充実した教育環境の日大付属高校
私立中学の価値 2校め
既スレが調子悪いので、とりあえず立てておきました。
>「何のために」そして「誰のために」ここがすごく大切なのでしょうね。
ええ。
毎日のように、信じがたいことを目にします。
とどまることがない。
今朝も、『原発点検書は、電力会社の下書きを写しているだけであることが判明。不具合発生後に訂正。』という趣旨の記事が。
これも
ああ、そうですか。
で終わってしまうのでしょうね。
正しい評価の在り方、フィードバックの仕方
これは、いつ学ぶことになっているのでしょう。
大学?高校?中学?
やっぱり、何か大事な教育がすっぽり抜けていると思う。
芽を育めるのは初等教育のような気がする。
老眼様
>分化成熟期に一度や二度失敗してもやり直す踏ん張りをmultipotent stem cellの如く持つことを望みたいと思います。
「やり直す踏ん張り」....わかります。
「失敗をバネにして....」という言葉を考えると.....。
失敗をバネにする子、バネにできない子の差は何か....と問われたら、「信じるに足る自己」の有無だと思うのです。「信じるに足る自己」の基盤は、信頼感、安心感だと思います。(いっつも同じ話でスミマセン)自ずと、どこへ向かうか、定まりそうな気もします。
もうひとつ、失敗に対する客観的評価が大きすぎる気がしています。「失敗かどうか」は主体的判断でするものだし、主体者が失敗と認めなければ、そもそも他人がどう評価しようとも、それは成功への過程である可能性もあるわけですし。
客観的評価も大切ですが、そればっかりになっちゃうと客観的枠の中で思考停止し主体性という意識が希薄化することも事実だと思います。
「枠」は必要だと思うけれど、超えるかどうかは、個人の自由。この「自由」に対して誉れのような感覚を民族として共有できるとイイなと思っています。
地域・時代さんへ
「どくとるマンボウ青春記」よろしければ感想などお書きください。私も久しぶりに引っ張り出して読みました。勘違いして紹介した部分もありますが全体としては記憶どおりでした。
河原で虫取りしながら高校生を横目で見るあたりから当時の旧制高校生の雰囲気が伝わってきます。今の学生もああいう贅沢な時間を持ってから専門に進めばいいのですが進振りなどでいい点数を取らないと希望の学科に進めないようで可哀そうです。
個性尊重という意味では旧制高校ぐらいそれが認められたところもなかったようです。芯のある面白い人物沢山輩出しています。(まあ・・・・帝国大学に進むことがある意味保障されていた境遇ではありますが)
シルバースプーンさん
>「よもや」はないでしょう、「よもや」は!
>そんなに根本的さんと対立してきましたっけ?
そう言えば、同意してもらったことも結構あったような気もします。でも、どうも私は、対立したことばかり記憶に残ってしまうタイプのようなんですよ。「敬慕」? 本当かなあ。でも、信じておきますよ。
信頼感さん
こんにちは
>失敗をバネにする子、バネにできない子の差は何か....と問われたら、「信じるに足る自己」の有無だと思うのです。「信じるに足る自己」の基盤は、信頼感、安心感だと思います。
主体性を持ってやりきったかどうか、というのもあるかもしれないですね。
ところで、
失敗をバネに前に進もうとする子供たちの頑張りが、きちんと活きるような世の中じゃないと、
基盤となる信頼感も安心感も、やがて消滅してしまうかもしれないですね。
>いっつも同じ話でスミマセン
大事と思うから繰り返す。
わたしもいつも同じことしか書いてません。
誰もがそうです。
>自ずと、どこへ向かうか、定まりそうな気もします。
個々人においてはそうなのですが、
世の中は定まりそうもありませんね。
これでいいんでしょうか。
>もうひとつ、失敗に対する客観的評価が大きすぎる気がしています。「失敗かどうか」は主体的判断でするものだし、主体者が失敗と認めなければ、そもそも他人がどう評価しようとも、それは成功への過程である可能性もあるわけですし。
同感です。
だから、要らん評価が多すぎはしませんか、と書きました。
>客観的評価も大切ですが、そればっかりになっちゃうと客観的枠の中で思考停止し主体性という意識が希薄化することも事実だと思います。
これも同感です。
何かをとことんやる場合、周りを気にする暇はないですよね。
没頭するわけですから。
幼少時の没頭は大事ですね。
周りを気にするのは大きくなってからでいいと思います。
大きくなってからは充分に気にすることをしなければならない。
中途半端な没頭の経験しかないと、気配りも中途半端になるという考えは変ですか?
>「枠」は必要だと思うけれど、超えるかどうかは、個人の自由。この「自由」に対して誉れのような感覚を民族として共有できるとイイなと思っています。
「誉れのような感覚を民族として共有」には憧れます。
その誉れを責任ある立場の大人が容赦なく壊し続けていることをみんなで黙認していることを、
子供たちは見て育っているわけです。
だから、憧れるしかない。
同感です。
老眼様
>だから、要らん評価が多すぎはしませんか、と書きました。
そういうことですか....ちゃんと理解が追いついていませんでした...スミマセン。
>中途半端な没頭の経験しかないと、気配りも中途半端になるという考えは変ですか?
「気配り」...中途半端さ故に精進過程での誤解、偏見、配慮不足など客観的にあるでしょうし、解像度が荒ければ、見えるものも見えないでしょうし...
故に「気配り」も解像度なりにかできませんよね。(本人は感じていないでしょうけど)
人への「気配り」であれば、なんといっても友人関係ですかね。
「親はなくと子は育つ」と申します....確かに親に代わる養育者が愛情を注げば、親は絶対必要条件となりません。しかし、「友がなければ人と成らず」とは、あり得ると思っています。友があるから自身を見つめることができるわけですから。(オオカミ少女の話からもそう感じています)
友は自身を写す鏡であり、コミュニケーションから得られる感情の起伏を味わうからこそ「思いやり」、「気配り」という気持ちが生まれるのだと思っています。
ですから、中途半端なコミュニケーションから、上っ面の気配りしか体得できないと思われ、老眼様のご意見の通りだと感じました。
そして、「没頭する対象」も「友」同様、自身を写す鏡となるものだと気づきました。
何かに没頭するということは、それを媒介にして自身を見つめることを意味するのかもしれません。
>世の中は定まりそうもありませんね。 これでいいんでしょうか。
>その誉れを責任ある立場の大人が容赦なく壊し続けていることをみんなで黙認していることを、 子供たちは見て育っているわけです。 だから、憧れるしかない。
老眼様の嘆きには、共感します。
責任ある立場の大人が、無責任な行動をとり続け、それを黙認していることに関して、国民ひとりひとりに云えることだと思っています。国家、社会、政治....難しいことはよくわかりませんが、一人一人の集合体がしでかしているわけで、個々人の小さな判断は、そこに存在します...責任ある立場の大人を今更、説得するよりは、これから責任ある立場になる子供たちをしっかり育むことが先決だと思いますし、私には他に思い浮かびません。
私の「個性」の定義、ちょっと一面的だったかもしれません。
「個体差」ですから、一種類の性質の「違い」だけではなく、何種類かの性質の、ある個体における存在の仕方あるいは分布状況のようなものとする見方もありえますね。もしかしたら、信頼感さんの「人格」という言葉には、そういう意味もあったのでしょうか?
たとえば、数学はできるが社会はダメとか、英語は好きだが国語は嫌いとか、物理は天才だが漬物は下手とか。これだと、優劣をつけることには意味のない単なる「違い」ということになりそうですね。こういう各種の性質の組み合わせの「違い」を「個性」とみなすことにも、違和感はありません。
根本的さんは「共通性」なんて、と嫌うけど・・
私は「共通性」は『なんでも』同じ行動しろとか、同じ考えにしろ、ってわけじゃないよ。
そんなの無理だし。
だって、人は、生まれながら、個体差があって、反応パターンも、いろいろ。
でも、「その社会が成立するために必要な」最低限必要な「共通性」ってのがある。
それは、社会の一員である限り、重要である。
「共通性」はロボットのように、個体差を無くすことではない。(それは無理。)
「個性的」な人がたとえ「多く」いても「その社会が成立するために必要な」最低限必要な「共通性」が確保されればいい。成り立つ。
「ロボット人間」を多くして、「共通性」を確保するわけじゃない。(ロボットでは共通の意味がないけど)
人間は、もともと、個体差があるし、学習することで、社会を認知するから、教育として、「その社会が成立するために必要な」最低限必要な「共通性」が必要なんでしょ。
根本的さんは・・
>ストーカーやスルーは、それ自体が個性じゃないだろうけど、そういう変わった人には、
>別のところにおもしろい「本当の個性」があったりするわけで、だから、私なんかは大概
>「容認」しているんですけどね。でも、やっぱり「賞賛」はしませんよね。
「個性的」な人かもしれないから・・「その社会が成立するために必要な」最低限必要な「共通性」を無視してもお咎め「なし」でどう?
ってことだろうが・・・・・お咎め「あり」でいいんじゃない?そんなことで、個性がダメになるとも思えない。
それに、現実的に、自分が直接ストカーや、クレーマーに対応しても、面白いから「容認」するほど、根本的さんも心がひろいわけでもないでしょ。(広かったら、ごめんね。)
最低限必要な「共通性」を無視する人は、「すでに」、ある意味、個性的だろうしね。
「個性的」であることを、最低限必要な「共通性」を無視する『免罪符』にしては、私はだめだと思う。
その『免罪符』を、日本の教育に組み込まないで欲しいね。(すでに、免罪符にしてる人もいるけど)
>個性教育と「人の気持ちがわかるかどうか」などとはまったく関係ない話だと思います。
を強調する。個性教育「一本やり」はどうかなー。
たいがいの、社会で有益な「個性的」人は、最低限必要な「共通性」を「常」に無視していないハズだけどね。(過去や、裏で、過ちがあるかもしれないけど)
じゃあ、最低限必要な「共通性」ってなんだよ。ってことになるけど。
ほんとは、法律の問題でもない。規則でもない。
校則のない自由な校風ってシルバースプーンさんが言っていたけど。
>「自制の効いた掲示板」が理想だと思いますよ、
>ネット上のコミュニケーションの場として。
>校則のない自由な校風が理想なのと同じで。
『各自』が、自分の発言や行動が、どこに、誰に、どう影響するのかしないのか、迷惑がかかるのか、責任はとれるのか・・・ということを「考えろ」それが、『各自』の見えない最低限必要な「共通性」ということでしょ。
でも、それは「社会や他人を理解しようとしない」「他人の痛みに興味のない」個性には、無理な話でしょ。
(何度も書くけど、虫に、興味を持つ個性や、本に夢中になる個性や、絵に夢中になる個性とは、まったく関係ないと思う)
たぶん『自律性』の問題だからね。
校則のない学校も、もし、学校が、どんどん荒れて、制御がきかなくなったら、やっぱり『校則』作るだろうね。『校則』破ったら停学、退学ってね。
この震災で、海外から、賞賛されたのは、日本人の『自律性』でしょ。法律に従ったわけではない。
「社会や他人を理解して」「他人の痛みにわかる」この教育したからって、個性を潰すことになるのかなあ?(現実に、理解できない、わからないってこととは別だよ。そういう子もいるだろうし。)






























