アートの才能を伸ばす女子教育
年収1200万で自転車操業?3人目中絶寸前の家庭にみる「日本の中流崩壊」と社会保険地獄
なぜか消えてしまったので再掲です。
先日、Yahoo!ニュースにあがった毎日新聞との共同企画による記事
(ニュース要約)
首都圏在住、共働きで世帯年収1200万円を超える30代夫婦。子どもは2人いて、第3子を授かったものの、中絶を選んだ。理由は、住宅ローンが月15万円以上かかり、保育園の空きがない上に民間保育は高額。さらに中学以降の私立進学を視野に入れると教育費負担が想像以上に重く、将来的に家計が破綻する不安を抱えたからだという。
以上です。
記事は「中流・上位中流」ともされる層であっても、育児環境の脆弱さから子どもを安心して産めない日本社会の構造的な問題を浮き彫りにしている。
いわゆる「勝ち組」とされる世帯年収1200万円クラスでさえ、3人目の子どもを産むことを諦める。これは衝撃的で、同時に「日本の中流」の脆弱さを象徴している。
まず、住宅費と保育費のダブル負担。さらに学歴偏重社会ゆえの私立進学コスト。こうした重圧が、産む産まないの選択を大きく左右してしまう。結局「産めるかどうか」は、個人の価値観や努力ではなく、社会の仕組み次第だという現実が見える。
ヤフコメにも見られる通り
・年収1000万以上でも足りないってどんだけ日本は子育てに冷たいんだ
・保育園入れないなら、結局母親のキャリアも止まる
・3人以上育てるのは一部の超富裕層だけ
・住宅ローンの規模もでかすぎて詰む
・教育費をもっと公的に出すべき
といった多様な論点が次々に飛び交っている。
しかもこの事例は、制度的な穴のせいで「産む自由」すらないことを示している。子どもを産みたい人すら産めないというのは、少子化対策の根本否定にほかならない。
国は「子どもを増やそう」と言うが、そのために必要な社会保障・教育・保育の支援を徹底して組み直さなければ、現実には何も変わらない。
このニュースが本当に突きつけている問いは
「安心して産める社会」とは、結局どこまで公が責任を持つべきか?
ということだ。
「産む・産まない」の選択が個人の自由と言いながら、実質的には「産めない」方向に追い込まれている日本の現状を、もう逃げずに直視しよう。
住宅か高くなったので、住宅ロ-ンがたいへんで、私立中高一貫校や塾代、大学は海外の私立大学も考えているけど、お金がかかる時期は海外旅行を少なくするなどの節約も考えないといけないのでしょうか。なんだかなと思います。
うちもさんの状況、わかります。
住宅ローン、私立進学、さらに海外大も検討されているとのこと、確かに大きな負担ですよね。
家計の中で、教育費と住宅ローンが重なるのは日本の中流層にとって深刻な問題ですし、それが「保育料は無料」「介護は家族で」という制度の矛盾と地続きにあると思います。
つまり。
・教育は自己責任
・老後の面倒も家族責任
・でも社会保障は最低限しか整っていない
という仕組みの中で、多くの家庭が可処分所得を圧迫されている。そこが問題。
だから住宅ローンを組めば旅行を減らし、子どもの進路でも節約を考えざるを得ない。
一方で社会全体では保育や介護の人材不足に苦しんでいる。
結局この国の制度は「家庭の善意と家族の体力」に頼りすぎなんだと思います。
私としては「家族の負担だけでなんとかしろ」という制度設計のままでは誰も満足にお金も時間も使えないし、さらに保育や介護の職業も評価されないという悪循環が続くのではと危惧します。
うちもさんがおっしゃるように、海外旅行を控えるというのは個人レベルでの解決策ですが、社会全体では「家族にすべて背負わせない仕組み」をもう一度見直す必要があると感じます。
私立や海外大を目指すご家庭も含め、人生設計を萎縮させるほどの負担が集中しているのは構造的な問題ですから。
>あの時に包括が動き、ヘルパーさんが入るなり入院していれば、孤独死は回避できたのではないかと気の毒でなりません。
一生大変さんはお優しい方と思いますが、孤独死イコール不幸ではないと思います。傍から見ると孤独死は寂しく感じますが、どう感じるかは本人次第ではないでしょうか?
所詮、人間死ぬ時はひとり、です。看取られて死にたいという人もいれば、ひとりで静かに死に向かいたいという人もいると思います。
生ずるは独り、死するも独り(以下略)。
レスを読んで気になったので書かせていただきました。
お考えのとおり、「孤独死=必ずしも不幸」という見方は一面的に過ぎる、とのご指摘はもっともだと思います。実際に、内閣府の調査ではおよそ76%もの高齢単身者が「今のまま一人暮らしでよい」と回答し、子や親族に依存しない生き方に満足しているデータもあります。さらに生活の楽しみとして、テレビや友人との交流、散歩など日々の喜びを見出しておられる方も多く、独居を前向きに選んでいる高齢者像は確かに存在します。
しかし、そうした方々の「一人で大丈夫」という声の裏に、無意識に根付いているのが「人に迷惑をかけたくない」という日本的メンタリティであることも臨床で強く感じます。介護や看取りの段階で「迷惑をかけるぐらいなら一人でいい」と口にする方の本心には、必ずしも「積極的な孤独死の肯定」ではなく、諦めや遠慮が含まれているケースが多いのです。
さらに、一人暮らしで最期を迎えるということは、老衰で穏やかに眠るように亡くなる場合だけとは限りません。現実には病気や事故、あるいは体調急変によって苦痛に見舞われた最期を迎える方も少なくありません。そのとき、たとえ生前に「一人で死にたい」と言っていたとしても、いざ死の直前に恐怖や孤独感から「助けて」と思う可能性は完全には否定できないでしょう。
人は死を一度しか経験できません。だからこそ「思い描いた通りに[削除しました]る」と保証されることなどなく、あらかじめ十分なケアや看取りの仕組みを社会として整えておく意義は決して小さくないと感じます。
加えて、高齢者自身のアンケート回答でも「介護が必要になった場合は子どもではなく介護サービスを頼りたい」という回答が多くありました。つまり、高齢期の一定の自立は望んでも、最終局面においては専門職や公的な支援の力を必要とする現実が示唆されています。
孤独死を「不幸」と一括りに断じる必要はありませんが、その一方で「孤独死でもいい」と生前に口にしていたとしても、本当に最期の最期までそれが本人の幸せかどうかは分からないのです。だからこそ、地域包括支援センターの役割を「相談窓口」にとどめず、移行支援や看取りの実務まで踏み込ませることで、多様な最期に備えられる仕組みを構築しておくのは、人の尊厳を守る社会にとって欠かせないと私は考えています。
柔らかい否定ではありますが、看取りの経験を踏まえつつお伝えしたく、長文ご容赦ください。
>現実には病気や事故、あるいは体調急変によって苦痛に見舞われた最期を迎える方も少なくありません。
スレの趣旨から外れたレスに丁寧に対応していただきありがとうございます。
個人的な考えですがありがちなパターンのひとつとして老衰により食事が取れなくなり脱水症状となり血栓ができて脳や心臓などに飛んで苦しんで死亡とになったとしても、それは一度きりです。病院に運ばれて救命されるも身体が動かなくなったり胃瘻を設置され簡単には[削除しました]なくなっても最期の時は必ず訪れます。枯れるのではなく栄養状態が保たれているのにその時、安らかにこの世を去ることができるか?、です。他に何か理由がありずっと病院に入院していられるならば多少でも苦しみから逃れる処置をしてもらえるでしょうが、老衰だけではそんなに長くはいられないような気がします。私はそれが怖いのです。
孤独死は不幸かさん。
ご自身の考えは尊重しますが、やはり「老衰なら苦しむとしても一度きりだから良い」というのは、看取りの現場では楽観的すぎる印象です。
実際には、脱水や血栓に加え、衰弱した体では小さな肺炎や心不全も致命的で、最期の何日・何週間という単位で長く苦痛が続く方も少なくありません。
そのとき一人きりで翻意して「助けて」と叫ぶ声に誰も応えられない状況は、やはり避けるべきだと思います。
もちろん死は一度きりです。しかしその一度きりをどう支えるかが医療や地域の役割であって、個人の「自己責任」にすべて委ねるのは酷に思います。
それは表面的には自己決定の尊重のように見えても、結果的には社会的責任の放棄に等しいのではないでしょうか。
ここは立場の違いとして受け止めますが、引き続き考えていければと思います。
ぜひ退席されずに、今後も独自の視点で意見をいただけたら幸いです。































