在籍生徒の9割が東京と神奈川の学校
「女性宮家」創設へ
皇室の弥栄を願います。
>床屋で読んだゴシッブ記事は信じてるのに?
ゴシップかどうか知らんが、あの記事は真実だと考える。
①ある皇族の女王さん(ドラ娘)が、英国の大学に公費留学中にも関わらず、白人の男と恋のアバンチュールを繰り返していたという事実。
②天皇の二男にタイ人の愛人がいて、しばしばタイ国を訪れていること。また、それが夫人に発覚、相談を受けた実父が天皇にねじ込んだという事実。
あなたには、それらを否定できる材料はないはずだ。
おはようございます。
>女性天皇の治世が太平期だったのか、動乱期だったのか(もこもこ様)
古代に即位した女帝の時代には、歴史上の重大事件が起こった時代であって、その女帝達によって日本の運命が決定付けられたといえると思います。
そうですねえ、印象だけで言えば、この時代の女帝達は力強く爽快で、むしろ男性天皇よりも大きな存在を感じる事が出来ますよね、一言でいえばかっこええです。
この時代に「女系」「男系」といったものはあったのでしょうか?
女性天皇は許されて女系男性天皇は許されないなんて、素直に考えてもややこしくて変なんですよね。
当時は「男」か「女」か、それだけのものであったのではないでしょうか。
あの時代は、継承資格も順位も定まっていませんでしたし、どちらかといえば兄弟継承が多く見られました。厩戸皇子が即位できなかったことからも歳若い天皇などは論外で、少年天皇が誕生したのも文武天皇が最初でしたよね。
この無理やり感のあった文武天皇が即位したのも、女系男系を重んじたのではなく、蘇我系に繋がる天武・持統の系統を重んじたのだと思います。
携帯からです。
やっと落ち着きましたかねえ。
スレを立てた事で何かしらあるとは予想してましたが、10ページも大波がこようとは…
これからも上レスのような挑発や意味もないひやかしもあるでしょうが、過去に皇太子ご一家中傷レスが大挙して押し寄せてきたのにに比べれば、可愛いもんです。
では、朝に書いた続きを午後からにでもぼちぼち書いていきます。
>これからも上レスのような挑発や意味もないひやかしもあるでしょうが、過去に皇太子ご一家中傷レスが大挙して押し寄せてきたのにに比べれば、可愛いもんです。
そうそう 笑
二俣川の雑誌を使っての皇室バッシング。
あれは酷かった。
何が学問かという、みっともない醜態。
笑
こんにちは。
自由様
いえいえ、大挙して押し寄せたレスとはあの雑誌の件ではありません。
あの方の、雑誌を使って批判する事自体は別に問題ないことだと思っています。
ただ、根拠もわからない一方的な記事を鵜呑みにして相手を批判する事には論理性のかけらも何も感じませんがね。
それにゴシップ記事を「信じる」ことは一向にかまわないのですが、批判対象者を間違えたり、間違いを誤魔化し続ける姿勢には論理どうのこうのよりも、見ていてただただげんなりするだけです。
連投すみません。
お彼岸の連休も終わってしまっていよいよ秋の気配がしてきました。
この連休にちょっと遠出をしたのですが、車中から見える棚田や段々畑の美しい事!
特にコバルトブルーの空の下、棚田に揺れる黄金色の稲穂と赤い彼岸花のコントラストが遠くから見ていて何ともいえない美しさでした。
子供のころは毒花だなんて言ってましたが改めてみると本当に美しく見えるから不思議。
朝の続きです。
先に書いたように女帝が出現した7~8世紀、特に皇位継承の順位が決まっていたわけではなく、女系男系の縛りもなく、今の私たちが思っている皇位継承の形ではなかったのではないかと考えます。
この女帝の継承の仕方によって、本当に男系のみが厳守されていたのかどうかを紐解いていければと思います。
よく古代の女帝は中継の天皇だといわれますが、中継ぎの意味合いが含まれるのは持統天皇からで、それまでの女帝は中継ぎ天皇とはいえないのではないでしょうか?
ここは以前に書いていた女帝についての私の考えは変わってきて、なんとしてもわが子やわが孫に皇統を託したいという女帝とそうでない女帝とは区別できると思い直しています。
しかし、持統天皇から続く女帝が皇位継承の流れから中継ぎの要素を含んだとはいっても、治世では決して「中継ぎ天皇」だけではない大きな実績を残した天皇であったと思います。
ひまわり さん
スレ立てありがとうございます。
何か理論武装がバージョンアップしているような、、
>この時代に「女系」「男系」といったものはあったのでしょうか?
>女性天皇は許されて女系男性天皇は許されないなんて、素直に考えてもややこしくて変なんですよね。
古墳時代辺りのことですよね?
記紀を前提にしますが、まず清寧天皇の後なぜ春日大娘皇女(かすがのおおいらつめのひめみこ、雄略天皇内親王、後の仁賢皇后)が即位為されなかったか、 共に応神天皇から四世孫である顕宗天皇ご即位を鑑みればここに男系についての拘りの意志を感じる。このことは武烈天皇の後、手白髪皇女(たしらかのひめみこ、仁賢天皇の内親王、武烈天皇姉で後の継体皇后)がご即位されなかったことも同様。特に武烈天皇の後、大連・大伴金村らの擁立を受けることになる継体天皇は応神天皇に連なる五世孫とされているが、途中二世代にわたって系譜が欠けている(王朝交代説は念頭にしていません)。
1、少なくとも古墳時代前期の古墳副葬品、分布などの研究から女性首長の存在が明らかになってきている(代表的な学説は今井堯、田中良之ら)。
2、日本書紀及び肥前、豊後などの九州地方の風土記には多くの女酋が記載されている。
3、上記に加え、「天皇」は(祭祀、生産、軍事権を有する)有力首長から「王ないし大王」となり律令制で「皇尊(すめらみこと)」となったという前提に立てば、「倭国」において双系制が採用されていたと見るのが自然である。
以上をもって、
>あの時代は、継承資格も順位も定まっていませんでしたし、どちらかといえば兄弟継承が多く見られました。
であれば、むしろ直系(卑属)重視(兄弟継承)からいえることは、春日大娘、手白髪、両皇女のご即位は充分考えられたはず、にも拘わらずなぜ顕宗天皇、継体天皇に繋がっていったか。さらにいえば、両皇女とも立后の後、武烈天皇、欽明天皇といったように皇位のご継承をはたしている。
>当時は「男」か「女」か、それだけのものであったのではないでしょうか。
系図を俯瞰する限り、そのような単純な見方はできないように思われますが、、




































