女子美の中高大連携授業
共産主義と民主主義
マルクス・エンゲルスの創始した、プロレタリアート独裁で資本家や大地主を認めないという共産主義。生産手段の社会化(国営企業)により搾取する者とされる者がいなくなるという。 そして人民はハッピーになるというバラ色の未来。
果たしてそうか? 例えば同じ労働者階級に権力を揮う立場と従う立場が産まれないのか? 貧富の差ができないのか? 権力を握った者は反対派を粛清して独裁者にならないのか?
ソ連、東欧、北朝鮮、中国の人民は本当に幸福だった(なの)か? 共産主義のもたらしたものは何か? そんなことを語り合いたい。
>>思想は関係ないと思う。
>そうかもしれませんね。
歴史上の人物を見ても、権力者になると秀吉も平清盛も。
共産主義国家の方が一党独裁で権力が集中しやすいのでしょうか?
権力者の大義名分論として、
マルクスのゴータ綱領批判は利用しやすかったのではないか。
過渡期と言いながら、永続的に権力に居座る。
権力者には、必ず大義名分を支える思想が必要です。
>初心者 (ID:lnaArwAe8ko) 氏
お尋ねの件につき、先日私なりに愚考して卑見を述べた。
スレッドごと削除された煽りを受け、水泡に帰してしまった。
但し、それは必ずしも深く考えてのものではなかった。
ところで、私が興味を引いた論点は「相続」についてであった。
所有権絶対の原則であるブルジョア法についてさえ、権利濫用の禁止等の一般原則でもって所有権者も一定の絞りを掛ける。
また、所有権の内容である処分の自由=(被相続人による)遺言の自由においても、遺留分等の強行法的制約を設けている(日本相続法)。
いずれも、私法内での利益間の調整との視点であるにしても、所有権という近代市民法の大原則の公法的修正がすでに存在しているわけである。
そこで、では「将来、社会主義に移行した場合にブルジョア民法は変革されるのか?」との問題がある。
このことにつき、ドイツのカール・ディールは次のように述べた。
「社会主義的法律秩序は、われわれの法律秩序の全基礎の完全な、原則的な変革を前提とし、それとともにあらゆるわれわれの法典の意義もまた終わりを告げる。私有財産がなく、私相続のないときに、私有財産法・私相続法である民法が、何の役に立とう。現在の民法典は、経済をば、資本主義的経済組織に適合するように、私法に従属せしめる。社会主義的経済制度の下では、経済は公法の圏内に属する。すなわち経済対象は、個人の私的処分の埒外にとり去られるのである。『資本主義の法律的基礎』50頁」
しかし、これには首肯できない部分がある。社会主義への変革は資本主義的生産関係(下部構造)の変革を基礎にするものだ。よって、(上部構造たる)法律革命もそれに基づくものであり、単にブルジョア法のみの変革だけでなされるものではないからだ。
ましてや資本主義の発展形態たる社会主義という将来社会においても、個人の私有財産は保障される。ゆえに、その限りにおいてブルジョア法の積極面は引き続き活用され得るのではなかろうか。
周知のように東大の川島武宜教授は名著『所有権法の理論』(有斐閣)にて、ブルジョア法としての所有権につき、精緻な研究をしておいでになる。
その中に、将来の社会主義法の姿が反射的に浮き彫りになっているようにも感じる。
いずれにせよ、研究テーマになりうる興味深い問題だと考える。
もう少し、考えてみたい。
>平和と平等はどういうシステムにすれば実現できるのでしょうね?
社会主義においては、階級の解消によって現在わが国で進行中の社会的・経済的格差は解消される。資本家による剰余価値の搾取がなくなり、労働に応じて消費手段が正しく適切に分配される。
しかし、まだ問題は残る。
人間の能力の発達は同一ではない。
その違いが、分配物の違いになり生産物分配の格差に成り得る。
能力に応じて働き、働きの応じて受け取る(社会主義社会)
→能力に応じて働き、欲求に応じて受け取る(共産主義社会)へ
究明しなければならない課題は少なくない。
「社会主義的法律秩序は、われわれの法律秩序の全基礎の完全な、原則的な変革を前提とし、それとともにあらゆるわれわれの法典の意義もまた終わりを告げる。私有財産がなく、私相続のないときに、私有財産法・私相続法である民法が、何の役に立とう。現在の民法典は、経済をば、資本主義的経済組織に適合するように、私法に従属せしめる。社会主義的経済制度の下では、経済は公法の圏内に属する。すなわち経済対象は、個人の私的処分の埒外にとり去られるのである。『資本主義の法律的基礎』50頁」
観念上は社会主義経済制度ではと鉈で切ったように断面を考えることが可能でしょうし、どのような世界であれ、学問的にはその原理的な特徴を踏まえた上で考えることも十分意義があります。
現実にはどのような時期においても0か100かというのは最も考え難く、どちらかに軸足を置きながら反対方向に修正して欠点を補う力が働くわけです。こういう意味では国民はどこに居ようと常に不満の余地があります。しかも何か行き着く先に極相のような姿があるというふうにも思えません。成熟期を迎えたら紆余曲折しながら逆の方法に向かい、波を打つように繰り返していくのではないかと思っています。
つまり、株価と同じです。笑笑
戦争→平和→戦争→平和→
資本主義経済→社会主義経済→資本主義経済→
w
>能力に応じて働き、働きの応じて受け取る(社会主義社会)
→能力に応じて働き、欲求に応じて受け取る(共産主義社会)へ
-珍しく簡潔な回答じゃな。しかし、生産物分配の格差が拡大する社会主義社会とは、資本主義での格差拡大と結果的にはあまり変わらんな。
まぁ、社会主義では一代限りかもしれんが。社会主義から能力が低い人間も好き放題に生産物を得られるほどの高生産性の地上の楽園に到達できるのかね?
現実はみな失敗しておるが。やはり理論が間違っておるんじゃな。
多くの犠牲を払いなんと無駄な努力をしてきたことか。
夏も終わる。もう、小学生の自由研究も終わりしないと。朝顔の観察日記をつけたが結末は、枯れてしまって終わり。先生の採点も30点ぐらいじゃろ。




































