在籍生徒の9割が東京と神奈川の学校
死刑にしないで
お願いします。
16歳の少年の悲劇です。
彼はまだ子供です。
両親に言われるままに頑張ってきたのです。
毎朝、お弁当を作ってくれた母への感謝の言葉を口にしていると書いてありました。
少年は後悔しているでしょう。
代償はあまりにも大きすぎました。
父親は「責任を痛感している」と述べているようです。
ただ、注意しなければいけないのは
DVは、落ち着いている時は反省するんですよね。
か〜っとすると繰り返すのが病気なんです。
父は、母の父親(校長先生)にどうやって謝るのか?
母は村一番の秀才だったそうです。
少年は、医療少年院で五年程教育を受けることになりそうです。
> オヤジ さんへ:
> -------------------------------------------------------
> >
> 東大寺については議論がつくされた感じがしますが、まだ終わっていない。
> >
> そう、このとんでもないオヤジはどこの高校出身なんだろう?
> >
> 奈良の人で、東大寺でないということは、奈良高校、畝傍高校、奈良女子大附属のいずれかの可能性が高い。
> > 私学なら星光あたりか?
> > だれか教えて!
>
>
> 大学は、大阪医大。
大阪医大なら、あの子は余裕で合格だろう。
自分の出身校を超えて欲しいのはわかるけど・・・。
この論調で行けば、父親の高校にまで責任を被せたがる人が出てきそう。
そんな方に、家庭の教育の方が、出身高校よりも影響大だ、と言う事に気づいて欲しい。
この父も、そのようにして教育されたけれども、耐えられた。
今の子にはそんな耐性がなかった。
我が子のサインに気づかなかった愚かな人ではあるけれども、ハードな医師の仕事から帰って、夜遅くまで子供の勉強を見るのも大変だったと思う。
子供が矯正施設から帰るまでに、この父にも子供を支えるだけの器量を身につけてもらいたい。
嘆願書を提出することについて、この掲示板内だけでも批判的な方々がいくらかいらっしゃるようです。
東大寺学園の掲示板ではない世間一般には、もっと大きな割合で批判的な方がいらっしゃると想像されます。
このぶんだと、あまり派手に署名を集めて嘆願書を出すと、週刊誌などの格好のターゲットになって、
批判ばかり浴びることになりかねない気がしてきました。
そこで、嘆願書は、少年の事情を本当によく知っている少数の方が、内密に作成して提出されるという形が
良いのではないかと思います。その嘆願書は、少年の減刑が目的というよりは、社会復帰する過程のどこかで
少年が読むことで、世間は冷たい視線だけではなく自分という存在がまだ受け入れられる余地があるのだという
救いの書としての意義が本当の目的になるように書かれたものが良いでしょう。
しかし、嘆願書に劣らず重要なのは、家族も家も社会的地位も滅茶苦茶にされた父親を、
誰がどのように心理的ケアするかということです。これは社会復帰する際の少年の安全にも関わる重大事です。
父親自身が弁護士を選任したそうですが、保護者として責任を持って親子で出直したいので穏便な処置を望むという
主張を弁護側証人として父親が行い、本当に早期に釈放されたなら、少年の安全は保証されるのでしょうか。
カッとなって息子に復讐してしまう恐れはないと言えるでしょうか。生存者に関して最も気になるのは、この1点です。
母への さんの
> DVは、落ち着いている時は反省するんですよね。
> か〜っとすると繰り返すのが病気なんです。
まさにこれが、少年が社会復帰した後の恐ろしいところです。
>東大寺学園の掲示板ではない世間一般には、もっと大きな割合で批判的な方がいらっしゃると想像されます。
いろんな意見があると思いますが、
私の職場やまわりの人は、批判的意見の人はごく一部で、擁護派の方がほとんどです。
>このぶんだと、あまり派手に署名を集めて嘆願書を出すと、週刊誌などの格好のターゲットになって、
批判ばかり浴びることになりかねない気がしてきました。
あなたのように憶測でもって体裁を気にするような人は、
最初から嘆願書に署名したいと思わないでしょう。
「また、父親は長男の通う高校に対し、長男の退学を申し出ていることがわかった。学校側は扱いを保留しているという。」
http://news.www.infoseek.co.jp/topics/society/nara.html?d=01yomiuri20060701it04&cat=35&typ=t
医者の件はともかく、更生施設から出てきたら学校側はもう一度少年を受け入れる心づもりがあるようですね。
過ちは過ちとして今度こそ自分で選び取った人生を生きていけるようがんばってもらいたいですね。
事件の関係者に対してではなく、掲示板で意見を出した人に対する人格批判にまで至っています。議論において、議論者の人格批判に至ることは、議論そのものを感情の応酬に貶め破壊する第一歩というのはよく知られています。




































