに来てください。
熱すぎるお茶には水でも差して適温にせねば、火傷しちゃいます。
> ミジンコさんもどうぞお気になさらないでください。
> 私はお二人の討論を読むのが大好きですよ・・・。
> 皆さん、年齢、性別、育った環境や今の社会的立場もさまざまですし、
> 意見の相違は当然あるでしょう。
> ただ、ネットでしかとうてい知り合えない皆さんとのご縁。
> 大切にしたくて、こうしてお邪魔しております。
最後の二行、本当にそう思います。
顔もわからないのに、一所懸命、それぞれの大切なメッセージを
やり取りする。熱く論戦になるのは相違のせめぎあいの部分も
あるけれど、逆に相手を理解しようとする姿勢でもあるんですよね。
勿論、難しいだろうし、諦めちゃうこともあるけれど、
そんな経験をすること自体、大学のゼミでもないのに、
得がたいことですよね^^
から騒ぎさん
レスを書いている間にレスがつき・・が重なったので
明日、またじっくり読ませてもらいます。
でも、ざーっと読んだ段階でも、お〜!さすが!の語句や文章
(つまりは自分に吸収しやすいもの、ということですが)を
いくつか見つけました^^
引用(URLを残してあるものやそのままコピペしたもの)よりも、
ずっとずっと、魅力的に感じます^^
無知の知、ひとつとってもこ〜んなに知らないことや考えを深めたり
できるのに、この世の中の全てのことなんて勉強し切れないです。
(しようとも勿論思いませんが)
無知の知を深めきるのもまた、すばらしいお題ですよね。
これがやっぱり一番しっくりきます。
ただ自分だけのために、自己満足の手段として、
皆様の疑義に少しずつ、答えをつけていこうと考えております。
--
「無知の知」と「開き直り」について。
--
相手が「知っている」と公言する、そしてそれが何かの「判断基準」と
される一番大事な問題について、何を知っているかを問いかけるところ
から対話は始められます。
相手は必ず、自分が知っていると思っていることについて、意気揚々と
語り始めるでしょう。
ですが、良く耳をすませてください。相手は自分の問いに答えては
いません。ただ、問いを別の問いに言い換えたことだけが返ってきている
ことに気づくと思います。でも相手はそれを回答だと思っています。
こちらの問いに答えた。と固く信じているのです。
ですから、相手の回答を問いとしてそのまま返します。
しんどい作業ですが、履歴を確認しながらこれを繰り返すことになります。
相手がある程度賢ければ、何回目かには自分に勝ち目がないことを
悟ることでしょう。
--
注意しておかなければならないことはただ一つ、問題になっている事柄を
何かの「判断基準」にしているのが自分ではなく、相手である。という
非対称性です。
なぜなら、この対話により無知が証明されるのが「相手」だけではなく、
「自分」も同様以上に「無知」であることが証明されるからです。
それを認めたくない人は、相手にただ耳を傾けるだけの人になると
いうことです。
--
これらのむなしい作業からわかることは何でしょうか。
それは「判断する」という事自体の絶対的な不確実性です。
「判断」が「良い」ものであり、「判断できないこと」が「判断」に
劣るという考え方は、錯覚にすぎません。
--
「判断」こそが「思考停止」であること。
ただし、これを明らかにしたとき、哲学者は多数決で死刑になる覚悟が
必要だということを知らなければなりません。




































