インターエデュPICKUP
10073 コメント 最終更新:

私立中学の価値 2校め

【2043250】
スレッド作成者: ようこそ!書き込み歓迎 (ID:4Xzxz71IPe2)
2011年 03月 02日 23:08

既スレが調子悪いので、とりあえず立てておきました。

【2309523】 投稿者: 凡才   (ID:EjMFwon1LEg)
投稿日時:2011年 10月 28日 13:35

未来様

私が言いたかった所を説明頂き有難うございます。

どこの塾でも、多分中学受験塾は、子供にとって、量、質共に多いのは確かですので、それをどうして行くか判断するのは親だと思います。
たとえうまく行ったとしても、大変な事には変わりないと思います。別に、自分の子供だけが大変では無い事を、いつも頭の隅においておけば、大丈夫だと思います。

【2309546】 投稿者: 老眼   (ID:VTbgT2LIo/M)
投稿日時:2011年 10月 28日 14:06

再引用させていただきます。


>もしかしたらその子はその時、合奏なんかよりバッタを追いかけたかっただけかもしれない。なのに「ダメじゃない!」と叱られる。すると、その子は次の発表会から、親に褒められようとして、バッタをあきらめて嫌々ながら整列するかもしれない。こうしてまた一人、未来のファーブルがただの人になっていく・・・


幼児期を考えるにあたっては、
信頼感さんのご意見にあることが基本中の基本であろうと思いますが、
集団のなかでの個人についてを考えるときに、
p593にあるシルバースプーンの内容が示唆する点もキモの部分と強く感じます。
点といいましても、上記文に隠されている問題提起の要素、点の数、が膨大で、
そこから動けずにいます。


 点のひとつを取り出しますと、「バッタを追いかける」
 対象は何であれ、自ら興味を抱く、関心を寄る・・・これだけでもとても大事な出来事だと思います
 その対象が生き物の場合、「バッタは元気なのか」「バッタは家族から離れてしまっていないのか」・・その子の中に、心配する気持ちも
 伴っているかもしれません。
 合奏という対外的要素を伴う集団行動を、ある意味、無視してでも、強い関心を止めてしまう、その集団行動をとることが命を心配する気持ち
 よりも勝るという認識を植え付けてしまう可能性・・・言い過ぎの部分があるのは承知ですが、幼児にとってはとても重要なことではないかと
 つくづく思いました。
 先ごろ、野球だかなんだかのプロ?の試合中に、突然ある選手Aがプレーを放棄して、グランドを走った。
 向かった先には、別の選手Bが倒れていて、その気づきと行動のおかげで一命をとりとめた、という報道をみました。
 観客も他の選手も試合に夢中で選手Bの異変に気付かなかったわけです。選手Aが称賛を浴びたのは言うまでもありません。
 選手Aは、バッタを追うことができたのです。ファーブルにならなくても、これも偉業です。
 一方、中国で、2歳くらいの女の子が車にはねられた。血だらけで倒れている姿を8人の大人の通行人がみたが誰もが無視をして、
 その後、女の 子は別の車にさらにひかれてしまった。これらの様子は路地に設置された防犯カメラに記録され、中国人自ら、
 豊かさとは何かを問い直している、という報道もありました。
 この場合、別な問題点が背景にあるのかもしれませんが、バッタを追えるヒトが一人でもいたなら・・と思います。
 わたしも、過去には、路上で寝ているヒトをみて知らんふりをしてきたひとりなので、書くのをためらいますが・・。
 

 点をもうひとつ取り出しますと、「褒める」。
 褒められてうれしい、とはどういうことなのか。
 下記の「個性」に絡めて考えますと、
 自分の「個性」を他人に「認められることへの安心感」なのでしょうか。
 

  
その、
「個性」 というもの。
根本的さんの仰ること、そして、幼児期を含めた全過程を、
わたしが正しく理解できるようになるためには、
「個性」というもの、これが何なのか、
それを自分の中で整理消化しないといけないのですが、
わたしにとって、「個性」というものの解釈は大変難しく、
これも、立ち止っている理由です。


 個性は活かすもの
 個性は伸ばせない、個性は磨けない、個性は育めない

 
 個性は自分が創りだすもの、他人は影響を与えることはできない、できるのは他人の個性を尊重すること


 上記が正しい認識であるとすれば、
 全課程を通して、ひとりひとりの子供の個性を正しく認識することが、はじめの一歩で、
 ひとりひとりが個性を活かして活躍できる環境を提供することが、
 無常感さんの言われる公の教育のもうひとつの意味合いなのでしょうか。
 


そして、さらに
離陸さんの、
>子供が自らやりたいという気持ちと活力を育むこと > 社会性をもつこと > 論理的に考える力を身につけること&教養を身につけること&自立して継続する力

の中で、
『子供が自らやりたいという気持ちと活力を育むこと』
これが冒頭に位置することは、教育領域においては、ゆるぎない真理であると思いますし、そのあとに続くべきものを示していただいて大変参考になります。
こちらに関連する難問は、
『子供が自らやりたいという気持ちと活力を育むこと』
これが、意識の高い各家庭で、ばかりではなく、
視点さんが仰るところの「子供全体が・・・」
を念頭に置いたときに、
どこまで可能なのか・・
どうすれば子供たちのためにベストを尽くせるのか・・
だと思っています。


根本的さんは、
具体案はないとおっしゃいましたが、
いえいえ、
「個性」を考えよ。
とのご指摘は、わたしにとりましては、間違いなく、これぞ具体案です。

【2309575】 投稿者: 根本的   (ID:feby7YDNQDI)
投稿日時:2011年 10月 28日 14:37

無常感さん


>がんこもの は美学である・・
>私はこれを好みにしていましたが、最近ちょっと違うのですよね。
>年をとったということかも。


 私のは、「がんこ」というより、「粘着」なんですよ。あまり美的ではありません。
 別に悪い事ではありませんが、無常感さんにはどうも、客観的観察者に留まろうとする傾向がおありのようですね。それとも、単に風流を好まれるのか?無常感さんの「無常」とは、動機さんの「鴨見」のようなもの?どことなく似てますね。無常感さんの「美学」と、動機さんの「ノスタルジー」。


>これは「個性」というよりも、「個」、「自我」ということかもれませんね。


 なるほど。「個」と「我」ですか。おもしろいですね。


 仮にヒトという種が、個体差のまったくないクローン人間のようなものだったとしても、それでも、「我」という概念を想定することはできるでしょう?その均一なすべての個体の中の、「この個体」こそが「我」だという感覚を有することは可能だという意味において。現に我々がそうであるように。

 
 人間は、シナプスがつながっている範囲の肉体を、「我」と認識するようにつくられている。あるいは、言い換えると、そこに、「我」「私」「自分」などという概念(仮説?幻想?)を当て嵌めて理解するようにつくられている。(物体として客観的に眺めれば、自己も他者も存在しないのに。)


 でも、この場合(クローン人間もどきの場合)、個体差がないわけだから、「個性」はないということになる。(ちなみに、「個性」とは、なんらかの価値をもった個体差のことでしょうから。)要するに、「個」のない「我」というものがありうる。ですから、「個」と「我」は違う、と理解しておりますが。

【2309607】 投稿者: 老眼   (ID:VTbgT2LIo/M)
投稿日時:2011年 10月 28日 15:17

先レスの追加です。


こちらに関連する難問は、
『子供が自らやりたいという気持ちと活力を育むこと』
これが、意識の高い各家庭で、ばかりではなく、
視点さんが仰るところの「子供全体が・・・」
を念頭に置いたときに、
どこまで可能なのか・・
どうすれば子供たちのためにベストを尽くせるのか・・


に加えて、時期のことがあります。
根本的さんが主張される一芸入試も、
ひとりひとりの個性を活かすという点で、まさにその通りなのでしょう。
とすると、個性に関係する教育は、幼児期から少なくとも大学入試まで、
全課程で重要な要素となり、
それが現状打開の1つの方向性なのかもしれません。
これは、もうずいぶん前からの根本的さんの主張そのものであるような気がします。

【2309609】 投稿者: 信頼感   (ID:UX5X2IBpp.6)
投稿日時:2011年 10月 28日 15:21

根本的様

>でも、この場合(クローン人間もどきの場合)、個体差がないわけだから、「個性」はないということになる。(ちなみに、「個性」とは、なんらかの価値をもった個体差のことでしょうから。)要するに、「個」のない「我」というものがありうる。ですから、「個」と「我」は違う、と理解しておりますが。

単純化してアリやハチで考えてみました。
巣、卵、女王、を守るという性質しかないクローン兄弟たち・・・そして利他的に行動できる。個人の「個」の差がないわけだから、「巣、卵、女王」を守ることが「個」の「利」となる。ロジックと行動に合理性がある。

根本的様の指摘を人間に当てはめて考えてみると・・・言葉を間違って使用していたことに気付きました。私の使っていた「個性」は、「人格」のことだったような気がしています。「人格の形成」とユングの「個性化」は全く別物であることに・・・ごっちゃにしていました。考えるきっかけを与えられ感謝です。

根本的様の「個」→「人格」、「我」→「個性」とは、云えませんか?
(唐突すぎます?・・・言葉遊びじゃないですから)

個、我は、人称の違いというか、視点を変えて中身の同じもの指していませんか?

【2309681】 投稿者: PDCAなんて   (ID:Cahz0Rsu.7g)
投稿日時:2011年 10月 28日 16:54

まじめに受験勉強している人間はPDCAなんて言葉を知らなくても無意識のうちにPDCAサイクルを回しているものです。

希学園がPDCAを取り入れているとかいう話で盛り上がれるなんて人は、物事を字面だけとらえて、具体的イメージを膨らませることができない人ですね。

【2309697】 投稿者: 適性   (ID:cNLOb07zPPI)
投稿日時:2011年 10月 28日 17:12

個性とはなにか。私のイメージですが。

基本的には、「違い」です。

その「部分」に関して、標準集団とは、離れれば、離れるほど、「個性」が際立ちます。

思考にしても、行動にしても、同じです。

「人を殺すことが、喜びである」というのも「個性」ですが、「反社会的」なので容認されていません。
つまり、社会で生きる人の社会では、その文化の中での「反社会的」な個性は、単なる非常識な、ちょとおかしな人ということになります。

無条件に、個性は、賞賛されません。(どこかの社会では、価値が認められないといけない)

伝統芸能では

『守・破・離』という言葉があります。
『守』とは師匠の教えを守ること。自分自身を一度捨て、何から何まで師匠の言われた通りにすること。師匠の技を真似ること。師匠のクセまでも真似なければならない。
『破』とは基本を身につけた後、師匠の教えを破り、自分の技を模索すること。
『離』とは師匠から離れ、自分自身の技を確立すること。


養老さんも言っていたが、芸事の場合、真似しても、真似しても、どうしても、違ってしまう、その部分がほんとの「個性」である。

制約のほとんどない世界での、個性は、もっと、フリーなんでしょうけど。
まね、や、観察から、入るのであれば、似てる部分も多分にあります。

養老さんは、自分が個性的な発想や発言しているのに、基本は、社会に、共通認識や、共感をが大事だといいます。例えば
******************************************************************
『若い人への教育現場において、おまえの個性を伸ばせなんて馬鹿なことはいわない方がいい。それよりも親の気持ちがわかるか、友達の気持ちがわかるか、ホームレスの気持ちがわかるかというふうに話を持っていくほうが、余程まともな教育じゃないか。』
『他人のことがわからなくて、生きられるわけがない。社会というのは共通性の上に成り立っている。』
******************************************************************
それでも、バカの壁はある。ということです。

老眼さんは、子供の興味と個性の関係を考えているようですけど。

子供が、「興味を持ち、継続的に、没頭する」と、そこは、当然、標準集団とは、離れ、個性に繋がる可能性が「高く」なる。
しかし、本を読むことに、蝶をおっかけることに、没頭したからといって、他者との、違いが、すぐ発生するわけではありません。
一般的には、個性とはいえない、ふつーの子である確立の方が高いぐらいです。

しかしながら、それは、その子の、「経験値」として、十分に、意味のあることなので、それが、社会から見て、個性といわれるかどうかは、あまり関係ないというのが、私の意見です。

人と違うことをすることは、反社会的でない限り、「別に悪いことではない」ということです。
ただ、人と、常に、違うことを選択して、それが普通の子は、社会的適応力の重要性が認識できないまま、大人になるかもしれませんね。
受け入れてもらえる、社会は、当然、狭くなります。
たとえ、親が、無条件に、子供を受け入れたとしてもです。

【2309698】 投稿者: 未来   (ID:R4KjSl9Y91U)
投稿日時:2011年 10月 28日 17:14

PDCAなんて(ID:Cahz0Rsu.7g)さん

PDCAさんは、真面目に受験勉強している人なんてって書かれていますね。
これは、年齢関係なくと云う意味ですか?

受験1年前から意識するというお話があったので
自然にそういう形になるということかしら。


よかったらお返事ください。

スペシャル連載

すべて見る

サイトメニュー