アートの才能を伸ばす女子教育
私立中学の価値 2校め
既スレが調子悪いので、とりあえず立てておきました。
地域時代さん
こんにちは
>適性様からマイケルサンデル教授の事を教えて貰い、正義とは一面では語る事が出来ない事を学びました。
思いやり、正義、常識・・・人間が作り出した概念は、解釈が複数あって、絶対的なもの≒人知が及ばないもの は何一つ存在しないですね。
絶対的なものが存在すれば、何かとすっきり感を感じることができるのでしょうが、存在しないものは存在しないので・・・。
一方で、自然の法則というのは、人間が作り出した概念ではありませんから、絶対的なものであり、すっきり感があります。
妙なのですが、
人知の及ばない絶対的な自然の法則だけに従うとすると、人間同士の争いは続くことが予想され、
一方で
絶対的なものというのを持たないはずの人間の思考が、もしも、同時刻にすべての場合において互いを認め合うという快挙を成し遂げるとすると、人間の争いはなくなります。
だから、絶対的なものでなくてもいいんだ、ですかね。
>「予定説」がキリスト教の奥義であることは、カトリックも分かっていたはずですが、 それでは、布教が出来ない・・だから、因果律になってしまう。
>信仰を広めるためには、「何か得なこと」をPRしないと無理だということなんでしょう。
「布教」の問題。これは、救いの対象が自分か他人かという問題に関わってくるようです。イエスそのひとの思想のなかには、他人を救うなどという発想自体が殆どないように思えます。「神のものは神に。カイゼルのものはカイゼルに」。
「神のもの」とは自分の心、内面。「カイゼルのもの」とは、政治、つまり他人をどうするか、という問題。イエスにとって、カイゼルのものなどどうでもよかったのではないか。自分の心のなかの「悪」、これをどうするか、そこにしか関心がなかったように思えます。
だから、イエスの思想を「布教」しようなどというキリスト教の考えは、はじめから矛盾したものだったのではないでしょうか?でも、まあ、宗教とはそんなものなのでしょう。「イエスそのひとは、決してキリスト教徒などであったことはない」と言ったのは、たしかニーチェだったかも。
妙なのですが、
人知の及ばない絶対的な自然の法則だけに従うとすると、人間同士の争いは続くことが予想され、
一方で
絶対的なものというのを持たないはずの人間の思考が、もしも、同時刻にすべての場合において互いを認め合うという快挙を成し遂げるとすると、人間の争いはなくなります。
だから、絶対的なものでなくてもいいんだ、ですかね。
↑
老眼様
この前、立花隆さんがBSの100年インタビューって語っていた事が、私の「感じている事」とほぼ同じだったのです。
立花さんは
「人間は、悪くない。もしも、本当に人間が悪いものであるのなら、とっくの昔に人類は滅んでいる。悪い事をしでかせば、必ずどこからかそれを止めようとする者があらわれそれを止めに入る。だから人類は今も存続出来ているのだ。」と。
私はこの意見に深く同意したのです。
そう、絶対的なものでなくても良いのです。
でも、私は世界中の国が平和になるように努力していきたい。
一人の力は微々たるものですが、国の印象を変えるのは個人と個人の関わり合いがはじめの一歩、私はそんな風に思っています。
信頼感さん
勝手に都合よく解釈した話を聞いてくださりありがとうございます。
自分を誇ることが励みになるっていうのはアルと思います。
>言葉ではなく、このような行動を子供が見て(親の背中を見て)自らもそのように有りたいと感じることで育まれるのかもしれませんね。
ここは、
こんな意見もさんが
>「言葉で世界の全てを表すことはできない」
とつなげてくださいました。
続けて、
>大事だと思うその感情を守るため、言葉が発生し、使われているのではないかと。
思いやりという言葉の必要性は、思いやりと総称される得体のしれない感情を、ヒトからヒトに受け継ぐために存在しているだけであって、
大事なのは、「思いやる」が現わす言葉としての意味ではなく、その感覚自体であろう、という御意見の通りになろうかと思います。
そして、問答に続きます。
「幸福」と感じているのは、「論理」でもなく「感情」でもなく、感じている物体であって、
「幸福」と感じるときに、目的に相当するのは「~だから幸福」の「~」でしょうから、「論理」も「感情」も目的とは違うのではないでしょうか。
難題は最後の手段です。
「幸福」と感じるに至る過程には、「論理」のみ、「感情」のみ、そして両者、が関与しそうです。
この問答にも絶対的な正解はないと思いますが、いかがでしょうか?
にリンク
信頼感様
どうも、、私は思いやりを語る時に「自慢」という言葉を持ってくると、身動きが取れなくなるような気がします。
しつこいですが「自己満足」で良いと思います。
お年寄りが電車の中で立っている、高校生2,3人のグループじゃ、「どうぞ」と席を替わる事に勇気のいる子がいるらしい。
理由→エエカッコしてると思われるから。(他者から自慢と思われる)
あちゃちゃちゃちゃ~。。。。
これじゃあ、いかんのですよ。
もちろん、信頼感様は「それでも良い」とおっしゃっているのですが、どうも「自慢」という言葉が、思いやりを語る時に、私はそぐわない気がするんですよね。
地域、時代様
再々、ご注意いただいたのにお応えせずにすみません。
私も「自慢」という言葉をあまり使いたくないのですが・・・
「自己満足」ですとそれでも良いのですが、自己満足→自己完結ではなく
自己満足→伝える、老眼様の↓にニュアンスがぴったりきます。
>③→うれしかったことを他の人にも伝えたい④→話す
他人にちょっと誇りたい気持ちと申した方がよいのかしら。
立花隆さんの100年インタビュー。
ここしばらくここで皆さんと色々語っていた事ばかりの内容でした。
2回目の再放送が終わったので、3回目、、あれば良いのですが。。
立花さんの話を聞いている時に、弱点様の思考の仕方が大切である(最悪の事態を考えながら、全体を見ながら前向きに動くという思考の仕方)という事や、私のように「能天気なだけじゃいけないですよ」で、あちゃ、、と、自省する事もあったり(笑)、と、震災後、ここであ~でもない、こうでもない、、と皆さんと語っている話ばかり。
「知識」についても語ってらっしゃいました。
「科学」=「知識」なんだと。
ラテン語で知識は「 scientia スキエンティア」となる。
つまり、サイエンス(科学)とは「知識」なんだと。
ざっくりまとめると
「知識がないと、わからない→わかってる人にやって貰おう」という事になる。
それでは いけない と。
人間が科学の力を持てば持つ程、分野が細分化され、学びも深くなるので、「学んでない事はわからない」事になってしまう。
でも、それではいけないんだ。と。
「わかってるごくごく一部の者達だけに、現代の科学のもつ強力な力をゆだねてはいけない」と。
原発問題では、なぜ、みなが混乱したか?
そこに「専門家と一般人の知識の共有がなかったからではないのか?」と。
もちろん、深い深いその分野の学びは難しいかもしれないが、それを一般の者達にわかりやすく説明出来る学問だってあっても良いはず。
と。
「大学に そういった科学、工学の知識を簡単に教える事を学ぶ学科を作っても良い位だ。それぐらい今の科学は進歩しているから。」と。
なるほどな~、、と思いました。
私のようなものにも、わかりやすく教えてくれる職業というものがあってもおかしくないだろうな。
それ位、今の科学は爆発的に進歩しているもんな、、と。
また、3回目の再放送があった時、見てみて下さい。
私達がここで議論している事を立花さんも語って下さってます。































