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私立中学の価値 2校め

【2043250】
スレッド作成者: ようこそ!書き込み歓迎 (ID:4Xzxz71IPe2)
2011年 03月 02日 23:08

既スレが調子悪いので、とりあえず立てておきました。

【2312084】 投稿者: 老眼   (ID:WoDpkMyugq2)
投稿日時:2011年 10月 31日 13:55

信頼感さん
>小学校での「自律性」の確立こそ、その後の学びが開花するかのカギになっていると思われます。
>相手のを知り、自己を見つめる力を自分自身でつかみ取ってもうらうようなカリキュラムが必要なのかのと思っています。この部分を育まなければ、例え、学力が高かろうとも相手を思う力、自らを信じる力が弱くては、その後の学び、社会に対する意識が薄くなるように感じています。


その「自律性確立」の強い意識と実践が現行初等教育で充分に行われているのかどうか。
わたしも行われていないと判断している立場です。
実践して示すしかないですね。


量的さん
量的さんの、社会目線からの分化準備期間という位置づけ(この表現も)と集団的要素の重要性の根拠は、新鮮な納得感があります。
くちにチャックをして拝読しますと言いながら、早くも約を破ってしまいまして、すみません。

【2312093】 投稿者: 根本的   (ID:feby7YDNQDI)
投稿日時:2011年 10月 31日 14:01

適性さん


>個性とはなにか。私のイメージですが。
>基本的には、「違い」です。
>「人を殺すことが、喜びである」というのも「個性」ですが、「反社会的」なので容認されていません。
>社会で生きる人の社会では、その文化の中での「反社会的」な個性は、単なる非常識な、ちょとおかしな人ということになります。


 「人を殺すことが、喜びである」というのは、「個性」というより「異常」または「病気」ではないでしょうか。「個性」も「異常」も単なる「違い」ではなく、そこに人間の価値判断が加わっている。価値が高いもの、優れたものを「個性」と呼ぶのが普通でしょう。反社会的な「違い」が、「賞賛」されないというのは当然のことでしょうが。
 

>養老さんも言っていたが、芸事の場合、真似しても、真似しても、どうしても、違ってしまう、その部分がほんとの「個性」である。


 これは、そういう場合もあるということに過ぎないと思います。教育の場で、個性を重視する立場を採る場合、もっと間口を広くしないといけないでしょうね。どんな「ちっぽけな」個性が、のちに「ほんとの」個性に育つかは、なかなか事前に予測がつくものではないでしょうから。「非常識」や「ちょっとおかしな人」というのも、「賞賛」しなくてもいいけど、ある程度「容認」しなければ、「ほんとの」個性がみつかる可能性は減少してしまうでしょう。


>『若い人への教育現場において、おまえの個性を伸ばせなんて馬鹿なことはいわない方がいい。それよりも親の気持ちがわかるか、友達の気持ちがわかるか、ホームレスの気持ちがわかるかというふうに話を持っていくほうが、余程まともな教育じゃないか。』 『他人のことがわからなくて、生きられるわけがない。社会というのは共通性の上に成り立っている。』


 まったく賛成できませんね。そもそも、個性教育と「人の気持ちがわかるかどうか」などとはまったく関係ない話だと思います。前から思っておりましたが、陳腐なことを言うひとですね。「共通性」も必要でしょうが「個性」も必要です。日本の教育には、どちらが不足しているのか、というお話ですよ。

【2312144】 投稿者: 根本的   (ID:feby7YDNQDI)
投稿日時:2011年 10月 31日 14:42

無常感さん


>① リベラリズム(ロールズ)
>② リバタリアニズム(ノージック)
>③ コミュニタリアニズム(サンデル)

>あえて答えるなら、私は ①リベラリズムですね。


 そうですよね。これまでの書き込みを注意深く読んでいれば、気づくべきことでした。
 

>リバタリアンというのはかなり極端な思想です。


 そうでしょうか?たしかに日本では極端かも知れませんが、アメリカでは共和党主流派の思想かと思っておりましたが。


 自由主義には2種類ある。弱者の自由に関心を持つのが、リベラル。その点で、コミュニタリアンとも仲良くできる。アメリカの民主党はそんなひとたちのグループでしょう?一方、リバタリアンは、強者の自由に関心を持つ。正義とは、強いものが勝ち、弱いものが負けることだ。不正とは、弱者がズルをして勝つことだ。そんな感じ?日本には殆どいないタイプ。


 竹中平蔵さんですら、「市場原理主義者」と言われるのを嫌っておりましたからね。渡辺喜美さんなんて「小さな政府派」の代表でしょうけど、党名は「みんなの党」なんてつけちゃうんだから。「みんなでやろうぜ」は弱者のスローガンですよ。本来なら、「劇団ひとり」でも見習って「新党ひとり」とでもすべきところです。


>リーマンショック、ユーロ危機・・このような事態が発生しているなかで、① と ② だけでは、あまりにも無力ですね。だから、③ の可能性も模索すべきだと考えます。


 これは、政治経済の状況に対する現実的対応として、社会は、そういう選択をするべき、というお話では?「内発的」なリバタリアンならば、「しばらくは少しおとなしくしておくか、イケイケどんどんの後始末はオバマ民主党にでもやってもらえばいいさ」、くらいのところではないですか?


 

【2312155】 投稿者: 根本的   (ID:feby7YDNQDI)
投稿日時:2011年 10月 31日 15:00

無常感さん


>>これは「個性」というよりも、「個」、「自我」ということかもれませんね。


>要するに、「個」のない「我」というものがありうる。ですから、「個」と「我」は違う、と理解しておりますが。


>ヘンなことを言って、根本的さんを困らせたかもしれませんね・・どうも、すみません。


 いや、全然困っておりませんよ。おもしろいテーマを頂いて喜びこそすれ。


>要は、個人的に・・「個性」という言葉がしっくりきていないのですね。
>ひとり、ひとり、みんな違うよね、・・違っていることがごく自然、
>・・であるのに、「個性を大切する」というのはどういうこと?


 いや、ですからね、単なる「違い」と「個性」は違うということですよ。「個性」という言葉には、なんらかの価値、優れたものという意味が込められているのが普通です。「このスレには個性的な方が多いですね」なんて言われて、激怒するひとはいないでしょう?みなさんまんざらでもないのでは?


>「個性を大切する」ではなくて・・例えば、「違うことを理由に排除しない」
>・・これだったら、意味が分かります。


 ですから、「違うことを理由に排除しない」 ということの主たる目的が、「ほんとの個性」を増やすことなんですよ。「文科省の教育目標」は間違っていません。ただ、方法がなっていないというだけです。


>こんな事を教育目標に掲げる国が他にあるのでしょうか?


 それは知りませんけど。そうだとすれば、それは日本が「個性」をないがしろにしてきたからではないですか?文科省も、さすがに現実だけはわかっているのでしょう。

【2312218】 投稿者: 根本的   (ID:feby7YDNQDI)
投稿日時:2011年 10月 31日 16:14

信頼感さん


>「我性」=「自我」ということでよろしいでしょうか?


 よろしいです。「我性」。「個性」との対比として造語してみました。「自我」は主観的なもの、「個性」は客観的なもの、として。「我」を、「自我」「自己」「私」などにかえても、意味は同じです。


>「自我」の芽生えのない乳児期は、遺伝的要素と母性とのふれあい(環境因子)などで人格の形成がなされていくと思うのですよ。
>だからこそ、自我の芽生えていない乳児期の環境因子が、その後の「自我」、(主体的観念)に影響するわけですよね。


 たしかに、まさにこの「人格」というもの、主観的な自己愛としての「自我」をどうコントロールするかということではないかと思いますが、遺伝的要素だけでなく、乳幼児期の母性の関与が重要だというご指摘、もっともな話だと思います。


>「自我」は、「人格」形成する上での根幹部であり、ここで社会的適切な概念を環境因子によって学ぶ。自我形成前での信頼感、安心感が希薄だと、幼児期の父性を受け入れられず、反社会的行動のトリガーになるってことだと思っています。


 「自我」とは、自分を重要視、特別視したがる一種の情念だと書きましたが、これは「反社会的行動」を引き起こす原因となりうるものであり、極めて危険なものであるけれども、同時に、人間の生存にとっては必須のものでもある。「父性」(社会性の側?)から「外発的」に押さえつけてはならず、とくに乳幼児期は「母性」による「内発的」な成長を見守ることが必要ではないかというお話でしょうか?

【2312273】 投稿者: 適性   (ID:cNLOb07zPPI)
投稿日時:2011年 10月 31日 17:26

■根本的さん

>「非常識」や「ちょっとおかしな人」というのも、「賞賛」しなくてもいいけど、
>ある程度「容認」しなければ、「ほんとの」個性がみつかる可能性は減少してしまうでしょう。

たいがい『十分』容認してるでしょう。単なる「非常識」や「ちょっとおかしな人」も含め。

そう思いませんか?容認しずぎじゃない?(クレーマーとかストーカーとか含め)

養老さんが言いたいのは・・・

ゆとり教育で「個性」「個性」「個性」が大事と言って、その個性は、いったい、どうなったのですか?
ということじゃないですか?。

「個性」を、「自分の思いのまま、振舞うことと、振舞う権利」と勘違いした人(若しくは、自己正当化に利用した人)を多くつくっただけだったのではないのか?ということを、言っているのではないですか。

一般社会の、大多数の人は、本当の個性(社会的価値が凄い)なんてないわけですから、社会というのは、共通性で成り立っているということで、生きているのでしょ。だって、「標準」の人達ですから。
普通の教育は、やはり「標準」をターゲットにするのです。

>「人を殺すことが、喜びである」というのは、「個性」というより「異常」または「病気」
>ではないでしょうか。「個性」も「異常」も単なる「違い」ではなく、そこに人間の価値判断
>が加わっている。価値が高いもの、優れたものを「個性」と呼ぶのが普通でしょう。
>反社会的な「違い」が、「賞賛」されないというのは当然のことでしょうが。

言動や「非常識」や「ちょっとおかしな人」ではあるけれども、
ある程度社会がそれを「容認」したとしても、
それとは別に、その「非常識のライン」とは別に、
人間の価値判断で。価値が高いもの、優れたものを、社会に提供する「個性」があるから。

社会から見て、その「人」に価値があるとなるわけでしょ。相殺して、さらにプラスになる。

反社会的言動の「延長線上」に、そのままの形で、社会的価値が存在するのではなく。(どこまで行っても反社会的でしょ)
それとは別のラインに、
社会的価値を作る「個性」を持っているということです。

反社会的言動の「延長線上」に、社会的価値を提供しているように、見える場合でも、どこかで「方向を転換」をしてるハズですよ。
反社会的言動を通った人ならではの価値ってのも、やはりあって、だから、現在「反社会的」な子供も、可能性があるのですけどね。

※ロックは、反社会的音楽ってことになってますけど、たいして、反社会的でもないですよ。

「人と違うことをしよう」「自分に正直に生きよう」ってのは、単に、人と「違う」だけであって、反社会的「言動」では『ない』でしょ。

人と一緒に行動ができない。興味のあるなしが極端だ。これも、反社会的では『ない』よ
これだって、ある程度「容認」されているでしょ。
これは、普通の学校が、排除してるというよりも、普通の学校では、本人が適応できないのでしょう。
社会適応の問題があるから、その後は、一般社会で、苦労する可能性が高い。
しかし、そういう人から、「作品」などが生まれることは、多々あることは、知ってるよ。
当然、社会的価値がある発想もあることも、知ってるよ。

たぶん、根本的さんは、「そこ」を強調したのだろうけど。

教育的、空間で、そのような人も、「より」受け入れられる、バリエーションは必要だと思うけど。

それから。
頭の中だけでの、「非常識」や「ちょっとおかしな発想」は、完全に、保護されているよ。
そうでしょ。

>教育の場で、個性を重視する立場を採る場合、もっと間口を広くしないといけないでしょうね。

人のしない発想、非常識な発想は、否定しない。発想のリミッターを解除するためにね。
その方が、お宝があるって、広報した方がいいんじゃない。
(それとは、別に、社会との調整可能な範囲を認識してないといけないけどね、そこは、やはり教育が、するとこでしょ。)

「社会で生きる」とは、一定の共通性を、受け入れること。

「新たに発想」とは、共通性や、常識から、離れること。

私は、これは、まったく『別』のことという認識だし。そこは、もっと、今の学校でも、問題なく強調できるでしょう。

例え、社会での「共通性」を受け入れない人間が、「新たな発想」を生みやすいとしても。
(そりゃそうだろう)

社会での教育で、社会での「共通性」を受け入れない(軽んじる)人間を大量生産する教育してもしょうがないと思うよ。

それこそ、もっと、別の発想で、「新たに発想」を生む人を、サポートをした方がいいのではない?

「反社会的である」ことと、「社会適応力が低い」とは、まったく別だと思うけど。
「同じ行動を取りなさい、他人を理解しなさい」に耐えられないが、「才能がある人」をサポートする教育体制とかね。

【2312277】 投稿者: 適性   (ID:cNLOb07zPPI)
投稿日時:2011年 10月 31日 17:29

■「反社会的」行為への「認識」の変化。

小学生の「反社会的行為」なんて、かわいいもんだけど・・・

まあ、私たちの時代では、「うそ」をついたり、「悪いこと」しても、
先生に証拠をつかまれれば、さすがに、観念して「すみません」だったろうが。

しかし

現代では、表情変えずに、「しら」をきり通す子がいるのです。
証拠を突きつけられてもね。
子供っぽくないというか・・けっこうびっくりします。

自分の、悪事を、認めることは、「損」だと思っているのだろうか?。
認めれば、「謝らなければならない」ことが、耐えられないのか?
プライドが高すぎるのか?

など、考えてしまいます。

この場合の「しら」をつき通す子が「守っているもの」は、親でも、友達でもない、自分。だって、目の前の友人を、平然と、嘘つきと主張したらしいからね。

その子は、短期的利益(自分は認めたくない)を選んで、長期的には、友人を裏切り、他人の自分への評価を下げてしまった。

認めれば、その問題は、チャラになる可能性はあったのに。

ある意味「強い」とも言えるが、なぜ、そんな、選択が可能なのか・・・考えてしまった。

今の子は・・・わからん・・なんて思ったが・・・

でも、このスレでも・・
大人でも、無常感さんみたいに、「しら」をきることで、「保身する」のがいる。
昔の自分のコメントを見ても・・・「しら」をきる。

似てますね
先生に証拠を突きつけられても・・・「しら」をきる。

大人も、大人か。

【2312297】 投稿者: 適性   (ID:cNLOb07zPPI)
投稿日時:2011年 10月 31日 17:52

■根本的さん

>「共通性」も必要でしょうが「個性」も必要です。日本の教育には、どちらが不足しているのか、というお話ですよ。

実は、『どっちも』不足してるのではないか?

ってのが、私の意見。

じゃあ、共通性は、ばっちり?違うでしょ。
劣化してると思うけど。

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