在籍生徒の9割が東京と神奈川の学校
懐かしい思い出
昔懐かしい話しです。
母の背中はとっても大きく感じていました。
新聞を読むとき、母は必ず座って畳の上に新聞を置きかがんで
読んでいました。背中を全部天井にむけるので、私は母が新聞を読み出すと
必ず上に乗って遊んでいました。母は一度も怒る事なく私を乗せたまま
一生懸命に読んでいました。
今ではその母の背中も小さくなってしまいました。
私は44歳、母は73歳です。
幼い時の母との何気ない日常生活は一生の宝物となりました。
私の子供も中学生になりましたが、私との些細な日常生活を将来思い出し
懐かしんでくれる日が来るのかなと考えてしまいました。
もしよければ、皆さんもお母さんとの思い出を懐かしんでみてください。
いいレスですね〜。
お小遣いをねだるのも、おやつをもらうのも、内職でミシンを踏む母の横でした。
働き者の母は、内職で子供三人の教育費を出してくれました。
(父は居ましたが、家にお金を入れませんでした)
自分が親になり、女手一つで子供を育てる苦労が、やっとわかりました。
優しい夫に恵まれ、子供は二人。母の苦労の半分もしていないと常に思います。
遠い海外に嫁ぎ、親孝行してあげてないのが辛い。
でも、いつも母を思って生きています。
私は父に一度も怒られたことがありません。
母にはしこたま怒られましたが。
本当に穏やかな父です。
(こうやって書き込みながら涙がとまりません。)
東北の田舎で育ちましたが、いつも6時前には帰ってきて
晩酌につきあいながらいろいろな話をしました。
思春期になって少しずつ父親を遠ざけるようになり、
それでも父は何もいいませんでした。
今結婚して主人は二人の子供を怒りまくります。
そして、私もです。
父は本当にすごいと思います。
子供を怒らないということは大変なことです。
(決して私は怒られないいい子ではなかったです。)
私は今だからいえます。
父が大好きです。
皆様の素敵な投稿を読んで、ひたすら涙、涙です。
この素晴らしいスレッドに出会えてよかった!!
おかげさまで両親は健在ですが、遠方のためなかなか会えません。
私の実家は、当時としては裕福だったと思います。反抗期だった私は「お母さんなんて、たまたまお金がある家に嫁いで、なんの苦労もしないでいい気なもんね!私の気持ちなんて分からないくせに!」と、いま思えば訳の分からない暴言を吐きまくっていました。
私が結婚してから、母がそれはそれは苦労していたことを知りました。両親が結婚した当時は、5人もいる父の弟・妹たちはまだ学生で、さらに舅姑、大姑・・・すごい人数の食事、お弁当を作る毎日。お風呂も当然最後。朝ごはんが終わった瞬間から昼ごはんの準備、そして夕食。もちろん田舎の広い家・庭の掃除、洗濯。舅たちの病院の送り迎え。私たち兄妹が在学中は、ずっとやっていたPTA役員の仕事。しょっちゅうある来客の世話。
専業主婦ではありましたが、今仕事を持っている私の何倍も働いていました。そして、大姑、舅、姑の介護。昼も晩もなく看病、通院の世話。下のお世話も当たり前。認知症のすすんだ舅から怒鳴られたりもしました。もちろん、私たち3人の子供の世話。父は昭和一桁生まれ、絶対に台所にたつひとではなかったので、それは大変だったと思います。
でも母は、私たちに愚痴などいっさいこぼさなかったし、今でも姑たち誰一人のことも悪く言いません。むしろ「みんながいてくれたから、お母さんはあるのよ」と。何事も「人様のおかげ」が口癖です。
末っ子の私は、今でも気がかりらしく、今朝も「お米きらしてない?今日宅急便で送るからね。子供たちが大好きなお菓子や果物もたくさんいれるからね。」と電話がありました。お米をきらすこと、今ではまず無いのですが!
この冬休みは、塾の冬季講習があるので帰省はやめようかと思っていましたが、ここのスレで「やっぱり、すこしでもいいから帰ろうかなあ」と思い直しています。
あんなに大所帯だった実家も、今は老夫婦だけで暮らしています。
なんだか、母親自慢みたいになってしまいました・・すみません。
素敵なスレなので、あげさせて頂きます。
一昨年、父を亡くしました。
私自身は親にとっていい娘とは言えませんでした。
仕事が多忙だった為に、母に家庭をまかせきりだった父。
思春期になると私はひどく反抗して、
父を怒らせるようなことばかりしました。
期待とは正反対の職業についたり、音信普通になったり。
それでも何年か後には父は私の仕事を応援してくれ、成果を手紙で誉めてくれました。
ごく幼い頃、父が枕元で本を読んだりお話をしてくれたのを
覚えています。学歴はないけれど、独学で博識だった父の話は
面白くて、暖かい声を懐かしく思い出します。
父の晩年、子供を介して実家に帰ることが多くなりました。
兄弟の中で、かなり年の離れた末っ子の私。
一番最後の孫の誕生を喜んでくれた父に、ほんの少し親孝行ができたかな、
と思っています。
父の最後は看取れませんでした。
父が大好きだったコーヒーを飲む時、ふと
もう一度飲ませてあげたかったな と思います。
母との思い出は、日常的なものばかりでたくさんあって、ありすぎて逆にこれといってピックアップするものがありません。まだ元気で、近所にいるということもあるかもしれません。
逆に父との思い出は、もう既に鬼籍に入っていることもあり記憶の引き出しの中の宝石の粒みたいにひとつまたひとつと、思い出されることがあります。
下に弟がいることもあって、私は物心ついた頃から父と過ごすことが多かったようです。営業職で多忙な父でしたが、よく遊んでくれました。
小学生になったお祝いといって、私だけを連れ出してくれた銀座の資生堂パーラー。一週間くらいテーブルマナーの練習をし、ワンピースとエナメルの靴を新調して、ディズニー映画を観た後にステーキを食べさせてくれました。銀の重い食器、ひまわり型のバター、デザートのアイスクリーム・・・この日ばかりは子ども扱いせずちゃんとレディーとして扱ってくれ、お店の人も父に協力して一人前として応対してくれました。7歳の子どもに。
平日に夕飯を一緒に食べた記憶がほとんどないけれど、毎晩深夜に帰宅すると、先ず子どもの寝室に来て布団を直し寝顔をしばらく見ていたという父。タバコくさい大きな温かい手が顔を撫でる感触が、今も残っています。時々目が覚めていましたが、寝たふりをしていました。
思春期、単身赴任で離れて生活していた父にずいぶんたくさんの手紙を書きました。まだメールはおろかファックスもなかった頃。八方塞で悩みを打ち明けたときには、「お前は小さいときから賢かった。大丈夫。パパの誇りだ」というメッセージをもらい、何度も読んで泣きました。賢くも大丈夫でもなかったんですが、父に丸ごと認められている安心感は、その後の私にとても自信を与えてくれました。
還暦を目前にして大病を患った父。私が病院を訪ねると、「待っていたんだよ」と子どもみたいに心細そうな顔をし、あれこれたわいもない用をいいつけた父。後で聞くと他の家族には誰にも、そのような泣き言は言わなかったそうです。当時第二子妊娠中だった私は思うように動けず、半分も要求にこたえてあげることが出来ませんでした。亡くなったその日も、切迫流産の恐れアリで看取ることが出来ず、お葬式にも思うように動けず。
後悔だけがたくさん残っています。




































