アートの才能を伸ばす女子教育
私立中学の価値 2校め
既スレが調子悪いので、とりあえず立てておきました。
有名な本の内田さんだからでしょうけど
>それを差し出す「場」に対する敬意の欠如ゆえに「言論の自由」に対する侵害として退けられなければならないのである。
罵倒が その敬意の欠如だったら
国会なんて最悪ですね。
日本国民の見ている国会中継で居眠り 罵倒ですから。
横にそれてすみません。
理想と現実とは、かけ離れますね。
適性さんの 方向と違う感想で申し訳ないですが
きっと他の方が 意図に沿うように続いて下さるでしょう。
弱点さん、無常感さん
申し分けありません。御ふたりそれぞれにそう申し上げる意味をお察しいただければ幸いです。
ところで、
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この共同作業によって、「これからの日本はどうなるか」、「どういう仕事に意義があるか」、「日本の課題を自分の人生の立場から見て(=人ごとではなく)どう捉えるべきか、」という結構重い問いへの答えが、単なる親の側のつぶやき・独り言・感想ではなく、親子の議論して考えを深めるための確かな下敷き・土台として、親子間で共有できることになるように願っています。
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この文は、量的さんがご家庭内での個人的なお考えをご紹介なさった内容ですが、適性さんもご注目されましたが、わたしには、見失いがちな大事なことをハッと思い出させてくれる提言のように聞こえました。
これとおおいに関連することなのですが、親子の議論のテーマは何であれ、ある2項目の関係性の消化ができずにわたし自分の中で立ち往生してしまうことがあります。
2項目とは①相対的な超無力性(力をほとんど持たない性質)と②現実です。
空虚感は、無常感さんの言葉をお借りすれば、「常は無い=始まりも終わりもない=空 (松岡先生か白川先生か忘れましたが、空の解釈について無常感さんと非常に近い解釈をされていますね。)」に従えば、結局のところ、世界が、国が、政府が、人間が、自分が、子供が、右往左往しても、「何がどうなるものでもない=外から見れば、すべては成り行きまかせ、でしかない」ということ。私自身の言葉で言えば、「物質と力が存在するということ以外に絶対的なものは無い=力によって総てのものは時間的に空間的に変化し続ける」。ほんとに小さな一瞬の存在でしかない人間が右往左往しても・・・、という大きな無力性です。
① しかし、上の量的さんのお話のように、「何とかしなければならない」ことが実に様々在るのが現実です。
①は①として、②を生きなければならない。それが人間というものであるとしても、この関連性をどうすればスッキリ理解できるのかがわかりません。
無常感さん
本来どうすることもできない人間が、一方で、現実にはどうにかしなければならない人間であらねばならない、この相異なることを、どのように関連付けて受け止めてらっしゃるのでしょうか。これまでの無常感さんのお話からしますと,無力感さんはその域を越えておられるに違いありませんので,納得の仕方というものをお時間がございましたら,ご教示いただけませんでしょうか。
内田さんの言説、賛同できません。
おれはカースト制に反対だけれど、お前はカーストの最下層だ、と言っているようなもの。
「おれはカースト制に反対だけれど、」は、アリバイ工作にすぎず、きわめて品が無い。
サイバー空間は、いやおうなしにフラット化するけれど、実社会の写像にすぎないのです。
なんで、あの意味不明の文章をありがたがるんですか。
まあ、他人の書いた文章をどう読むか、
どう解釈するかは、それすらも各人で
違うのであって、それこそ捉え方の
問題と言われそうですね。
とても単純化してしまえば、要するに
視点さんは言ってることは無茶だけど、
(ご本人はそう思ってない…これは
主義主張の問題なので構わない)
文章から滲み出る人柄は愛されている。
無常感さんは言ってることは一見
まともだけど(これも主義主張なので
中身はいろいろあって構わない)、
人柄は愛されていない。
こういうことではないでしょうか。
いくら本当に正しいことを言っていた
としても、受け手側がシャットアウト
してしまうと届かないということだと
思います。
動機さんが言ってることはそういう
ことでしょう? まずは信頼を得て
から話しましょう、ってね。
適性さんも言ってますけど、多分、
無常感さんの主義主張って、動機さん
と合うところが多いような気がします。
連投、失礼します。
コトバ足らずのまま送信してしまい
ましたので。
無常感さんの考えが動機さんとシンクロ
する可能性があるので、少し違った見方
から無常感さんがどう考えるのか、
聞いてみたいのです。
そんなわけで、動機さんからシャット
アウトされてる状況はあまり好ましく
ないと思っているのです。
老眼様
無常感様にあてた質問に対してなのですが、私の思いも書かせて下さい。
私は、流されます。
徹底的に「その波に流される」。
自分の好きな波に。
その時に、たぶん「私」はない。
しかし、「ない」状態で徹底的に流されていくと、自分に心地よい流れが心と体で感じとれる時を見つける事が出来る。
それを繰り返していくうちに
「ああ、私の泳ぎ方はこれだわ。。」と、自分の中でひとまず「結論」を出すのです。
私は「私の人生論」みたいなものを常に自分の中で考え、必ず結論を出す。という作業を繰り返しています。
そして、その結論を持ちながら、次のステージに進んだ時に、「ああ、あの時確信した事は、この立ち場と今の年齢では通用しないのか、、」と、また新たな自分の中の「次の結論」を探しに行くのです。
そのテーマは、老眼様が①,②と分類なさっているように、私の中にもたくさんの分類があります。
そういった自分の中での「結論」を、たくさん持ちながら生きていくと、あらら、、不思議に「絶対的に変化していない結論」というものが何個かある。
この結論が、果たして「私にとっての真理」であるのか? また、「通用しないな。。」と新たに考えねばならないのか、どう変化していくのか、それが楽しみなのです。































