充実した教育環境の日大付属高校
私立中学の価値 2校め
既スレが調子悪いので、とりあえず立てておきました。
無常感さん、
おはようございます。
【2310998】の書き込みは、たった今、
拝見したところですが、当然、そのような論点を頭に置かれているところを感じていました。
【2310999】 社会からの目線
【2311054】 個人からの目線
で、書いて見ようと思ったのは、【2310998】より前の書き込み(の底にある考え)も頭にいれて作ったものです。無常感さんに向け書いたというものでないのでありますが。
お書きになっておられるように「反論」と捉えてはおりません。
わたしとしてはどこまで、平行線議論かは見えませんが、無常感さんとは隔たりのある部分は、当然でるだろうことを自覚していますが。
量的の意見もほんのひとつです。・・・その意味で、本件、議論の仕方について必要な注意深さに「同意見」とも言えますでしょう。わたしの立ち位置から現段階で言えることは、面白がっていただければ、
というところです。
なんか話がよどんでますね様
私は、いつも大事に持っている国後小学校時代の父のさびしそうな姿を見ながら育っています。これは、今の福島の
方々にも、共通している事だと思います。また、地震の被災地についても同じだと思います。もう戻っては来ない昔
の時代、人はそれぞれ人生の重荷を背負って生きています。それを、私が説明してた最後の部分だけを引用し、茶化
すような言い方には、怒りが収まりません。シベリア抑留者の人達への侮辱でもあります。今の世の中は、こんなに
荒んでいるのですか。
>わたしの立ち位置から現段階で言えることは、面白がっていただければ、
というところです。(量的さん)
私も同じです。
僭越ながら、
関心がある部分で、私は、こんな感じだなあ・・と示すだけで、
量的さんと議論を詰めるつもりはないです。
是非、お互いで、面白がりましょう。
>しかし現在が通常時ではなく、社会変革のときと考えれば、
>「通常時」における評価軸・・これでは足りないのかも とも思うのですね。
・・と私が書いたことですが、案外と根本的さんが書いた
>奇しくも昨日、橋本大阪府知事が言っていましたね、「日本に足りないのは、独裁ですよ、独裁!」ってね。まさにその通り。私と同じ考え。こいつは信用できる。「大阪都構想」、頑張ってほしいなあ。(根本的さん)
・・ここに、答えがあるのかもしれません。
同業組合が支配する中世社会を破壊したのは、織田信長 でしたね。
社会変革は一時的には、独裁 が必要なのでは・・もちろん、長期政権を困りますけどね。
社会貢献の目線を、ある意味で、準えると、あだち充の「タッチ」の話の世界ですね。
「和也」という一卵性双生児が確固たる存在としてあれば、「達也」という存在が、才能の花を開かせることがまわりの家族からも、みんなからも期待されない。とすれば、花は開かなかったでしょう。
普通のひとでよいわけで。 (~わたしも普通のひとでよいと思います。期待感がなければ。)
「和也」がいないから、タッチでは大問題でお話が始まる。
ところで、グルーバルなビジネスを見ているひとは「和也」が不在で今、必要と言っているのでしょうね。
まあ、わたしもそう思っています。
量的様
>それに比べれば、幼児・児童の初等段階の教育ではまだ、ニーズの反映が必要なことはあまり無く、むしろ過剰反応での手のかけすぎに気づかない親が多いことが目下の課題かもしれません。分化の準備だ、ということに気づくことは重要です。
「過剰反応での手のかけ過ぎ」=過干渉→他律→自律出来ない
養育者からの強制禁止=他律では、主体性が育まれないのです。
そしてもう一つ、「放置する」という問題・・・子供に関心がない。
この二つだと思うのです。
>家族からみた、その子(個)の価値、小集団で見たときのその個(子)の価値
小学校での「縦割り教育」って↑を具現化していると思うのです。(低学年~高学年の子供がグループになって行動、活動する)
日頃の先生の模範行動を意識し、大人の期待値を感じながら、自らも低学年の子供に対して責任を果たそうとする行動をとります。集団でのルール、責任、大人からの期待、相手からの承認、自己抑制、様々なことを自律的に判断し行動するということを高学年の子供たちに感じとってもらう教育だと思います。若干の緊張状態が、やり遂げた際に大きな感動となるのでしょうね。低学年の子供にとっても安心感、信頼感、将来の目標にも良い影響を与えられると思います。
しかし、この教育の視点は、周りの大人から「個」に向けてのものです。大人、社会の価値観を共有させるだけでは、不十分と考えています。
量的様の視点にプラスして「子供からの視点」からの育みが必要だと感じています。子供達は、遊び相手を通じて自分自身を知ります。
リーダーの子が、遊びのルールを作ると一斉に周りの子供たちは、役割分担をして参加してきます。ルールを守れない子は、非難され、行動を見直します。その行動を視ていた周りの子供たちも自分のことに置き換えて考えます。「思いやり」、「されたら嫌だったこと」、「されたら嬉しかったこと」・・・様々なことを友達から受け、自分の感情と照合し、自分自身を見つめます。友達を通じて自己を認識すると思うのです。我々の子供時代は、人数が多く遊び相手がいなくて困るということはありませんでしたが、現在は、少子化の上に習い事、塾などでこういう経験を積む機会が得られない現状があります。相手の立場になって思考する機会が少ない・・・すなわち、自己を見つめる力も弱いと推察されます。
老眼様の「命」の授業でも申し上げましたが、あるテーマに対して賛成、反対、判定の3つの立場に分かれてそれぞれ意見を交わし、個人がその3つの立場を経験することで相手のを知り、自己を見つめる力を自分自身でつかみ取ってもうらうようなカリキュラムが必要なのかのと思っています。
この部分を育まなければ、例え、学力が高かろうとも相手を思う力、自らを信じる力が弱くては、その後の学び、社会に対する意識が薄くなるように感じています。
とどのつまり、小学校での「自律性」の確立こそ、その後の学びが開花するかのカギになっていると思われます。
このコメを書いているところに量的様の「個人の目線」がアップされておりまして、その前のご意見【2310999】に対するコメです。
>私は、いつも大事に持っている国後小学校時代の父のさびしそうな姿
また、間違えました。
私は、いつも大事に持っている写真を見ている、国後小学校時代の父のさびしそうな姿
です。
仮に、再び戦争を起こせと言われるならば、また、植民地を持てと言われるのであれば、全世界が殺し合いになっ
て、人類が滅亡するでしょう。
本当に、何処かの映画であったような事が、具現化されると思います。






























