アートの才能を伸ばす女子教育
私立中学の価値 2校め
既スレが調子悪いので、とりあえず立てておきました。
クラーク博士の「大志」は、翻訳をした人のセンスだよね。
よく訳に使われる、「わざ」なんて言葉も同じだと思う。
日本語の良いところは、受け止める側によって、陽にもなり、陰にもなるところだと思う。
いいんじゃないかな、「大志を抱け」で。
ところで、ヨーロッパでは、カトリックは、日本同様、形式化しているようです。
ミサに年一回なんて人もいるようですよ。
で、私は、無宗教です。( 何とか持ちこたえています。)
前回の書き込みにちょっと補足しときます。
資本主義の精神について
ヴェーバーは資本主義が勃興し発展するために3つの要素が必要と指摘した。
1.労働そのものを目的とし、救済の手段として尊重する精神
2.目的合理的な精神
3.利子、利潤を倫理的に正当化する精神
カトリック=隣人愛よりも利子、利潤を優先させせる行為は罪深き貪欲であるとの考え
カルバン予定説=救済される人は決まっている。しかし神に選ばれて救われる人が誰かを知る方法はない。職業というのは神からあたえられた使命だから、おのおのが自分の職業で成功するならば、その人は神から選ばれた者である可能性が高い。職業での成功=利子、利潤追求の正当化。
カルバン予定説が資本主義の精神の1.3のバックボーンになっているとヴェーバーは「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」で説明しています。
資本主義が発生したのは、ヴェーバーの指摘の通りかもしれないけど、その後、数百年に及んで、ここまで、発展発達しているのは、「資本」=「金」=「人間の欲望の具現化」。「人間の欲望を極大化させる」最高のシステムだからだと思いますよ。
訂正します。
「人間の欲望を極大化させる」最高のシステムだからだと思いますよ。☓
「人間の欲望を極大化させる」究極のシステムだからだと思いますよ。〇
論理の正当化もほどほどにしないとまずいんじゃないの。
原罪があるって認識できるなら、疾しさを抱えながら生きていくのが、大きな間違いを犯さないですむ人間の生き方だと思いますけどねえ。
世界陸上の日本選手やサッカーのなでしこを応援するのは obligation じゃなくdesire。
応援する義務なんてないからね。
「共感」するとき、その人を助けたいとか応援したいというのは、obligation ではなく desireになる。
患者の身になってみると医者は第一に医療技術を身につけてほしいですね。
有名大学を出ていようと手術の下手な医師に当たったら目も当てられません。動物実験して論文沢山書いている医者が教授などになりますが・・・・・・本当は臨床能力をもっと評価すべきですね。
学問として医学を研究する人と臨床の一線に立つ人の評価法は別でなければいけないのにどういうわけか大学病院の医者は研究第一で評価される。だから往々にして臨床経験の少ない「患者を治療する」能力のない人が教授になる。
私の主治医は30前の女医さんでしたがてきぱきと検査をこなしその後の病状説明も分かりやすかった。 青息吐息で救急ベッドに横たわっているときに「大丈夫ですよ。これから検査しますからね」という声は天使のようだった。
医師は技術を磨き患者をしっかり治す。それが第一。 研究医は世界と張り合うが臨床医は患者と向き合う。だからそんなに物理、数学が飛びぬけてできる必要はない。でも入試を通らなければ医師にはなれない。 そこが問題。
こんな意見もさん
>論理の正当化もほどほどにしないとまずいんじゃないの。
そうですか。では、ちょっと説明しますよ。
マックス=ウェーバーの「プロテスタンティズムなんとか」って本は、難しそうだから読んでません。でも、小室直樹さんの本によくその内容が紹介されていて、たしか、書かれたようなことは読んだ記憶があります。でも、要するにあまりピンと来ませんでした。まあ、そんなものかな、と思った程度です。論理的に筋は通っているのかもしれませんが、心理的にピンと来なかった。
>職業というのは神からあたえられた使命だから、おのおのが自分の職業で成功するならば、その人は神から選ばれた者である可能性が高い。職業での成功=利子、利潤追求の正当化。
このへんがピンと来ないんです。私なりの考えを書いておきます。
たとえば、ここに、幼少時から親など周囲のものに「お前のその自己中の性格は悪だ。絶対にゆるさん。叩き直してやる」と言われて育った子供がいたとします。その少年は長年、その自分の性格を自分に特異的な悪い性質だと認識していたとします。
で、あるとき、偶然なにかの本を読んで、その「自己中」という性質は、自分に特異的なものではなく、実は多くの人間に共通のものであることを知ったとします。たとえば、「神が全ての人間をそのように創った」とか、「大部分のひとは自己中遺伝子を保持している」とか。だから実はみんな同じなんだよってね。
そのとき、この少年は大きな開放感を得ることができるのではないか。それまで卑下してなるべく隠そうとしてきた自分の性格を、思い切って解き放ち、積極的に表に出していこうという契機になる、そんなことがおこる可能性はないでしょうか。「決定論」を強く意識するということには、そういうプラス面があると思います。
つまりですね、宗教改革の時代というのは、カトリック教会が人々を支配していた時代でしょう。Godと人間との間に、教会が強く介在していた。教会の教えに従って生きるならば救われるとされていた。それは、因果律でしょう。神に対する人間の干渉ですよね。ひどいのになると、「教会に多く寄付する程救われます」とかね。
それを改革しようとしたのが、ルターとかカルバンでしょう。「予定説」というのは、神に対する人間の干渉を排除する論理ですから、教会批判としては極めて有効だったし、その決定論的性質が、教会に支配されていた人々を、教会の決めた善悪の基準から解放する、そのことに重要な役割を果たしたということではないでしょうか。
>これが資本主義の発生発展に促進的に働いたという見方もあるようです。
これが余計だったのかな?まあ、資本主義のことはつけたりですから。あんまりこだわらないで下さい。
「論理の正当化もほどほどにしないとまずいんじゃないの。
原罪があるって認識できるなら、疾しさを抱えながら生きていくのが、大きな間違いを犯さないですむ人間の生き方だと思いますけどねえ。」
この部分は、根本的さんをマネて、挑発的な書き込みしてみたんだけど、その目論見は失敗だったみたいです。(笑)
人間って、自分の欲求的行動(欲求的情念)がまず先にあり、その行動(情念)を正当化するために「論理」を後付けしてることが大変多い気がしますね。だから、「論理」は作ろうと思えばどーにでもなるし、あんまり、信用できないなってのがありますね。
若い時は、論理で論破してどや顔してましたが、今は情のほうが信用できる。
枯れてるからかな。(笑)































