アートの才能を伸ばす女子教育
私立中学の価値 2校め
既スレが調子悪いので、とりあえず立てておきました。
>園児・児童(*)にとり「神」は何なのか。 特定の宗教の信者でもない私にとっては 親や祖父母であり、担任の先生でした。
量的さん
お久しぶりです
いつも拝読させていただいております、とてもハイレベルで雲の上を感じながらですが。
ところで、量的さんにとっての神を教えていただきありがとうございます。
わたしも、祖父母は同じですが、担任は、幸運なことに小中の9年間でお1人だけ恩師に出会うことができました。
1/9の確率です。
世の中、今も昔も、両親がいない、片親がいない、祖父母も遠方に、親戚も音信不通、などの状況下は結構あると思います。
また、期待したいところの担任の先生も、幸運さがなければ、1人とて師と思える先生に巡り合うことができないかもしれません。
親や祖父母であり、担任の先生が、「神」となる状況は、普通であるようで普通ではない、実はかなり恵まれた状況ように思もいます。
視点さんの「すべての子供が・・・」を考えるときには、ご指摘のような恵まれた状況以外のことも考慮しなければ、と考えております。
ただ、これは、視点さんの御意見に基づくわたし個人の思考であって、量的さんのお考えの根源はもっと別なところにあるのかもしれませんから、
だからなんだ、というものではありません。
量的さんの幼少期に対するお考えをお聞かせいただけるのはありがたいことです。
チャックをして拝読させていただきます。
>単に風流を好まれるのか?(根本的さん)
すみません、ちょっと追記ですが・・風流の世界も好きです。(ただし骨董品の趣味はありません)
何で読んだか、忘れましたが、
風流は数奇者の世界・・好きでたまらないものを見た瞬間の 自分の心の乱れ、
これを楽しむことを、「風流を楽しむ」と書いたあったように記憶しています。
それを転じて、プレッシャーを楽しむ これも同じかもしれませんね。
>>これは「個性」というよりも、「個」、「自我」ということかもれませんね。(無常感)
>でも、この場合(クローン人間もどきの場合)、個体差がないわけだから、「個性」はないということになる。(ちなみに、「個性」とは、なんらかの価値をもった個体差のことでしょうから。)要するに、「個」のない「我」というものがありうる。ですから、「個」と「我」は違う、と理解しておりますが。(根本的さん)
ヘンなことを言って、根本的さんを困らせたかもしれませんね・・どうも、すみません。
要は、個人的に・・「個性」という言葉がしっくりきていないのですね。
ひとり、ひとり、みんな違うよね、・・違っていることがごく自然、
・・であるのに、「個性を大切する」というのはどういうこと?・・という感じなんですよね。
「個性を大切する」ではなくて・・例えば、「違うことを理由に排除しない」
・・これだったら、意味が分かります。
でも、「個性に大切にする」って何?・・しかも、文科省の教育目標に掲げられている。
こんな事を教育目標に掲げる国が他にあるのでしょうか?
・・なんだか、突っ込みにくさを追求した空理空論 のような感じがしますね。
>「個性を大切する」ではなくて・・例えば、「違うことを理由に排除しない」
・・これだったら、意味が分かります。
ユングの「個性化」をこの一文で説明されてしまった。
まぁ、こういうことでしょうね。
殆どの人間がコレを実行出来ず、「投影」して相手を否定するわけです。
根本的様
>「個性」とは、究極的には単なる違いのことに過ぎませんから、客観的な性質のことです。しかし、「我性」とはまさに、その皮膚をつねれば痛いと感じる「自分の」「この個体」を、70億もあるすべての個体の中で、特別なものとみなす一種の情念だと考えますので、あくまで主観的なものとならざるをえません。本質的に異なるものと考えております。
根本的様のやり取りの部分を誤解していました。
(スミマセン、ちゃんと読まないとですね)
「我性」=「自我」ということでよろしいでしょうか?
「自我」の芽生えのない乳児期は、遺伝的要素と母性とのふれあい(環境因子)などで人格の形成がなされていくと思うのですよ。
だからこそ、自我の芽生えていない乳児期の環境因子が、その後の「自我」、(主体的観念)に影響するわけですよね。
「自我」は、「人格」形成する上での根幹部であり、ここで社会的適切な概念を環境因子によって学ぶ。自我形成前での信頼感、安心感が希薄だと、幼児期の父性を受け入れられず、反社会的行動のトリガーになるってことだと思っています。
未来さん、
違います。うちの連中は大手塾だったし、中学受験しています。
そのこと自体は、決して矛盾は特にしていないです。東京の場合で言えば、その感覚も比較的普通のことでしょう。多くのROMしている方々も同じことを考えていることではないかと想像しています。
わたし自身は、ここ5-6年で、少々考えを変えてきた部分はあります。具体的には、以前は、「今は、30年前とは時代が違うから、自分が育ててもらったように公立中学ルートで行くのは良い選択ではない場合がほとんど」と思っていました。つまりかなりの中学受験派でした。いまは、「こどもによって実際の選択は、一長一短を勘案し個別判断になっている状況(=ばあいによってはデメリット)」(*)という考えで、公立か私立かという議論について、中立というか、組しない立ち位置です。全部のケースについて、手放しで公立中高一貫校が良いとも思ってはいません。
確かに、分かりにくいことがある部分なので、
ご質問をありがとうございました。
(*)
一長一短とは、「修正は最小限で我慢して、荒削りなままで、中学生に行ったというメリット」と「いまの個々の生徒が通う地元の公立中学→公立ルートが、比較的真ん中および中下位の生徒に手厚いという特性」を勘案して、中学受験するか受験しないかは、それぞれの場合だろうと思います。
(未来さんWrote)
量的さん
>・・・修正は最小限で我慢して、荒削りなままで、中学生に行った方が良い。 まあ、こういう意見は、多分、 これは、量的さん自身のお子様にもそのようにされていると いうことですよね。 中学受験の塾などには通わなかったということですか?
老眼さん、
こんばんは。とくにわたしが詳しい分野であるとは思えませんし、こどもも大きくなってしまって現実感が希薄でして、ちょっと、その部分を書くつもりがございませんが、老眼さんのご意見にはかなり共感できていまして、ROMさせていただいています。
・・・下記のご意見も、老眼さんと同じような考えをしています。小学校で、一人も思い出の深い、恩師と言うべき先生がいないと、個人としてもまた、教育一般としても寂しいな、と思います。わたしは、小中では担任と教科の先生まで入れれば、5~7名くらいはいました。自分にして見れば、ざっと1/3位だったかと思います。中学以降で通った小さな塾などの先生では、もっと高率で「優れたキャラ」への出会いをいただいたか(*)と思っています。
(*)
自分で100%見つけた先生という訳では無く、さまざまな偶然と、親や友達などのサポートで見つけたところがほとんどなので「出会いをいただいた」と書きました。
<老眼さんWrote >
わたしも、祖父母は同じですが、担任は、幸運なことに小中の9年間でお1人だけ恩師に出会うことができました。 1/9の確率です。 世の中、今も昔も、両親がいない、片親がいない、祖父母も遠方に、親戚も音信不通、などの状況下は結構あると思います。 また、期待したいところの担任の先生も、幸運さがなければ、1人とて師と思える先生に巡り合うことができないかもしれません。






























