充実した教育環境の日大付属高校
私立中学の価値 2校め
既スレが調子悪いので、とりあえず立てておきました。
みなさま、活発な議論ご苦労さまです。ちょっと脱線するのですが、自論を少し・・
私は「受験なんぞ所詮私事、自分でやるべし」といった古典的公立支持者、放し飼い教育支持者
なので、受験に関して何らかの教育プログラムを子どもに施す・・ということに関しては、
かなり懐疑的な印象をもっているのですね。
大学受験は「自力で対策を練って戦う」から「精神的に成長する」という意味があるわけで・・
受験中高一貫私学に対してはもちろんのこと、今後、立場をとって代わるであろう 公立中高一貫校
に対しても疑問を感じています。
(まあ・・時代の流れなので仕方ありませんけどね・・ただし、公立と私学は機会均等の観点で、
スペックを同じにすべきです。)
受験訓練で知識をインプットすることなど、ひとりでも出来ますよね・・
要は、本屋に行って参考書・問題集を買って勉強して、志望校向けの模擬試験で実戦練習すればいい・・
ただ、それだけのこと・・つまり「私教育」なんですね。
どうしても、ひとりで出来ないのなら、予備校で関連知識を大量販売しているので、それを買ってくれば、
いいだけのこと・・どうしても学校教育(公教育)でしなければならない・・そんな理由なんてありません。
ひとりでは到達出来ないこと・・それが「公教育」というものでしょう。
個人にどのような教育プログラムを施したとしても、そこに社会性、公共性が存在せず、個人で完結する
に過ぎないのであれば、「公教育」とは言えないでしょう。
外国とは異なって、日本では、私学も「公教育」を担っていると解釈されているわけで、
公立学校とは異なった、私学の「公教育」性のあり方・・それが問われるのだろうを思うのですね。
(当然のことながら、行政法上の定義など・・形式的なことを言っているわけではありません。)
・・そこまで考えて、いつも思い浮かぶのが 福澤諭吉 なんですね。
官に頼らない私学・・個の確立・・(逆説ですが)その結果、国家が富む・・
私学の理念はそうあるべき ・・ではないでしょうか。
私は、あまり勝負ごとはしません。中学生のころは、たまにしましたが。ちょっと、将棋・囲碁で思いついたことがあるので下記に書きます。緩い書き込みで、数量的な中身がありませんが。
将棋と言えば、思い浮かぶことに、3月のライオンという本(コミック)3巻P.182に、・・・
負けを悟った側は、”最後の一言”に向けて持ちの整理をしていくが、勝つ側は、最後の一瞬まで読み間違えることがないよう張り詰め続ける、だからこんなふうに、勝った側が激しく消耗している場合が多いのだ、それこそ、声もうまく出せないほどに。
この辺が、とても良く書けていて、監修の先崎学八段ならではのアドヴァイスが効いているところですが、われわれ一般人はこのようなプロ将棋の世界に、行けるほどの将棋の才能などはないですが、唯一、大学受験などはこういうことが実感でき、またそのような世界を学べるという具体例です。
よく受験などに学ぶことはない、”上級学校の選ぶということの必要悪” という人がいますが、数時間~数十時間で結果が判る厳しい勝負に向けて、如何に準備するかが、その後の人生で繰り返し役立つことは、一般人も選ぶところがない、と思います。
中学生でプロ棋士になった桐山君が、少々なめてかっていた島田8段の深いところのいきざまそのものに触れ、名人やタイトルホルダーだけではなくA級棋士の凄みに感じ入るシーンがありました。
僕が「勝つ理由がない」とか、「なのに負けると悔しいのはなんでだ」とか言いながら目を背けていた世界、-その果て(*)、彼(量的註:島田八段)は一人両足を踏みしめて征く人なのだ、と表現しています。
(*)島田さんの居る場所(量的註:境地)ははるか遠い場所 に通じます。
わたしの祖父は、人間は、浪人したり、病気したり、刑務所に入ったりすると人間が大きくなる、良い機会だ、と大学受験に失敗して目の前が真っ暗なっていた浪人時代にそういってくれました。
囲碁と言えば思い浮かぶことに、10月14日土曜日の日経夕刊1面、”明日への話題”に、「勝ったとき、負けたあと」というところで、内弟子時代に、「タラレバ」は無いんだよ、と厳しく諭されたことや精神的に、「勝敗に惑わされない」「勝ったときの心構え」「負けたあとの心の持ちよう(あり様)」を学べるときが、院生(囲碁の修行)時代、と書かれていますが、これがわれわれの学べる、若者時代の大きな意味の学びの存在意義のひとつかな、と思います。
ひとにより進む道に差はあれど、また能力に応じて、その厳しい勝負の場はことなれども、おとなに向かっていくときに通らなければならない、「狭き道」がその時代なのでしょう。
教育を考えるとき、中高大の時代の学びも、学習指導要領のあれをならった、これを習わない、先取りをする、しない、予備校付けになる、塾に通う、・・・こういう議論から入ると、ともすると、大学受験に向き合う向き合い方が違うように量的は思います。
たかが受験です。そしてされど受験です。
そして、おとなになって、仕事でもとめられるものも、
気がついてみれば、たかが結果・成果です。されど結果・成果です。
そして「自分の満足」が一層求められる。・・
あとには”ブルックナーの交響曲”を聞き終わったときのように、
開かれた闇で柔らかく自分をのぞき込む自分が、単に佇んだ世界。
今どきの教育の様に、自分の偏差値を予備校の模試で測定して貰い、それを基に、
行ける大学を調査して探して、いく・・・少なくとも知的社会を生き抜きたい優秀層の心構えでは全くないのではないか、と量的は思います。
言い換えれば、さまざまな小さい外部刺激が、やがて大きなある種の「ならでは」の感動を生み、それが、その人の進むべき方向を照らす。そして、目標、あるいはその方向に向けて、ありとあらゆる可能性を探り、全力で準備を始める。それが、若い世代の学び、ではないかと思います。その挑戦こそ、若者の特権でもある。
地域・時代さん、
以前、自分が”お勉強組”で、どんな意識で生きてきたか、どんな経験をしたのか、とてもわかりやすくお書きになっていました。比較的沢山の分量を書いていただいたので、文意がすごくわかりやすく、参考になりました。
同時に、なぜ、一見、違う世界に生きておられるように見えていた地域・時代さんが、いつも暖かいコメントを頂けることに不思議になっていましたが、その「共鳴箱」が少しわかったような気がしました。
・・・関連で、理系的話題もちょっと含めさせていただきながら、「私」と「他者」について書いてみたいと思います。面白い話題が選べるか、”風任せ”ですが。
(続きます)
今日の朝日新聞に、
「東大が5~10年先を見据え入試改革に着手」、
って記事が出ているようですね。
うちは朝日じゃないからみられないのですが、
5~10年先ってすごく幅がある。遅れる可能性もあるし。
現在小学校に通う世代は、改革の一期生になる可能性が。
東大だけ変わることになるとは考えにくいし、
うち、もろに影響受けそうです…。
>東京大学(浜田純一総長)は入試改革をめざした「入試企画室」を設置し、14日に初会合を開いた。5~10年先を見据え、従来の選抜方法や前期・後期日程など、根本から改革を検討する。後期日程を中心に、従来のペーパーテストでもAO入試でもない「第3の道」を探る。
入試企画室は浜田総長の指示で8月に設置した。なるべく早く入試改革案を固め、全学組織の入試監理委員会で正式に決める。その結果は、多くの大学の入試に影響を与える可能性がある。
東大入試は現在、前期は教科型の試験で、後期は小論文や応用問題などが中心だ。2012年度は、文科から理科類まで、前期計2963人、後期計100人の募集を予定している。予定倍率を超えた場合は大学入試センター試験の成績で第1次選抜する。
東大入試改革、yahooにも出ています。
前の投稿の続きで、内容は地域・時代さんへのものです・・
ご興味のない方はスルーください。
「キャラ」と「これからくる世界の把握」でキーとなるものとは、主に関係性だと思います。分子模型というものをご存じだと思います。炭素は黒い穴の開いた多角形、水素は白い玉、そしてこれでメタンCH4を作ると、正三角錐の真ん中に黒い炭素が位置して、白い玉が4つ頂点の位置にあります。
文系だったら、あまりご興味なかったですよね、たぶん。
高校生で、文系コースのひとは1回限りだと思いますが、化学Iや理科総合などで習ったりします。この手のものを理系コースの人間は何回も習います。そして反応式を書かされたりして何十時間もその暗記に時間を費やします。
こういうものを習っていると、理系人間は、原子というものがまず確固たるモノとしてあって、その上で結合が出来て、それで分子全体ができる、と知らず知らずで思うようになっています。
でも、粒子があって、結合がアルのではなく、関係性つまり、結合があってこその炭素、そして水素であるということが大事な見方です。勿論、炭素が水素になってしまったりはしませんが、周りのお相手のありようによって、その炭素そのものは全く、違う様相(*)を見せます。
炭素と水素の関係性(=結合)の仕方が変わります。象徴的です。
この関係への注目され、高校教育でも多く取り上げられるようになったのは、比較的最近でしょう。先日、高校生の国語の教科書と教科書ガイドを10冊ほど買い求めて見ましたが、岩井克人、鷲田清一、などそういった内容を含む著者の様々な著作が多くの教科書で共通に取り上げられて、いることは驚きでした。センター試験を含む入試問題の現代国語に頻出している世界に見えます。(例、2010年センター試験 現国)我々の頃は、少なくともそういう内容を学校では習ってはいません。
また、高校ではなく、大学での理系教育に目を転じると、物理屋さん、化学屋さんは、材料やプロセス工学、大物の機械工学などを除くと、大学では分子時代、粒子そのものをいうよりも、「関係性」が本質という見方もしてきますので、大分、高校生よりも見方が進歩しています。
今、把握されるべき対象は、ますます、”単純にきりきざんだパーツ”で分析したり考察したり出来ない時代です。首と手と足とアタマと胴体というパーツを、接着剤でくっつけて、皮膚を付けても人間にならないし、自動車のクレーモデルで、タイヤとランプについて本物を付けた、本当に本物そっくりにできあがったメタリックに光る粘土の車、本物に見えるがまったく別物であるのと同様です。
今、学びの議論でも、英語でこう、数学でこう、英語でこう、世界史でこう、あるいは音楽ではこうと切り刻んで、議論して、それらの総体で「知」を考える。あるいは、受験勉強とは全く別物の「教科の学び」があって、受験英語と英語は別物だ、受験物理と本当の物理は別物だ、と議論しますが、わたしには、切り刻んだ教科のイメージでいつまでも進むなら、受験○○と本当の○○が背中合わせ、五十歩百歩の考えだと量的は思います。(○○は教科)
もちろん、世界史英語、数学、国語という、教科の学習を否定する立場ではありません。じゃ全部総合学習としてごった煮にすればという意見は議論にならないでしょう。各教科の存在とは、全体理解のひとつの切り口です。よく、世界史や、古典は、理系に全く不要という論陣をはる人は、これらの教科とは世の中の諸相の理解のひとつの様相というお決まりの約束事を理解せずに、あまりにも一般化をしているように見えます。できるひとは一芸で数学だけできて、活躍する世界が保証されるのは望ましいデスが、多くの人が理解すべきは教科そのもの、教科書を理解することではなく、教科を通じて、あるいは教科書を使おうが使うまいが、教科書で言いたい内容を十全に理解する、こういう当たり前のことが求められている様に思います。
先日私立高校の先生とこれらのことを議論したときに、島状の知識を如何にちなげるか、友言えますね、と話がありましたが、教科別の科目を教えておられる立場からそのような表現もあることはうなずけます。
そのとき、その学ぶ対象の世界は? → 本来は分割不能の世界全体だと思います。 また本人のキャラは?キャラはそのひと固有のものというよりも、むしろ周りとの関係で現れてくるあり方だと思います。
大学・および院での経験で言えば、私立中学から来たひとと、公立高校から来た人に一長一短がありますが、様々なキャラがいます。公立高校の人の中には、周りで優秀な人を見たことがないために、上位1%レベルでも自分ができるひとであり、その道で食べて生きていける、と大錯覚しているひとがでます。(でも大学か、遅くとも大学院くらいで”高い鼻”をへし折られますが)
一方、私立高校のひとは、自分より出来るひと、飛び抜けているひとを同級生で沢山見ていますから、知的社会には、なじみやすい。同じ大学似帰結してもおそらく熟成されるキャラはかなり違います。この社会では、だからといって私立高校が公立高校のひとよりも圧倒的に有利かというとそんなことはなくほぼ同じような感じでしょう。
まず、実力面では、自学自習がキーの世界になるので、高校までの外部からの教育の違いは、条件面であまり問題にならない。上のステージにいくときも、概ね実力がまずスクリーニングの関門。なぜなら実力のあるひとを探すことが人柄の良いひとを探すことよりもはるかに難しいからでしょう。実力ある人の中で、人がら・性質の良いひとを探すのが、ある種の知的社会ではプロセスの順番となるからなのでしょう。(人柄だけでは仕事が進まない職場は最先端ではかなりあります)
キャラについては、わたしは乏しい経験で全てを見通すことはできません。しかし公立出身者のほうが、俺が何とかしなければというタイプが多く、大学教授になったときも一人で頑張るタイプも多い。チームプレーは私立高校出身者や部活で文系・理系共にチームワークが求められるもので経験があった方の方が、得意である可能性がありますね。一長一短。(わたしは公立出身としてこの点には近年とても気をつけています)
例えば、似たようなキャラで一見生きているような人がいても、企業環境や求められるもの=価値が違うでしょうから、相対的なありようは全く違う、変化することになるでしょう。
【2295910】【2295928】 でかかれた「取捨&選択でダイナミックに進化して生きる話」
わたしにも、強く印象を与えられたお話で、通じるところがありました。
それは教育論にも繋がっていると思いました。
以上ですが、
地域・時代さん、関連で、雑駁なことをずらずら書いてみましたが、
お許しいただけますか。イメージの話ですが、・・どうでしょうか。
違う仕事がここ15分ほど入って間があいて
失礼しました。乱文誤字脱字、あったらすみません。
<地域・時代さんWrote>
【2295928】
私の分野の流行は、くるくると螺旋を描きながら大きく膨らんでいっている。
なので、やはり過去についての自分の分野の勉強はしっかりとしておかなけばいけない。
また、今、のリアル感を体感していなければ、新しいものも生み出せない。
つまり、最先端と過去を自分の中に取り入れてなければ表現出来ない、という状況になるわけです。
そして、その中で「次にくるのはこれだろう」と想像するのです。
次の一手を読む。って感じ。
しかし、表現する時は、やはり「何も考えてない」ですね。私の場合は。
体感して、心で感じて、それらをテクニックを使いながら何も考えず、表現します。
これは、ここでも上手く伝えにくいです。言葉で表現しない分野ですから。
少々気づきを修正させていただきました。
前の投稿の続きで、内容は地域・時代さんへのものです・・
ご興味のない方はスルーください。
「キャラ」と「これからくる世界の把握」でキーとなるものとは、主に関係性だと思います。分子模型というものをご存じだと思います。炭素は黒い穴の開いた多角形、水素は白い玉、そしてこれでメタンCH4を作ると、正三角錐の真ん中に黒い炭素が位置して、白い玉が4つ頂点の位置にあります。
文系だったら、あまりご興味なかったですよね、たぶん。
高校生で、文系コースのひとは1回限りだと思いますが、化学Iや理科総合などで習ったりします。この手のものを理系コースの人間は何回も習います。そして反応式を書かされたりして何十時間もその暗記に時間を費やします。
こういうものを習っていると、理系人間は、原子というものがまず確固たるモノとしてあって、その上で結合が出来て、それで分子全体ができる、と知らず知らずで思うようになっています。
でも、粒子があって、結合がアルのではなく、関係性つまり、結合があってこその炭素、そして水素であるということが大事な見方です。勿論、炭素が水素になってしまったりはしませんが、周りのお相手のありようによって、その炭素そのものは全く、違う様相(*)を見せます。 炭素と水素の関係性(=結合)の仕方が変わります。象徴的です。
この関係性への注目、高校教育でも多く取り上げられるようになったのは、比較的最近でしょう。先日、高校生の国語の教科書と教科書ガイドを10冊ほど買い求めて見ましたが、岩井克人、鷲田清一、などそういった内容を含む著者の様々な著作が多くの教科書で共通に取り上げられて、いることは驚きでした。センター試験を含む入試問題の現代国語に頻出している世界に見えます。(例、2010年センター試験 現国)我々の頃は、少なくともそういう内容を学校では習ってはいません。
また、高校ではなく、大学での理系教育に目を転じると、物理屋さん、化学屋さんは、材料やプロセス工学、大物の機械工学などの専門分野を除くと、大学では原子、分子、粒子そのものを対象にというよりも、「関係性」が本質という見方をしてきますので、大分、高校生よりも見方が進歩しています。
今、把握されるべき対象は、ますます、全体となっている。”単純にきりきざんだパーツ”で分析したり考察したり出来ない時代です。首と手と足とアタマと胴体というパーツを、接着剤でくっつけて、皮膚を付けても人間にならないし、自動車のクレーモデルで、タイヤとランプについて本物を付けた、本当に本物そっくりにできあがったメタリックに光る粘土の車、本物に見えるがまったく別物であるのと同様に、分けた分析をつなげても全体の理解にならないです。 なぜ、それに気づかないかというと全体野理解をするひとが少ないから、分析の総体が間違いだというレベルにならない、そういう文脈に行き着かないからです。
今、学びの議論でも、英語でこう、数学でこう、英語でこう、世界史でこう、あるいは音楽ではこうと切り刻んで、議論して、それらの総体で「知」を考える。あるいは、受験勉強とは全く別物の「教科の学び」があって、受験英語と英語は別物だ、受験物理と本当の物理は別物だ、と議論します。わたしには、切り刻んだ教科のイメージでいつまでも進むなら、受験○○と本当の○○が背中合わせ、五十歩百歩の考えだと思います。(○○は教科)
もちろん、量的は世界史、英語、数学、国語という、教科の学習を否定する立場ではありません。じゃ全部総合学習として、ごった煮にして」教えればよいのでは、という意見は議論にならないでしょう。各教科の存在とは、全体理解のひとつの切り口です。そして必要。
よく、世界史や、古典は、理系に全く不要という論陣をはる人は、これらの教科とは世の中の諸相の理解のひとつの様相というお決まりの約束事を理解せずに、あまりにも一般化をしているように見えます。できるひとは一芸で数学だけできて、活躍する世界が保証されるのは望ましいデスが、多くの人が理解すべきは教科そのもの、教科書を理解することではなく、教科を通じて、あるいは教科書を使おうが使うまいが、教科書で言いたい内容を十全に理解する、こういう当たり前のことが求められている様に思います。
先日私立進学高校の先生とこれらのことを議論したときに、島状の知識を如何につなげるか、とも言えますね、と話がありました。わたしは納得しない表現ですが、教科別の科目を教えておられる立場からそのような表現もあることは、うなずけます。
その学ぶ対象の世界である分割不能の世界、そしてその関係の中で醸成される人間のあり方=キャラはそのひと固有のものというよりも、むしろ周りとの関係で現れてくるあり方だと思います。
ちょっと具体的な例を思い浮かべると、大学・および院での経験で言えば、私立中学から来たひとと、公立高校から来た人には一長一短がありますが、様々なキャラがいます。公立高校の人の中には、周りで優秀な人を見たことがないために、上位1%レベルでも自分ができるひとであり、その道で食べて生きていける、と大錯覚しているひとがでます。(でも大学か、遅くとも大学院くらいで”高い鼻”をへし折られますが)
一方、私立高校のひとは、自分より出来るひと、飛び抜けているひと(=全国で何番、十番)を同級生で、少しは見ていますから、上のレベルの世界をしっている。だから、今のどんどう優秀層が絞られて構成されている知的社会には、なじみやすい。これは、30年前とは違う社会のありようです。
このような知的社会では、だからといって私立高校出身が公立高校出身のひとよりも圧倒的に有利かというとそんなことはなくほぼ同じような感じでしょう。
まず、実力面では、自学自習がキーの世界になるので、高校までの外部からの教育の違いは、条件面であまり問題にならない。本人次第。上のステージにいくときも、概ね実力がまずスクリーニングの関門。なぜなら実力のあるひとを探すことが人柄の良いひとを探すことよりもはるかに難しいからでしょう。実力ある人の中で、人がら・性質の良いひとを探すのが、ある種の知的社会ではプロセスの順番となるからなのでしょう。(人柄だけでは仕事が進まない職場は、最先端知的社会ではかなりあります)
キャラについては、わたしは乏しい経験で全容を見通すことはできてはいません。しかし公立出身者のほうが、俺が何とかしなければというタイプが多く、大学教授になったときも一人で頑張るタイプも多い。チームプレーは私立高校出身者や部活で文系・理系共にチームワークが求められるもので経験があった方の方が、得意である可能性がありますね。一長一短。(わたしは公立出身としてこの点には近年とても気をつけています)
例えば、似たようなキャラで一見生きているような人がいても、企業環境や求められるもの=価値が違うでしょうから、相対的なありようは全く違う、変化することになるでしょう。
【2295910】【2295928】 でかかれた「取捨&選択でダイナミックに進化して生きる話」
わたしにも、強く印象を与えられたお話で、通じるところがありました。
それはある部分、中高での教育にも繋がっていると思いました。
地域・時代さん、以上ですが、 お書きになった関連で、雑駁なことをずらずら書いてみましたが、 お許しいただけますか。
概ね、定量性はない段階の話ですが、・・どうでしょうか。
失礼しました。乱文誤字脱字、あったらすみません。
<地域・時代さんWrote>
【2295928】
私の分野の流行は、くるくると螺旋を描きながら大きく膨らんでいっている。
なので、やはり過去についての自分の分野の勉強はしっかりとしておかなけばいけない。
また、今、のリアル感を体感していなければ、新しいものも生み出せない。
つまり、最先端と過去を自分の中に取り入れてなければ表現出来ない、という状況になるわけです。
そして、その中で「次にくるのはこれだろう」と想像するのです。
次の一手を読むって感じ。
しかし、表現する時は、やはり「何も考えてない」ですね。私の場合は。
体感して、心で感じて、それらを、テクニックを使いながら何も考えず、表現します。
これは、ここでも上手く伝えにくいです。言葉で表現しない分野ですから。
>今日の朝日新聞に、「東大が5~10年先を見据え入試改革に着手」、
>って記事が出ているようですね。(遺伝さん)
記事には書いていませんが、先行して話題になっている「秋入学」も含むのでしょうね。
入学時期をグローバルスタンダードの「秋入学」に移行して、海外からの留学生を受け入れやすくして、
大学の国際競争力を高める・・なんとなく分かったような・・でも、結局、全然分からないような、
意味不明な話なんですよね。
ちょっと考えただけでも、いろいろな疑問が浮かぶのですが・・・
1.入学時期の差によって、海外留学生の評価が大きく変わるものなのだろうか?
2.東大が、海外留学生の評価がそんなに気になるのなら、入学時期なんかよりも、
英語で教育出来る体制を強化・整備する方が、東大にとってよほど重要なことではないのか?
3.アメリカの大学に一流の海外留学生が集まる状況は、アメリカの大学に豊富な寄付金、
産業界からの潤沢な研究資金が集まる「爛熟した資本主義社会」が前提にあるのであって
入学時期など、関係無いのではないか?
4.国内学生は「春入学」、海外留学生は「秋入学」の2段階プログラムで、何か支障があるのか?
5.日本国内の大半の大学、あるいは企業にとっては、海外留学生の評価よりも、国内の学生の方が
重要であるわけで、「秋入学」に何か意味があるのか?
・・などなど・・考えれば、もっと疑問が出てきそうです。
自然に考えれば、
実は、東大にほかに意図があるのではないか?・・・そんな感じですね。
「従来型のペーパーテストではとらえられない多様な学生のため、現状の前期試験を生かしつつ、
AO入試でもない第3の選抜の道はないか考えたい」(本日の朝日新聞記事)
・・これもなんですが、
理科Ⅲ類の入試で「面接」を導入したけれど、すぐ止めましたよね。
言うのは簡単ですが、とても難しいと思いますよ。






























