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私立中学の価値 2校め

【2043250】
スレッド作成者: ようこそ!書き込み歓迎 (ID:4Xzxz71IPe2)
2011年 03月 02日 23:08

既スレが調子悪いので、とりあえず立てておきました。

【2310701】 投稿者: 未来   (ID:R4KjSl9Y91U)
投稿日時:2011年 10月 29日 20:19

量的さん


いつも変な横やりを入れてすみません。
量的さんのお話を参考にされている方沢山いらっしゃると思うのですね。

ですので、素直に疑問に思ったことを書かせていただきました。


大変参考になりました。

【2310998】 投稿者: 無常感   (ID:w3mt3qJpNt2)
投稿日時:2011年 10月 30日 08:22

>その一方で、社会からの目線では、教育に税金を使うとは、「社会の役に立つことをマスプロ教育としては、(社会が)期待する」という側面を持つので、・・(量的さん)

立ち位置が違えば、違う見方もありえますね・・それは、おっしゃるとおりですが・・

お話は、児童に目標を「強制」することへの疑問(量的さん)だったわけで、そこは私も同意見なのですが、
その理由が「社会に役に立つ」という目標に関連してだとしたら、結局、同じではないか?・・というのが、
私の懸念なんですね。

「期待する」(量的さん)にとどまる、目標とはいっていはない ということかもしれないし、
複線的な目標であれば強制性はない といった整理もできるのでしょうね。
これは反論ではありませんので・・量的さん、なにとぞご容赦ください。


「社会からの目線」というのが、具体的に誰なのか・・
たとえば、①為政者、②国民、③・・ 立ち位置によって、議論の展開も全然違ってくるのでしょう。

また、「社会の役に立つ」の内容・・工学的、経済的な発想をしてしまうと、
産学共同体的に経済的に有用なものこそ「役に立つ」 というバイアスがかかりやすいわけです。
そういったバイアスに対しては、本当にそうだろうか?・・・と疑問に感じています。

たとえば・・理学的に見たら、莫大な金をかけてでもニュートリノの研究、これは「有用だ」と
判断するでしょうが、これは、国民に直接役に立つものではないし、経済的にも儲かる話ではありませんよね。
文学的にも、夏目漱石の研究・・これだって事情は同じですよね。
「社会に役に立つ」のかけ声のもと、日本のアカデミズムは衰退するのではないか、・・これが心配なんですね。
何をもって「社会の役に立つ」とするのか、ここはもっと議論すべきだと思います。


「社会に役に立つ」・・これになぜ、私が関心をもつかというと、
タイムリーに「大阪府教育基本条例案」が、大きな話題になっているからなんですね。

私は、従来、橋下知事を支持しているのですが、
あくまでも政策に関する判断をもって是々非々とすべきと考えていて、
●●さんが言っているから支持・・そういう発想はしません。

そこで、今回の条例案の前文

「加速する昨今のグローバル社会に十分対応できる人材育成を実現する教育には、時代の変化への敏感な認識が不可欠である。大阪府の教育は、常に世界の動向を注視しつつ、激化する国際競争力に対応できるものでなければならない。」

う~ん・・これはどうなんだろう・・と 考えておるところです。

TPPの問題もそうですが、いままさに、社会構造が激変する時代ですので、
これを機会に大いに議論をして、(私も含め)国民が地に足のついた自論をもてるような「大人の国家」に
なれたらいいですね。

【2310999】 投稿者: 量的   (ID:gMEgW33mp2w)
投稿日時:2011年 10月 30日 08:24

老眼さんや皆さんの書き込みに触発されて、主に社会目線からちょっと書いてみます。”まくら”で書くと言ったところです。個人目線からの議論はメインではないので、興味の無い方は、全面スルーされてください。例によって、まったりと書いているだけなので、誤字脱字乱文あるかと思いますがご容赦下さい。


【幼児・小学生教育の位置づけ=分化準備】
幼児・小学校低学年教育で、われわれがすべきことがもしあるとすれば、それは将来に備えて、”健全な”準備、さらに説明するなら、分化の準備をするということです。なお、”健全な”とは、肉体の健康を意味するモノではありません。この分化の準備である以上、分化した内容を教えることはメインの目標として必須ではありません。あくまで準備ですから。小学校の教科とは大学の専門分野とは大きく違います。


【指導の基本的な考え(原理)は多層的集団から来る】
人間は、個別指導だけで育てられるべきではない、ということが真実であるとするなら・・・おそらく集団で育てられなければならない・・これが園児・小学生の教育の肝でしょう。

それはなぜか。

それはまず、個人の立場で記述すれば人は集団でこそ育てられ、キャラクタが確立して、生きるべき方向・活かされる方向の明確さを知るわけであり、さまざまな階層の集団において判断された、その個のもつはずの社会的価値(*)を身に感じ、受けて分化を開始します。個人としての生きる方向性・生き甲斐はその瞬間から個人の側から想像されうる。・・・小学生の場合、親が感じ判断するものが大きく、子供が感じる部分との関係は少々込み入っていますが、簡単のために無視します。


次に、教育する立場からは様々な期待が、集団の構成要素(あるいは集団の総意として)対象である個人に対して生まれます。・・その期待を主体別により具体的に書けば、たんに男親の期待だったり、母親の期待だったり、両親の期待であったり、親族の総意であったり、学校の先生の期待であったり、地域の有力者や委員会の期待であったりします。(**)


【指導方針・原理と集団の価値=社会ニーズ】
さて、社会が激動の時代であれば、指導方針・原理はニーズを反映しないモノになりやすい。グローバル化と叫ばれても、何のことだ?と、変化を体感しない、中学校と高校、そして大学の先生がもしも、思えばそれは、教育内容がもとめられているものから大きな乖離を招き、画に描いた餅になる。


それに比べれば、幼児・児童の初等段階の教育ではまだ、ニーズの反映が必要なことはあまり無く、むしろ過剰反応での手のかけすぎに気づかない親が多いことが目下の課題かもしれません。分化の準備だ、ということに気づくことは重要です。



(*)
家族からみた、その子(個)の価値、小集団で見たときのその個(子)の価値

(**)
ある子が高校の時には授業料以上の奨学金を区から得ていたとすると、(つまり日本育英会ではないものです)これは住民票を置くある特別区という集団から、その生徒への期待の意志表示です。

【2311025】 投稿者: 凡才   (ID:F7iZyy3AdLQ)
投稿日時:2011年 10月 30日 09:23

なんか話がよどんでますね様

>「日本は植民地をもたなくてよかった」とか平気で書いてる人のレベルに合わせてるからかな?

 希でPDCAなんて感じたことありませんよ。こどもはトロフィーもらってましたが。

これは、私に対してですか。

昔、一度お話しましたが、私の父は国後の出身です。回りも、どれだけ自分の土地が、二度と行けなくなるかもわか

っています。では、質問いたしますが、 あなたの周りで、植民地の出身の方はいらっしゃいますか。

【2311029】 投稿者: 凡才   (ID:F7iZyy3AdLQ)
投稿日時:2011年 10月 30日 09:26

なんか話がよどんでますね様

>回りも、どれだけ自分の土地が、二度と行けなくなるかもわか っています

すみません、文章を確認しないまま、投稿してしまいました。

父の回りの人も、どれだけ自分の土地に入る事ができない事が辛い事かも、分かっています。

冗談半分に言うのは、やめてください。

【2311035】 投稿者: 凡才   (ID:F7iZyy3AdLQ)
投稿日時:2011年 10月 30日 09:39

なんか話がよどんでますね様

あとひとつ、既に私もこの事は、周りの人達と話をしておりますが、関係者はかなり怒っています。周りの人たち

は、怒りをこらえて生きているのです。国後には、最後にあった郵便局すら、朽ち果てて壊れてしまったそうです。

それを全然関係の無い被害を受けていない人から、ふざけた口調で言われる事こそ、最大の侮辱です。

【2311054】 投稿者: 量的   (ID:gMEgW33mp2w)
投稿日時:2011年 10月 30日 10:07

個人の目線でも、ちょっと書いてみます。


雑文ですので、ご興味ない方はスルーください。
(あまり一般的に参考になるようなことは、ここでは書いてないです。その意味で、偏った見方ととられるかもしれません。)


才能がある、ポテンシャルがあるということと、実際に才能が伸びる、成長するということが話題の入り口になります。これは一見、すべてこどもが背負っているモノのように思うかもしれませんが、必ずしもそうではありません。次に書くように、「できる」と言われることがきっかけになることがあります。


【評価をされることと分化の方向・才能の開花の始まり】
もし、周りに自分よりも勉強ができる子しか、いないとすると、引きづられて伸びる可能性と、逆に目立たないキャラとなってその子は実は出来る子供だったとしても、その集団にいる間では伸びにくい可能性、両方あります。これは、それほど理解も対応も簡単ではありません。


できる子は、明確に担任から君はできる、と言われることが、「学校での学び」が基本的に苦痛でなくなり、伸び始めるきっかけになることが多いですが、マスプロ教育では、集団から評価される生徒は伸びる傾向があり、低評価の生徒は益々集団中央から遅れる傾向になりがちです。学校とはいつも低評価の対処に追われるところです。


ですから、どのような集団に属するかは大変重要です。よく、超進学校に行っている生徒は、良い大学に入る率が高いから、そこにいくことが自己目的化する親子があるように聞きますが、これは少々勘違いでないかと思うのは、同じ才能で、教育内容がほぼ同じと仮定するならば、レベルの低い集団も同じような難関大学におおよそ合格する、というのがわたしの推測です。(ただ、注意深く見ると、入るときに得ている能力・知識は変わることが多々ある、という理解です。いづれ機会があれば議論したいことです)その理由は、自立学習が概ね鍵だからです。大事名には、大学、大学院、あるいはその先ですし。(また、賢者が言うように棺桶に入るまでその人生がよかったか悪かったかなんてわからない。それくらい長期のスパンの見方も必要。)


まれに、ドラゴン桜的受験指導のノウハウを駆使して”無理に”入った人がいたとすると、(そのようにして入学する人の比率は高くないですが)そのひとは、難関大学入学でも自立学習ができてはいないので、もう一段、どこかで脱皮して伸びていかないと、なかなか開花しませんし、社会でも心がけが違うため、全く通用しない恐れがあるでしょう。


【身近の集団のレベルが高くないときの「出来る」とは】
どうしてかというと、できることが揺るぎがないので、精神的に安定でがんばれる、期待に応えることが重荷にならない、自分を信じて成長していける、自立学習に到達しやすい、ためです。応援者、サポーターが常にいることは大きいです。マラソン選手と同じで、火事場での”力”を本番で出すためには、親だけではなく、学校や周りからの期待と「君なら必ずできる」という声援はことのほか重要なのです。


逆に、この集団に属する人の特徴は常に、「井の中の蛙、大海を知らず」になる危険、ということにつきます。世の中にいる、仮に上位0.1%以下のできるひとを頻繁に身近な存在でみてはいないと、周りにいる普通のひとの尺度でしかものを見ていないことがでます。ですから、ほんとに出来る人は才能もつぎ込むエネルギーも半端ではないことが、リアルに体験できないことが多いデス。それと楽観的に見る傾向にあるので、思考するタイプでないと、自分の自己評価の相場感、企画力/戦略思考力が著しく欠落しやすい。都会、地方からの中以下程度の進学公立高校には見られやすい傾向かもしれないです。(わたし自身も、そのような経験しかないので、偏った見方に陥らないよう注意している点です)


【身近の集団のレベルが高いときの「出来る」とは】
超進学校では、まわりにできる子は沢山います。ちょっと失敗すると、できる子でもクラス下位10%なんてこともあり得ます。ですから、うっかりすると、集団の効果で精神的に伸びにくい面があります。例えば、西日暮里の学校の場合にはほぼ全員が最難関を受けて、100番くらいでも合格しますが、周りができるので、勉強キャラで高校生活通せるのは、ほとんどいません。逆に、違う方にそれることで才能が伸びる人もいます。面白いところですが、非常に難しいところなのです。

出来る人をよく見知っているので、少々出来る人を見ても驚きませんし、距離感も直ぐに取れる。これは知的社会で生きる場合にはメリットです。

超進学校出身者では、難関大出身者に公立出身者にない癖が強い人がいるような気がするのは、人数が多いばかりでなく、キャラの存在形態も関わっているのではないか、と感じられます。余談ですが。


【今の中高教育の傾向と新たな視点とは】
アメリカの教育では能力ある生徒には、早習(Acceleration) ・拡充(enrichment) あるいはその混用という概念で対応していますが、「拡充」とは、同じ時間ないでメカニズムや原理まで遡って掘り下げる学習です。日本の進学校では飛び級などを基本さけています。ですが両面あります。例えば、数学などでは一足先に教える早習と、難問も演習する拡充を、生徒の能力に応じて組み合わせています。

「拡充」も、学習時間の長時間かを伴うので、教育学的に動機付けを与えられてともなうことが多いです。(*) わたしは、より現場的にこどもと話しているのは、大学で部活をやりたいなら、その戦術をどう立てていくか、ということがあると、話しています。大学教育では、1-2年の教養課程で一生を決める要素の強い学部学科選択が成績で決められる要素が強いです、そのときに内容は、高校時代の勉強の深化、つまり「拡充」の要素が強い。例えば、教養課程の西洋史・東洋史などの歴史は完全にそうです。

高校時代から少しずつ学校+自分で「拡充」をしていると、歪みがちな大学生活を実り多いモノに組み立てることができる自由度が広がるためです。

大学学部教育、3-4年での専門教育、大学院教育までを、趣味と実益を注意深く値踏みして、ひとりひとり、興味に応じて、様々工夫・チューニングする作業が(もちろん本人がそれをすることが大事ですが)役立つ作業と考えています。

わたし自身は、上記に関連することを、自分の高校1-3年生ころにかなり問いとして強く意識していたことですが、それに曲がりなりに回答をつけられるように思えるのはごく最近です。

【社会からの目線、個人の目線、そしてひとつひとつの決断の重み】
さて、前稿で書いた、社会から目線と個人からの目線、どっちも教育としては必要な目線だろうと思います。
そして個人の選ぶ様々な決断、ルートの持つ、意外に重い意味など、いつもの乱文ですが、注目をしてみました。


(*)
要素としては、コンテスト・報賞制度/大学アドミッションに有利/プラグラム自体の愉しさ(例えば、思いつくところでは、教育と才能・放送大学講義2010第5回講義)など、指摘があります。

【2311061】 投稿者: 無常感   (ID:w3mt3qJpNt2)
投稿日時:2011年 10月 30日 10:18

>【指導方針・原理と集団の価値=社会ニーズ】
>さて、社会が激動の時代であれば、指導方針・原理はニーズを反映しないモノになりやすい。グローバル化と叫ばれても、何のことだ?と、変化を体感しない、中学校と高校、そして大学の先生がもしも、思えばそれは、教育内容がもとめられているものから大きな乖離を招き、画に描いた餅になる。(量的さん)

そこなんですよね。私が橋下知事の主張に・・

>う~ん・・これはどうなんだろう・・と 考えておるところです。

・・と考え中のところは。


しかし現在が通常時ではなく、社会変革のときと考えれば、

「通常時」における評価軸・・これでは足りないのかも とも思うのですね。


黒船来航 →明治維新 の過程で沸騰した「尊王攘夷」ですが、

はっきり言って、これは現実を無視した「暴論」だっただろうし、議論的には「滑稽夢想」ですよね。

じゃあ、「尊王攘夷」に意味は無かったのか?

 あったでしょう。

そういった目線で評価すべきなのだろう、と現時点では感じています。

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