在籍生徒の9割が東京と神奈川の学校
京都大学はなぜ公立天国になってしまったのか?
もはや京医が理一に抜かれるのも時間の問題になってきました。
地方国公立出身者と都市部中高一貫校出身者どちらの方が優秀かという議論は置いておいて、家庭環境の属性の違いが研究者としての数の違いにつながっているのではないだろうか。
私は都内の某御三家出身だが、生徒の親は医師や大企業のサラリーマンなどが多かった。
研究者の裾野という点では、まさにそこが本質だと思います。
地方国公立出身者と都市部一貫校出身者の学力よりも、育った家庭の構造や文化資本の差が、研究という非効率で長期的な営みを選ぶかどうかを決めてしまう。
医師や大企業勤務の家庭では、子どもに安定や実利の道を勧めがちで、博士課程に進むこと自体が逸脱に見えてしまう。
地方の国公立には、生活に余白がなくても、学問に真剣な動機を持つ学生がいる。研究者の数の減少は、才能の枯渇ではなく、社会がリスクを許容しなくなった構造の反映に過ぎない。
適性ですよね、勉強に向かない子に将来有利だからって無理に受験させるのはかわいそうです。
ただその適性を見極めるのは難しいです。
大人になって書類が読めないとか計算ができないのは苦労するので算数国語は身につけるべきだし、社会や理科も生きる為には知っておいた方がいい。
義務教育で学ぶ内容は最低限の知識なんだと思ってます。
適性って言葉で片づけるのは簡単だけど、実際は家庭の経済力や地域の教育環境の差がその適性を形づくってることが多いんだよね。
努力や興味の問題に見えて、背景にある構造が見えにくいだけ。学ぶ力を伸ばすのも潰すのも環境次第で、本人の資質だけで判断するのは少し乱暴だと思う。
周囲や身近に東大・京大出身者がいると、本人にその気がなくともまわりが変に期待するからねえ(親が著名なスポーツ選手などがいい例)。おおらかな人だったらいいけど、目に見えないプレッシャーをかけられて、その後の人生にも影響をずっと与え続ける。問題はどこを卒業したかではなくて、その後にどのような人生を歩んでいけるかだと思う。
周囲の期待が本人の進路形成に介入するという指摘はその通りなんだけれど、そこで議論を終えてしまうと大事な部分が抜け落ちてしまう。プレッシャーが重くなるのは、その人が何を目指すかより、目指せる選択肢の幅がもともと狭く作られているからだ。環境が資質を押し上げも引き下げもするという話をする時、本当はその環境がどう分布しているのかまで見ないといけない。
東大や京大に進むかどうかは象徴に過ぎなくて、階層や地域で教育可能性の幅そのものが違うという構造の方が本質だ。周囲が期待するから負担になる、という説明は現象の半分だけで、期待が負担になるほど選択肢が脆く固定化されている方が問題なんだと思う。学力や興味が本人由来に見えるのは、環境の差が見えにくいからに過ぎない。
受験勉強の問題点はそれが極端なインプットの連続であること。もちろん試験というアウトプットはあるが社会的なアウトプットは少ない。一方スポーツや芸術、友人とのコミュニケーションはアウトプットが多い。社会人になると公私に渡りどんなアウトプットをしたかが価値となる、どれだけインプットされているかは評価されにくい。
私は事業をやっているが一流大学を出ててもパッとしない経営者が比較的多いのはこの辺だと思う。勉強して学んだことを変換してそれらを組み合わせて自分なりの創作物にして初めて価値となる。行動を起こし実行する、勉強はそのためにある




































