在籍生徒の9割が東京と神奈川の学校
「文系は刺し身のツマ」に
今後は、産業ニーズと合ってるかどうかが重要。
学士と高専卒が同じ括りに。
例えば、DMG森精機
卒業・学位_____初任給__想定初任年収
大学院卒(博士課程)475,000円_6,825,000円
大学院卒(修士課程)310,000円_4,650,000円
大学・高専専攻科卒_300,000円_4,000,000円
>また、「普遍性を目指す理論」とは何だろう?
数理モデルであれば、限られたパラメータを用いた方程式等で表現されるので、自ずからその範囲に限界があり「普遍性」を目指すものとは思われない。
一例として、アインシュタイン方程式は物質量・分布と空間のゆがみの関係性を示すもの(大スケールという意味で普遍性を示す?)だが、電磁気力、核力などは含まないので当然限界があり「文系的な普遍性」とは意味が異なると思われる。
私は、あなた様のこのレスを読んだ時、呆れ返りました。なんで普遍性の議論が物理学における「統一場の理論」の議論に置き換わってしまうのだろうかと。
普遍性と言えば、文系でも理系でも、ある条件下でのある法則の普遍妥当性を意味するのに決まっているではないですか。
まあ、哲学的な議論に慣れていない素朴な技術屋にはありがちな思考の傾向性なのかもしれません。
でも、最新のレスはかなり注意深い分析が行われていて、共感できます。
大方、私が予想していた見解で有意義な意見の交換ができたと思いました。
科学者と技術屋は、異なる。
そして、ポストモダンの思潮が知の岸辺を席巻した後では、科学者の、普遍性を目指す統合的な世界モデルが解体されて、技術屋のプラグマティズムに貫かれた有用な技法が支配する世の中が登場する。その最たるものが、プログラミングとデータサイエンスです。
自然科学が説く合理性は、必ずしも一般人が経験する日常世界での合理性とは一致しなかった。なぜなら、科学の説く論理的合理性と一般人における日常の経験的合理性とは乖離するからである。それゆえ、科学や唯物論哲学等が排除しようとした妄想、迷信であっても、それを主題とした物語を共有した人々の間にあっては、十分に「合理性」を有し、存分な理由になったのである(たとえば、単なる形式的な科目数の多寡のみを唯一のよりどころにする画一的な国立大学妄信の権威主義者らに顕著な民草根性を見よ)。
したがって、経験主義科学が重視する経験的「事実」と一般の人々が現実に生きている経験世界での現実としての「暮らしの理」とは、そこに大きな断層があることを率直に認めるべきであろう。そのうえで、他スレでの不毛な単純機械的「国立大vs私学」の言い争いをみれば、身近に東大はもとより早慶レベルの私立大学さえなく、大学といえば戦後に政策的に専門学校が統合されて昇格、設置された国立大学しか存しない地方の方々が、「国立」との看板を過大視し、権威主義的価値観に転落するのも、ある意味致し方ない事情にあると言わざるを得ないのである。
理系(数弱)くんは、金を基準にするんなら、掲示板で吠えてないで、実践しないと意味ないぞ。
「理系は金になる」なんて言ってもしゃあないだろ、現に稼がないと。理系だろうが、文系だろうが、高卒だろうが、掲示板のゴタクより、現ナマっつうことだ。
そうでなく、理系の研究が社会に役立つと主張したいなら、それは社会の中で他人の力を借りて実現するものだから、これまた理系だろうが、文系だろうが、高卒だろうが、相互依存ということに変わりない。理系だけが特別の価値創造だと言いたいのだろうが、社会で認められていない。理系には社会が作れないから、意味がない。
哲学論議に「私文」も何もあるまいよ。実際に私自身が研究対象にする学究には、京大系が多い。また、そうしてどうでもいい落書きばかりせず、君も一度くらいこの意見交換に参画してみてはどうかね(知的に無理かもしれんが)。
ところで、(自然)科学=分科学はそれぞれの領域につき細分化を進めた。その際、独特の言語でその領域を構築し、一般の人々の接近を拒んできた。それゆえ「学」に乏しい人々は、「学」でない生活上の経験知でその確実性を築き、上述「暮らしの理」を作り上げてきた。したがって、そうした「学」が作り上げた技術が生活に役立つ限りにおいて、自然科学の成果たる科学=理屈・理論に頼る必要はなかった。換言すれば、科学知も民族の知恵として伝承的なフォークロアを完全に凌駕することはできなかったといえる。




































