在籍生徒の9割が東京と神奈川の学校
共産主義と民主主義
マルクス・エンゲルスの創始した、プロレタリアート独裁で資本家や大地主を認めないという共産主義。生産手段の社会化(国営企業)により搾取する者とされる者がいなくなるという。 そして人民はハッピーになるというバラ色の未来。
果たしてそうか? 例えば同じ労働者階級に権力を揮う立場と従う立場が産まれないのか? 貧富の差ができないのか? 権力を握った者は反対派を粛清して独裁者にならないのか?
ソ連、東欧、北朝鮮、中国の人民は本当に幸福だった(なの)か? 共産主義のもたらしたものは何か? そんなことを語り合いたい。
荒らしを退治したので、再掲。
マルクスがゴータ綱領批判で書いたことが、
自身の本意、不本意に拘らず、後々の時代の凄惨な暴力につながっている。
さて、
共産主義社会で、民主主義は併存するのか。
それが論点なんですよね。
荒らしを退治したので、再掲。
マルクスがゴータ綱領批判で書いたことが、
自身の本意、不本意に拘らず、後々の時代の凄惨な暴力につながっている。
さて、
共産主義社会で、民主主義は併存するのか。
それが論点なんですよね。
>夏休み (ID:4pO5zI7oVAM) さん
私見では、マルクスは古代奴隷制や中世の封建制、そして近代の資本主義をして、それは人間の意思によるものではなく、人間の労働の発展という歴史的必然性が基礎になっていると考えた。そして、
労働(人間と自然との物質的代謝を人間自身の行為によって媒介し、規制し、制御する過程『資本論』)であり、労働の生産力(人間と自然との物質代謝を発展させる力。一定の人間的活動をいいあらわす『アンネンコフへの手紙』)である。
すなわち、その時代の労働の生産力にふさわしい人間と人間の関係を「生産関係」と呼ぶ。マルクスは、これを生産手段を所有する者と持たない者との「所有関係」※だとした。
資本主義においては、市民法上で労働者の労働の成果たる生産物はすべて資本家の所有とされ、剰余価値の横取り(支給する賃金以上に働かせる)とも相まって生産手段の所有者である資本家が無産者である労働者を搾取する。これを「階級」という。そして、これらの階級はそれぞれの人間集団のなかで互いに別れあい、そのうちの一つ(支配階級)がその他すべての階級(非支配階級)を支配する。これが階級支配の国家である。
唯物論は、物質を世界の根源ととらえ「(感性でとらえられる)現実の対象」を認識しようとする。まさに、人間が実際に行っている労働や社会的実践を指す。
ゆえに、抽象的な思考である「観念」を否定する。
したがって、本田宗一郎氏個人における「観念」は問題ではない。
彼が大資本家であり、『ホンダ』における生産手段の所有者であったとの社会的実践(現実)でもって判断されるのである。
※私的所有が権力(人間)による人間の疎外の根源であるとした→社会の自己疎外である国家(『ドイツ・イデオロギー』29頁)
>マルクスは生産手段を持つ者を資本家、持たない者を労働者と定義したが、株式会社の発達により、所有と経営が分離し、その違いが曖昧化した。労働者でも株式を購入したら資本家になれる。
本田宗一郎は、資本家であり労働者だった。
自社株を保有するホンダ社員もすべてそうである。
マルクスが予見出来なかったことである。
一言でいえば、マルクスは「生産様式」によって歴史をとらえたということ。
奴隷制には奴隷制の、資本主義にもそれに応じた生産関係が存在した。
そして、現在の「ブルジョア的生産関係は、社会的生産関係の最後の敵対的形態『経済学批判への序言・序説』」であるとした。
しかしながら、搾取による支配層のあくなき収奪、他方それに反する労働者の窮乏化(わが国における社会的・経済的格差の拡大化をみよ)という矛盾。
そこで、矛盾を解消すべき労働者階級の成長並びに階級闘争の勝利による執権がその敵対的形態を終わらせると唱えたものである。




































