充実した教育環境の日大付属高校
私立中学の価値 2校め
既スレが調子悪いので、とりあえず立てておきました。
適性さん
>養老さんが言いたいのは・・・
>ゆとり教育で「個性」「個性」「個性」が大事と言って、その個性は、いったい、どうなったのですか? ということじゃないですか?。
>「個性」を、「自分の思いのまま、振舞うことと、振舞う権利」と勘違いした人(若しくは、自己正当化に利用した人)を多くつくっただけだったのではないのか?ということを、言っているのではないですか。
それって、ゆとり教育のせい?ゆとり教育の「目標」は「個性を大切に」だったかもしれないけど、それはまったく達成されていないわけだから。国、文科省(大学)は、地方自治体(小中高)を振り回して、一応やったことにしただけでしょう。でも、実際に国がやってきたことは、一期校二期校をやめて、共通一次試験にしたり、センター試験にしたりってこと。それが個性教育のわけないでしょう?
>一般社会の、大多数の人は、本当の個性(社会的価値が凄い)なんてないわけですから、社会というのは、共通性で成り立っているということで、生きているのでしょ。だって、「標準」の人達ですから。 普通の教育は、やはり「標準」をターゲットにするのです。
適性さん
適性さんはそうお考えですか。
そのお考えからは,人々の分布の在り様は,標準値のN(数)が最も多い山高裾広がりの分布をイメージします。
ここでの標準値は社会における共通項に相当するものになりましょうか。
学力試験の成績分布にみるような正規分布の形です。
分布形態で表現するとすれば,
わたしはまったく違うイメージを持っています。
縦軸はNで,これは同じです。
横軸は興味の対象となるものが並び,そこには正負の概念はありません。
社会的な共通性は,この分布とは無関係に,串刺し的に横軸と平行に既存しているものを想定します。
問題のNですが,横軸に正負の概念が無いということに関係しますが,
多少の凹凸を示すものの少なくとも正規分布の形態はとらないというものです。
横軸のある一点にだけNが集中せず,興味の示し方にばらつきがあることが個性を意味しているのではないかという考えです。
外部刺激が不十分にしか与えられていない子供たちは,そういう分布をしているのではないかという妄想です。
話は変わりますが,関連で。
小学校低学年までは,この生来のせっかくのばらつきを活かす教育が理想なのではないかと思います。個々の興味の示し方の多様性(=個性)の尊重です。準備段階の時期にそれぞれの個性を基にそれぞれの幹をしっかり作り,分化成熟期に一度や二度失敗してもやり直す踏ん張りをmultipotent stem cellの如く持つことを望みたいと思います。
>一般社会の、大多数の人は、本当の個性(社会的価値が凄い)なんてないわけですから、社会というのは、共通性で成り立っているということで、生きているのでしょ。だって、「標準」の人達ですから。 普通の教育は、やはり「標準」をターゲットにするのです。
適性さん
適性さんはそうお考えですか。
そのお考えからは,人々の分布の在り様は,標準値のN(数)が最も多い山高裾広がりの分布をイメージします。
ここでの標準値は社会における共通項に相当するものになりましょうか。
学力試験の成績分布にみるような正規分布の形です。
分布形態で表現するとすれば,
わたしはまったく違うイメージを持っています。
縦軸はNで,これは同じです。
横軸は興味の対象となるものが並び,そこには正負の概念はありません。
社会的な共通性は,この分布とは無関係に,串刺し的に横軸と平行に既存しているものを想定します。
問題のNですが,横軸に正負の概念が無いということに関係しますが,
多少の凹凸を示すものの少なくとも正規分布の形態はとらないというものです。
横軸のある一点にだけNが集中せず,興味の示し方にばらつきがあることが個性を意味しているのではないかという考えです。
外部刺激が不十分にしか与えられていない子供たち(つまり,子供たちの素の状態) は,そういう分布をしているのではないかと。ここで,外部から強制的な刺激を加えられると,特に学力的な分野では,それがよい刺激となる可能性もある一方で,無理矢理な標準化の方向に向わされてしまうことも起こりうる。
話は変わりますが,関連で。
小学校低学年までは,この生来のせっかくのばらつきを活かす教育が理想なのではないかと思います。個々の興味の示し方の多様性(=個性)の尊重です。準備段階の時期にそれぞれの個性を基にそれぞれの幹をしっかり作り,分化成熟期に一度や二度失敗してもやり直す踏ん張りをmultipotent stem cellの如く持つことを望みたいと思います。
養老さんも言っていたが、芸事の場合、真似しても、真似しても、どうしても、違ってしまう、その部分がほんとの「個性」である。
↑
そのものズバリ。その通りかと。
「粋」という言葉がありますよね。
私はその「粋」の中で色々表現してきたように思います。
「ギリギリのライン」=「常識」と「非常識」の間、、ではない。
「常識を持った上での非常識とも思えるギリギリのライン」
私は個性とはそういうものじゃないかな?って思っております。
ギリギリのラインの見極めは、「正しい表現、正しい手法、正しいノウハウ」などなど。。
それらがわかっていないと「粋」にはなれない。
私はそのように思っています。
「個性を伸ばす」
うちの子の世代は、ゆとり教育がはじまり、まさにこの「個性を伸ばす」という事がさかんにお母さん達の口からも発せられていた時期でした。
私は「個性なんぞ、持ってる者は勝手に伸ばす。親がやらなければいけない事は、枠組にはめる事」
本気でそう考えてうちの子を育てました。
理由は、最初に書いたように「枠」を知らない者は「枠の飛び越え方」がわからないから。
そして、我が子が選んだ道には、必ずその道を徹底的に極めている達人がいる。
その方達は、幾ら周囲から自由奔放に見えようが、その姿は単なるポーズ。
皆、徹底的に努力家でお茶目で素敵な常識的な人達ばかりだから。
その人達から「指導」して貰えない事には、幾らそこに才能や優れた力があったとしても、才能は伸びない。
私はそのように考えております。
「個性」、、子供の中には「暴力的なもの」も含まれる。
幼児の中には、お友達を咬む子って結構いますよね。
また、自分のおもちゃが欲しい時、相手を突き飛ばしても、ひっぱたいてもそれを我がものにしたい子もいる。
それも、個性なのですよ。
そうことをしない子はやりませんから。
しかし、その個性は伸ばせませんよね。
「個性」とは「良い部分が伸びていっている状態」と、一般的には思われているような気がしますから。
でも、、私は「そうではない」と思っています。
「集団の中」に入って、良い悪い全てひっくるめて「特徴的である」ものは全て個性だと捉えています。
だから、まず「枠組み」の中に入れないと「特徴」が見えない気がします。(量的様の考え方と同じです)
もちろん、その「枠組み」は幼児を扱うプロの方達が「ここまでならほとんどの子は出来ますよ」っていう緩やかなものでないといけない。
これは絶対条件だと思いますが。。。。






























