女子美の中高大連携授業
懐かしい思い出
昔懐かしい話しです。
母の背中はとっても大きく感じていました。
新聞を読むとき、母は必ず座って畳の上に新聞を置きかがんで
読んでいました。背中を全部天井にむけるので、私は母が新聞を読み出すと
必ず上に乗って遊んでいました。母は一度も怒る事なく私を乗せたまま
一生懸命に読んでいました。
今ではその母の背中も小さくなってしまいました。
私は44歳、母は73歳です。
幼い時の母との何気ない日常生活は一生の宝物となりました。
私の子供も中学生になりましたが、私との些細な日常生活を将来思い出し
懐かしんでくれる日が来るのかなと考えてしまいました。
もしよければ、皆さんもお母さんとの思い出を懐かしんでみてください。
先日、田舎の両親と私達姉妹弟で、金婚式を祝い温泉に行きました。
父がすごく喜び、妹と、父は絶対泣くよ、と言い合ってちゃかしていました。
本当に色々な事がありました、両親はしょっちゅう夫婦喧嘩、
物がとびかっていました。
私も妹も、酒乱の父を見ていたので、酒飲みとは結婚しまいと誓い合い、
主人も義弟もお酒は飲みません。
たまに実家に行ったら、父に何故に呑み助の自分に娘の婿が飲まないのか、
と言われていましたが、今ではかわりに私と妹が相手しています。
弟と妹とカラオケに行き、もうこんなこともできないねと、
ゆっくり話しもできました。
文句も言わずに出してくれた主人に感謝です。
ダイヤモンド婚まで、またそれ以上に、
二人で元気で長生きしてほしいと思っています。
こんなに素晴らしいスレがあったんですね〜!
もう涙、涙で一気に読ませて頂きました!
私の母はフルで働いていたのに、毎日私、弟、母の3人分のお弁当を作っていました。
勿論、冷凍食品など無い時代、7時に家を出る母は、出勤前に洗濯までしていました。
勿論、全自動など無い時代です。あまり裕福ではなかった家は、服も母の手作りでした。
それなのに、それなのに・・・
私はとんでもない娘だったのです。
やれ弁当がワンパターンで茶色いの、洋服がカッコ悪くて着たくないの・・・
しかも皿洗い一つ、掃除すら手伝わない!
思い出すと、申し訳なくて・・・今、泣きながら打っています。
高齢になり、あっちも痛い、こっちも悪いの母。
今までの恩は到底返せないけれど、精一杯孝行するからね!
こんなに気持ちを浄化してくれたスレ、
本当にありがとう!!
子供の頃、住んでいた社宅のお隣さんは我が家と同じ家族構成。
3人兄弟で歳も一緒でした。
よくお互いの家を行き来し、食事もお風呂もどちらで入っていたかわからない
仲の良いお付き合いでした。おばさんはまさに私の第二の母でした。
ところが、子供たちが9、7、3歳の時、おばさんが病死してしまったのです。
すごくショックでした。
それから数ヶ月後、小学校の遠足の時、同級生だったその子のお弁当を見てびっくり。
おかずはなくソフトボールの一回り大きい位のおにぎりが2個でした。
のりで全面まかれた大きなマンマルな真っ黒おにぎり。
「こんな大きなの食べられないよね」という私に
「食べれるよ」と彼は全部食べました。
おにぎりの中は一つにはたらこが1本まんま。
もう一つにはソーセージが3本入っていました。
帰宅後、私は母に「○○君、お弁当どうしてた?」と尋ねられたので話しました。
母はお隣りにお弁当をつくると申し出たところ、ご自分で用意されるとおじさんは
おっしゃたそうです。
その後、おじさんは再婚せず子供3人を公立小中高と出し、2人は国立1人は私立大学と進ませ、今では7人の孫に囲まれて幸せに暮らしているそうです。
いつもニコニコしていたおじさん、小さい子供たちを育てあげること
どんなに大変だったことでしょう。
尊敬しています。
おむすび さんへ:
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素敵なお話を聞かせていただいて、ありがとうございます。
もう…号泣です…。お隣のおじさんが現在お幸せにお過ごしになっていてよかったです。
男手一つでの子育てはとても大変だったでしょうが、きっと、おむすびさんご家族のような方が
お隣さんですごく心強かったと思いますよ。
あ〜良いお話だわ〜涙が止まらない〜〜良いスレだ〜。
大きな真っ黒いおにぎり。お父さんは、たらことソーセージを欠かさず買っておられたんでしょうね。食べたら涙が出そう。いい話ですね。
先日、新幹線の前の席に座ったビジネスマン(30代後半かな?)が娘さんにメールをしていました。文字の大きい携帯だったのでちょっとだけ内容が見えてしまいました。(ごめんなさい!)
「お前ももう小4なんだから、自分のことは自分でしなさい・・・」とか、すごくながーいメールを時間をかけて書いてました。
お父さんの足元には、食べ終わったお弁当やらアイスクリームの空き箱が散乱していて、「おいおい、お父さん。あなたこそ、自分の食べたものは自分で片付けたら?」って、心の中で突っ込んでしまいました。(笑)
小4の娘さんも、お父さんの長ーい長ーいメール見て「うっざー」と言っていることでしょう。
でも・・・、お父さんの愛情もいいものですね。
娘に嫌がられても気にしないでね。健康に気をつけてね。
都心の男子中高一貫校に通う中一男子の一人っ子と妻の3人家族です。
典型的な東北の貧しい田舎に六人兄弟の末っ子として生まれた私は
昼は多忙な母から夜になるとこう呼ばれていました。
「宝っこさん」
44歳で私を生み、赤貧のなかにありながら愛情一杯に育ててくれました。
恥を省みず自ら申しますが、宝のような存在だったのでしょうか。
母は時に手厳しいことを言い放つ人でしたが暖かい愛情を
生涯忘れることはありません。
大家族を言い訳に寝る場所があたかもそこしかないかのようにかこつけて
私は小学5年の冬まで母と同じ布団でした。
母は比較的教育熱心な家柄に生まれ、財力が許せば、
当時の奈良女子師範あたりに入ることを夢見ていたということを
高校生だった私に話してくれました。
いかに財力や意欲があっても大正時代の当時の母の実家に
それほどの”力”はありません。
貧農の父のところに嫁ぐとき、嫁入り道具として持参したもののなかには
たくさんの教科書があったそうです。
しかし、それらは先に生まれた姉や兄たちの折り紙や紙風船などのおもちゃに
なってしまったそうです。
そして、私は今、叶わぬ夢を抱くことがあります。
一生懸命、不器用なりに努力する今のわが子と私の亡き母の会話する情景を。
たぶん、微笑ましい会話をするだろうなと。
私が子供を授かった年齢よりも高齢で私を生んでくれた両親に感謝するとともに
亡き両親は私の誇りでもあります。 (長文にて失礼しました)
もう本当に朝から泣かせていただきました。こんなに泣いたのは久しぶりです。
そう、私の母が5年前に亡くなった時以来です。
私は3姉妹の真中で、父は早くに亡くなり、母は女手一つで私たちを育ててくれました。
気丈な母で、小さい頃の思い出は厳しかった事ばかり。
でも何より私たちの事を考えてくれ、三姉妹が全員長男に嫁いで行く事になった時も、
愚痴一つこぼさずに送り出してくれました。
姉妹全員に子供が生まれ、末の娘と同居する事になり、孫に囲まれ忙しい中にも幸せなひと時。
孫たちが大きくなったら、一緒に旅行もしようね、習い事もしたいねと言っている矢先に
母は病魔に襲われました。
進行癌で、完治は難しい状態。娘たちが動揺している中、母は毅然と告知を望み、
それを淡々と受け入れ、成功率の少ない手術を受けました。
苦しい闘病生活にも愚痴一つ言わずに堪え、同居してる孫や、
仕事をしている末娘の心配ばかりしていました。
皆の願いむなしく再発し、余命3ヶ月と告げられた時も
(さすがにそれは母には告げれませんでしたが)自分からホスピスに行くことを決めました。
私は主人の両親と同居する身でしたが、幸い妹の家には車で20分、病院には30分の
距離だったので、毎日どちらかに通うことができました。
ホスピスに通院するようになってからも、母は共働きしている妹夫婦の役に立ちたいと、
痛み止めを飲みながらもできるだけの家事をこなし、孫たちにも苦しい顔を見せないよう
がんばっていました。
幼稚園のお迎えや買い物は私がしましたが、誰が止めるのも聞かず、亡くなる1週間前まで自宅でがんばりました。
特に印象に残っているのが、亡くなる20日ほど前に他県に嫁いでいる長女を呼んで
「あなたが喪主となるのだから私が死んだ時困らないように」と、
父が亡くなったときに母が作ったノートを手渡した時の事です。
中には親戚や近所の人から頂いた香典などの覚書、住所録、お寺へのお布施、葬儀の進め方などが
びっしり書かれ、新たに、自分の葬儀に呼んで欲しい人や、弔辞をお願いする人の名前までが、書かれていました。
更に3冊の通帳を「あまり残してあげられなかったけど許してね。」と言いながら
娘一人一人に手渡してくれました。
これで思い残す事はないわと笑う母とは対照的に,私たち娘たちはもう涙・涙...
最後まで本当に気丈な、そして優しい母でした。
多分私は母のようにはなれないとは思いますが、あれから何かつらい事があっても、
母の大変さに比べたらまだまだ大丈夫、まだまだ乗り越えられる。
と、思えるようになって来ました。
少しは強くなったのかも。でも相変わらず泣き虫ではありますが。




































