女子美の中高大連携授業
「文系は刺し身のツマ」に
今後は、産業ニーズと合ってるかどうかが重要。
学士と高専卒が同じ括りに。
例えば、DMG森精機
卒業・学位_____初任給__想定初任年収
大学院卒(博士課程)475,000円_6,825,000円
大学院卒(修士課程)310,000円_4,650,000円
大学・高専専攻科卒_300,000円_4,000,000円
君が日頃操作しているご自慢の高精度の測定装置で「観察」し測定した結果得られた「データ」を「事実」と認定して、それに基づいて特定の理論が検証され、科学的真理として実証されるのでないのですか?
それならば、「観察」と「データ」と「事実」は一連の行為の異なる局面を表現しているに過ぎない。
P.M.DuhemやN.R.Hansonによって提唱された理論負荷性の命題とは、科学的な観察・事実・データに対する理論の認識的先行性を主張したものだ、と私は再三述べてきた。それは今般、必然的な「改説」に到達した以前の君が長らく盲信し、声高に放言してきた「(似非)経験論的な論理実証主義」の検証理論を批判したものだ。
ちなみに、君が盲従した「(似非)経験論的な論理実証主義」ではない「真の」それとは、概要次のようなものだ。すなわち、人間の対象知につき究極的に次の二段構造で理解した。
①まず、感覚的与件が現認される
②次いで、当の感覚与件につき判断が行われる
そこでは、観察言語と理論言語が峻別され、科学理論は観察事実の集積を基盤に機能的推論によって構成されると考えられた。したがって、感覚与件の第一段階的な現認は万人において共通・同一で明証的に確実であると理解された。それゆえ、これにより理論命題の真偽が検証できるとされたのである。多くの理系人士は、そのようなお考えではあるまいか。
しかしながら、上記P.M.DuhemやN.R.Hansonらは、理論の反射を受けない純粋無垢な現認など存在しないとし(その理由は既述につき割愛)、観察事実は科学理論を検証したり証明したりする際での中立的な基盤ではありえないと批判した。それゆえ、理論を批判するのは観察事実ではなく、新たな理論でなければならないとしたのである。
君にでもわかるように易しくご説明してみた。
お分かりかな。
自然法は普遍性を有する自然現象に類したものとして科学的理論知の研究対象になるが、実定法は人為的な構築物として技術的な実践知の検討対象にしかならない、ということですね。
このように理解すると「自然法思想」の位置付けが明確になります。
観察結果を感覚与件と認識すれば、それは事実を検証するための中立的な基盤になりうるが、観察結果を事実と認識すれば、それは理論負荷性を前提にしており、事実を検証するための中立的な基盤にはなり得ない、といことですね。
となると、事実であると主張する数弱君の観点はそもそも、論理実証主義の観点にはなり得ない。




































