アートの才能を伸ばす女子教育
私立中学の価値 2校め
既スレが調子悪いので、とりあえず立てておきました。
>人間って、自分の欲求的行動(欲求的情念)がまず先にあり、その行動(情念)を正当化するために「論理」を後付けしてることが大変多い気がしますね。だから、「論理」は作ろうと思えばどーにでもなるし、あんまり、信用できないなってのがありますね。
これ、どういうことなんだろう?
私には「予定説が好き」という「欲求的情念がまず先にあり、その情念を正当化するために論理を後付けしてる」ということですかね?それは当然ありますよ。でも、「論理は作ろうと思えばどーにでもなる」かなあ?「欲求的情念」がどうであろうと、論理的になりたつことなら、そういう考えもあり、と判断しておけばいいと思いますが。
こんな意見もさんの「欲求的情念」は「予定説が嫌い」なんでしょうね。でも、ウェーバーは 予定説 ー> 資本主義 という因果関係を肯定しているんでしょう?私の論理とは異なるようだけど。
話題で出しました「予定説」の件、意外にも話が盛り上がっていますね。
「こんな意見も」さん の解説は、とてもよろしいのですが・・
>資本主義が発生したのは、ヴェーバーの指摘の通りかもしれないけど、
>その後、数百年に及んで、ここまで、発展発達しているのは、「資本」=「金」=「人間の欲望の具現化」。
>「人間の欲望を極大化させる」最高のシステムだからだと思いますよ。
・・この2行目~3行目は文脈が不連続なんですが、これは「こんな意見も」さんの私論ですね。
このままだと、予定説=人間の欲望の極大化 とミスリードして読まされる懸念がありますが・・それは違うでしょう。
倫理的に正当化された利潤というのは、個人消費出来たのか?
・・予定説では、それはとんでもない! 神への冒涜だ となるわけですね。
そこでは、富は「神のもの」であって、「人間のもの」ではない。
じゃあ、どうなるのか?
個人消費をせず、禁欲的に資本蓄積して拡大再生産をする・・「資本主義の精神」ですね。
そして、近代資本主義 が成立した。
ところが、一旦、近代資本主義が成立したら、「資本主義の精神(予定説)」は不要になる。
経済法則が規範を押しつけ、企業家と労働者を作り続けていくことになる。
コアの精神が欠落した資本主義が動いていくことになる、誰にも止めることは出来ない。
別に、予定説そのものは 正義 でも 悪 でもない・・そこは誤解が無いようにした方がいいですね。
例えば、「子供を作る」などと表現しますが、人間が前面に出ています・・これは因果律ですね。
子供は「作るもの」でしょうか?、「授かるもの」では?・・・予定説ですね。
現代は、なんでも、かんでも人間が前面に出る・・これでは少しマズイのかもしれませんよ。
>つまりですね、宗教改革の時代というのは、カトリック教会が人々を支配していた時代でしょう。
>Godと人間との間に、教会が強く介在していた。教会の教えに従って生きるならば救われるとされていた。
>それは、因果律でしょう。神に対する人間の干渉ですよね。ひどいのになると、
>「教会に多く寄付する程救われます」とかね。
>それを改革しようとしたのが、ルターとかカルバンでしょう。
>「予定説」というのは、神に対する人間の干渉を排除する論理ですから、教会批判としては極めて有効だったし、
>その決定論的性質が、教会に支配されていた人々を、教会の決めた善悪の基準から解放する、
>そのことに重要な役割を果たしたということではないでしょうか。
根本的さんの解説は、とても分かりやすくてよろしいですね。
「予定説」がキリスト教の奥義であることは、カトリックも分かっていたはずですが、
それでは、布教が出来ない・・だから、因果律になってしまう。
信仰を広めるためには、「何か得なこと」をPRしないと無理だということなんでしょう。
因果律に浸っている我々には、「予定説」を理解するのはなかなか難しいですよね。
「信じるものは救われる」・・この訳は正確ではなくて、
「(本人の努力いかんに何ら関係無く、)救われるものは信じるように神に予定されている」
こういう意味なんですよね。
無常感さん
「(本人の努力いかんに何ら関係無く、)救われるものは信じるように神に予定されている」
こういう意味なんですよね。
ふむふむなるほど、新しい気づきを得られる可能性があって、おもしろそうだから、いろいろ教えて下さいね。
無常感さんにひとつ教えてもらおうかな。
神とは、なんですか?
>無常感さんにひとつ教えてもらおうかな。
>神とは、なんですか?
教えるなんて立場ではありませんが・・
自分で使っておいてなんですが、キリスト教の God
これを日本語で「神」と訳するのは誤訳で、「創造主」と書くべきでなんでしょうね。
キリスト教では、所詮人間は、全知全能の「創造主(神)」が土塊(つちくれ)から作ったものであって、
土塊(人間)が「創造主(神)」を信じる →「創造主(神)」が土塊(人間)を救う・・こんな論理はあり得なくて、
その土塊(人間)が救われるか否かは、一方的に、無条件に「創造主(神)」が決めます。
因果律に慣れた我々は、「善い事をしても、創造主(神)は評価しないのか?」などと疑問に感じるけれども、
「善い事である」といった評価なんて、所詮、土塊(人間)がそう思っただけのことであって、
創造主(神)にとって関係が無い(そう思うこと自体が、不遜であろう)ということなんですね。
また、創造主(神)の前では、所詮、土塊(人間)は土塊(人間)であって、土塊(人間)の間に差は無い。
そこから 人間は平等である という人権思想が生まれたらしい。
根本的さん
>>・・でも、それは、鴨長明が言うところの うたかた なのかもしれません。
>鴨長明のことはよく存じませんので、わかりやすく説明していただけるとありがたいのですが。
うたかた というのは、水面に浮かぶ泡(あわ) です・・生まれては消えるはかない存在です。
個人的には、鴨長明そのものがどうこうというより、日本の文化に流れるそういった美意識、
無常感(ニュアンスが少し違いますが、「無常観」とも書きます。)が好きなんですよね。
『平家物語』、吉田兼好の『徒然草』、鴨長明の『方丈記』など ・・いろいろありますが、
秀吉の辞世の句
露と落ち 露と消えにし わが身かな 浪花のことは 夢のまた夢
これなんか、とても好きですね。































