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【299863】スポーツ推薦

投稿者: sasa   (ID:E1JXmKNcy.2) 投稿日時:2006年 02月 16日 21:16

高校のスポーツ推薦の場合、どのくらいのレベルであれば確実なのでしょうか?
また、学校の様子を教えていただければと思います。
まわりでは、色々耳に入ってきますが、本当の学校の様子を知りたいと思っております。
一般受験は、大分レベルが高いと感じますが、推薦で入った場合は、ついていくのが
むずかしいでしょうか?
単純な質問で、申し訳ありません。

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  1. 【306529】 投稿者: テニスのおばさん=スポ枠  (ID:11VRPMngyRE) 投稿日時:2006年 02月 22日 20:25

    1人だけですよ。内申満点は。
    でも、全国確実じゃないよ。
    だって、関東大会(個人)に出れるか、出ても1R負けしちゃう子たちだから。
    富士見や共栄は全国出場者ばっかりがレギュラーでしょ。

  2. 【313269】 投稿者: 人間の僻み妬みは醜い  (ID:xu.k3R8n7s6) 投稿日時:2006年 03月 01日 19:08

    素直に知人の合格を祝福できない複雑な感情・劣等感を強く感じますね。

  3. 【315100】 投稿者: 相変わらず。  (ID:bWFtMDWTg3Y) 投稿日時:2006年 03月 03日 16:34

    久々に、このコーナ見ましたが、
    早実復活したのですね。

    相変わらず、足の引っ張り合い。

    まじめにやらないと、荒らしちゃうぞ。

  4. 【316614】 投稿者: めざせ全国制覇  (ID:AVK2rniCM6U) 投稿日時:2006年 03月 05日 19:57

    早実のスポーツ推薦だって、学力基準はあります。
    どこの誰もが入れる推薦ではありません。
    かつては、オリンピック候補選手も推薦で落とされました。
    それだけの難関を突破したスポーツ推薦の選手が同じクラスにいて、たとえば、野球で甲子園に行ったり、アイスホッケーやバスケやその他いろいろな種目で全国大会に出場して、活気あるクラス、学校を作り出しているのが、早実です。
    勉強ばかりの生徒だけなら、今の早実ではありません。
    それが受け入れられないなら、早実という学校を誤解していますよ

  5. 【362283】 投稿者: 第1志望  (ID:.G47Hmv9B1M) 投稿日時:2006年 05月 10日 14:32

    スポーツ推薦の内申基準はあってないようなものと
    入学者から聞きました。
    試験前(夏ごろ)にはセレクションも終わり
    すでに来年度は○人が○○部に入部と決まっているようです。


    入って学力に大きな差が出そうですが大丈夫なんですかね?

  6. 【362403】 投稿者: 安心しろ  (ID:pBt6g7.RPDE) 投稿日時:2006年 05月 10日 17:50

    入学後学力に問題があれば、留年するか大学への推薦がもらえないだけです。看板の野球部でも主力打者が留年したり、甲子園に出場したときのメンバーが大学推薦から漏れたりします。

  7. 【363865】 投稿者: いみじくも  (ID:Y1mOMTJQ0pU) 投稿日時:2006年 05月 12日 21:01

    渡邉校長がおっしゃておられました。「2軸」を持つ人間たれと。1軸は勉学、もう1軸はスポ-ツとかなんでも良いから人には負けないもの。
    この2軸が相互に影響しあい、人間の巾を広げてゆく。

    スポ−ツだけできたんでは、勉強だけできたんでは、まだまだなんですね。がんばりましょう。努力は人を裏切りませんから。

  8. 【370754】 投稿者: なるほど・ザ・ワールド  (ID:/i9jZrMtFd6) 投稿日時:2006年 05月 22日 22:57

    天野為之と早稲田実業学校・・・
    「去華就実」・・・この言葉が最初に登場するのは、1908年(明治41年)に発行された「戊辰詔書(ぼしんしょうしょ)」である。「詔書(しょうしょ)」とは、天皇が国民に向けて発する重要文書のことである。・・・「戦後日なお浅く庶政益更張を要す。宜く上下心を一にして忠実業に服し、勤倹産を治め、惟れ信惟れ義、醇厚俗を成し、華を去り実に就き、荒怠相誡め自彊息ざるべし」(わが国は戦後なお日が浅く、各方面において今一度、緩んだ弦を張りなおすように、姿勢を糺す必要がある。地位の高い者もそうでない者も心をひとつにして忠実に仕事に励み、節約して生計を整え、信と義を重んじ、人情に厚い習慣をつくり、華やかなことを退けて実質あるものに力を注ぎ、乱暴や怠慢を互いに戒め、自らすすんで絶えず努力しなければならない。)
     国際社会の一員としての自覚を持つこと、そして質素で誠実な生き方をすることを訴えたこの詔書は、永く、国民精神の規範として語られることとなった ・・・
    戊辰詔書(ぼしんしょうしょ)に記された「華を去り実に就く」という言葉は、誠実に生きることの大切さを訴えるものだったので、多くの教育者に支持され、学校で学生・生徒たちに語り伝えられた。早稲田実業学校(中学校・高等学校)もそのひとつである。・・・
     早稲田実業学校に「去華就実」という校是をもたらした天野為之は、安政6年(1859年)、唐津藩の藩医であった天野松庵の長男として、江戸麻布桜田の唐津藩主小笠原邸で生まれた。・・・
     早稲田実業学校に「去華就実」という校是をもたらした天野為之は、安政6年(1859年)、唐津藩の藩医であった天野松庵の長男として、江戸麻布桜田の唐津藩主小笠原邸で生まれた。幼くして父を亡くしたので、明治2年(1868年)、母と共に唐津に帰って来た。翌々年、唐津藩洋学寮が開設されると、そこに入学した。11歳であった。唐津藩洋学寮は「耐恒寮(たいこうりょう)」と呼ばれ、唐津城の御殿を改造して作られていた。そこに高橋是清(たかはしこれきよ。後に内閣総理大臣となる)という型破りの若い英語教師がいた。まだ18歳だが、たいへんな大酒飲みで豪放極まりない男だった。天野ら少年たちは、この英語教師から強烈な影響を受ける。・・・
     高橋は翌年、東京に戻った。天野もそれを追うように明治6年(1872年)、上京して東京開成学校に入学する。ここで加藤高明、高田早苗、坪内逍遥らと交わる。東京大学に進んでからはフェノロサから英国流の経済学を熱心に学び、その研究に励む。いっぽう、小野梓、大隈重信らの唱える自由民権思想に深く共鳴し、大学卒業を待って大隈の率いる改進党に入党して政治運動に加わる。明治15年(1882年)、大隈が東京専門学校(1902年、早稲田大学と改名)を設立するにあたり、それに積極的に参加し、自ら専任講師となって経済学を教える。当時の早稲田には、内外の学生の評判となった「早稲田三博士の名講義」というのがあったという。高田早苗の憲法学、天野為之の経済学、そして坪内逍遥の文学である。・・・
     早稲田大学での講義を基礎に、明治19年(1885年)、天野は28歳の若さで名著「経済原論」を刊行する。これは日本人によって考えられ、日本語で書かれた最初の経済原論であり、日本における自由主義経済理論研究の出発点として、わが国の経済学史に残る業績とされている。明治初期にも、外国の教科書の翻訳や紹介をした経済学書はあったが、天野の「経済原論」は、それらとは違う次元の作品であり、輸入学問の域を脱した最初の達成とされている。 ・・・
     経済学者としての天野は、英国古典派経済学から新古典派への橋渡しをしたジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill)の影響を受けており、わが国におけるミル経済学研究の先駆者でもある。協同組合論の研究業績もあり、わが国の生活協同組合や農業協同組合の運動に理論的な影響を与えている。 ・・・
     しかし、このころの天野の活躍は、学者としての枠をはるかに超えるものだった。自由民権思想の普及のために各地に演説に出かけ、普通選挙の実施など、市民的権利の拡張のために奔走した。ついに明治23年(1889年)、わが国最初の衆議院議員選挙が実施されると、唐津地方で立候補し、当選した。この選挙においては、当時の品川弥二郎内務大臣の指示で激しい選挙干渉が行われた。反政府勢力の重要人物であった大隈、天野の出身地である佐賀県と、板垣退助の出身地である高知県では特にその選挙妨害がひどかった。佐賀県では死者4名を数えた。天野は二期目の選挙では落選し、それ以後、議員活動を再開する姿勢は見せなかった。・・・
     天野にはジャーナリストとしての一面もある。東洋経済新報社の経済評論誌「東洋経済新報」は、明治29年(1895年)、町田忠治を初代主幹として発刊されたが、天野は早稲田大学教授のまま二代目主幹に就任し、この雑誌の自由主義的な編集方針を確立した。また自身、明治36年(1902年)には、「経済学綱要」をこの出版社から刊行した。・・・
     天野は明治32年(1898年)、法学博士の学位を受け、大正4年(1915年)、大隈の後を継いで早稲田大学の二代目学長となる。このかん、明治35年(1901年)には早稲田実業学校を開校し、ここでも二代目校長を務めた。・・・
     激動の明治期を生きた天野は、学者、政治家、思想運動家、ジャーナリストと、様々な顔を持ち、幅広い分野でめざましい活躍をしたが、生涯の後半は青少年教育に没頭した。早稲田実業学校の校長として学校の運営にあたる[削除しました]ら、70歳を超えても、自ら少年たちに英語や経済学を教え、昭和13年(1938年)、80歳でその生涯を終えた。 ・・・
     爵位や金銭的な贅沢を求めず、思想、学問、そして教育に生涯を捧げた天野の生き方は、彼が早稲田実業学校の校是と定めた「去華就実」そのものだったと言えるだろう。いろんな分野で活躍したが、大隈重信や町田忠治という、「華」のあるスターと共に、彼らを助けて事業を興し、スターの後を継いで二代目指導者となることが多かった。いっぱんに評論雑誌の寿命は短く、刊行を続けること自体、容易でないのだが、「週刊東洋経済」は我国を代表する長寿雑誌として今に続いているし、早稲田大学と早稲田実業学校のその後の発展については説明するまでもない。いずれの成功も、中興の祖としての天野の存在なくしてはかなわなかったことだろう。唐津の生んだ誠実と気骨の人として、今の若い世代に記憶してほしい人物である。 ・・・
    引用元:http://www.miyajima-soy.co.jp/ 「去華就実」と郷土の先覚者たち 


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