アートの才能を伸ばす女子教育
私立中学の価値 2校め
既スレが調子悪いので、とりあえず立てておきました。
根本的様
「性質」って遺伝的要素という意味合いで使っています。「能力」という言葉も訓練の限度を超えた部分を意味して使うようにしていて....遺伝的要素の意味合いで使っています。「性質」、「訓練外の能力」は遺伝因子の影響大ととらえていて、「人格」とは、遺伝因子+環境因子で形成される部分と自分の中で定義しています。
根本的様の「個性」の解釈は、核心部分を端的にとらえた説明でしたので何の違和感もありませんでした。
ただ、実際の人間は、複雑に入組んでいるわけで.....
>たとえば、数学はできるが社会はダメとか、英語は好きだが国語は嫌いとか、物理は天才だが漬物は下手とか。これだと、優劣をつけることには意味のない単なる「違い」ということになりそうですね。こういう各種の性質の組み合わせの「違い」を「個性」とみなすことにも、違和感はありません。
という説明はとてもわかりやすいと思いました。
私は「個性教育」はいいけど、「個性」を身につけさせたいから、子どもを、とにかく「自由」にさせるというのはどうにも短絡的な感じがしてしまう。
『学校教育』として『最優先』に・・・
あなたの個性がある・・、
あなたの好きに・・、
好きなだけ・・、
したいことをしなさい・・。
だーれも、じゃましなわよ・・
で、その後、「ほっておけば」個性的(社会で評価される)な子ができました。
となればいいが・・
たぶん「現状」では、とんでもなく(言葉をそのまま受け取って)我侭になるか・・・何もできずに固まるか・・・・
(一人ですることが好きな子は、本よんだり、絵を描いたりするのだろうけど。)
(集団でなにかするなら、ルールは発生するしね)
結局は、放課後の遊びの時間に、数人があつまって、だらだらした状態に似たものになるのではないかな。
それを、「学校の教育」とするのか?ということです。
家に帰って、好きなことすれば・・・と、どう違うのか?遊びとどう違うのか?
遊びは、だれでもしますからね。
好きなことをする「幼児」教育は、たぶん、そのフォロー(その子の興味の引きそうなもの、継続的に、必要な時に、上手に用意)しているのだろうと思います。たくさんの知育玩具も用意されたり。
そこで、没頭することが可能になっているわけです。没頭するとは、集中力ですよね。
それは、大切なことです。当然、意欲につながりますからね。
そうであるなら・・
さて、小学校、中学校で、どのようなフォローが可能なんでしょうか。
発想としては、その延長なんでしょうが。
以前書いた『守・破・離』のことを書いたのは、基本、芸事だけど。
一般的教育でも・・やはり順番としては。
個性の「核」は、やはり「守」で、その子なりの、「人としての常識とか、マナーとか、正義とか、基本知識とか基本技術」なんだと思う。それは、オリジナリティーは関係ない。
「躾」の部分。身を美しくだから・・・いろんな意味あいがあるでしょけど。
その「核」なしに、オリジナリティーや、奇抜さだけ、その場で褒め称えても、そんなに、もたない。
「核」なしで、個性、個性と周囲から強調されれば、そこは、簡単なとこは、外見であったり、反●●であったりとなるのは、必然なのではないのかなと私は思っている。
「守」は「核」で「枠」。そんなもの、「面白い」「わくわく」教育になりにくいでしょうね。
(そこにも、興味深い部分があるのだけど・・それは、レベルが上がってからでしょうね)
そこがない、ものは、「永続性」に疑問符がつく。
繰り返しに、耐えられるのが、素晴らしい芸術とか、古典とかなんだろうと、なんとなく思うが、それは、「枠」がしっかりしてるからだと思う。人でも、しっかり枠がある人は信頼されるでしょうし。
生まれた時から、個性の芽である、好き嫌いや、反応パターンがある。
そこを、上手に小さい時は、刺激し。
でも、徐々に、社会性育て、躾をする。を教育に、差し込む必要を私は、感じるね。
社会で意味があるという個性ってのは、だいたい、枠(ジャンル)が、けっこう、しっかりしてないかな?
信頼感さん
>これから責任ある立場になる子供たちをしっかり育むことが先決だ
ええ、そう思います。強くそう思います。
ですが、では、
自立・自律、 個性、
これらをしっかり育めば目標に達するのか?
NOです。
個人個人においては、ともあれ、
社会の一員という立場において、充分条件を満たしません。
現実社会に提示されている具体的諸問題を直視し、
三者の立場での議論の経験(信頼感のご指摘)等を通して、
根拠のある理由づけをしながら答えのない答えを模索する、
そういうことも必要なのではないか。
すでに、各地の小学校では、3.11後に、それに近いことが自然発生的に生まれています。
現実的課題を題材に個々人で考えを深めたり、議論したり、が活発に行われているという、うれしいニュースを時折目にします。
特に興味を引くのは、
小学生がかなり詳しくいろいろなことを調べて知識として身につけていること、
さらに大人が赤面するほど真っ当な考えを、累々と述べることができること、です。
では、そういう子供たちの実直な気持ちや行動を、支えて伸ばしてやろうとする社会側の受け皿があるかというと、
残念ながら、NOではないでしょうか。
ここが、大きな壁であると思います。
それを指導する体制も整っていないでしょうし、評価する術も整っていない。
自然発生的に生じている個々の考察や議論は逞しく感じられるものですが、
正規の授業としての系統的な教育として行う必要性(信頼感さんご指摘)に強く賛同します。
もちろん、内容は3.11に特化するものではありません。
小学生新聞で紹介されているような具体的なテーマは山ほどあります。
そういうことを教育されても受験対策の邪魔になるだけかもしれませんから、
現行制度下においては、到底受け入れられるものではないのが実情でしょう。
この壁を取っ払うには、桶屋の話的に、やはり東大がキモなのでしょう。
今般の入試制度改革はそこも意識したものになることを個人的には期待しています。
>個性の「核」は、やはり「守」で、その子なりの、「人としての常識とか、マナーとか、正義とか、基本知識とか基本技術」なんだと思う。それは、オリジナリティーは関係ない。
こういう面も大切です。ただ、本能的な人格とぶつかり合ってしまうことが多々あると思うのです。
常識、マナー、正義...社会的に適切な態度を遵守しようとする人格と食欲、性欲、独占欲...etcという欲を主張する人格との間に生ずる矛盾をどう棲み分けさせるのか.....。
社会的に適切な態度を「核」とすれば、欲を重視する人格との対立構造になりストレスを内在し、コンプレックスになります。欲を「核」すれば、反社会的行動を許容する方向に向かうと思われます。
どちらが「核」でも解決できない問題を内在します。だからこそ、両者を受け入れる意外に先に進むことはできないと考えています。(簡単にできる訳もありませんけど)
じゃ、どうやって具現化するのかと問われると...具体策などないのですが。
>「枠」がしっかりしてるからだと思う。人でも、しっかり枠がある人は信頼されるでしょうし。
もし、社会的に適切な態度という「枠」をしっかり持ち、それ故に信頼されている人がいるとしたら(ビジネス以外で)その方は、方便を使っているか、2つの異なる人格を尊重しているかのどちらかだと思います。
シルバースプーン様の仰るように何事にも適切な時期があります。躾に関しても、最初の躾に問題があると小学生になってからもいろいろな躾をしなければならなくなります。
しかし、そもそも最初の躾の段階で父性を拒んだ子供たちは、小学生に成っても拒み続けます。父性を連続して行えば、それは強制禁止であり、我慢して受け入れることはあっても理解することはないと思います。
根本的さん
>単なる「違い」と「個性」は違うということですよ。
>「個性」という言葉には、なんらかの価値、優れたものという意味が込められているのが普通です。
「個性」という言葉には解釈の幅があって、日本では「優れたもの」を解釈することが多いらしいのですが、
私は別に「優れたもの」に限定されるものでもないと思うのですね。
「優れたもの」と限定すると、ちまたで議論になっているように、じゃあ・・「障害は個性か?」という
問いが出てきて当然なんだろうと思います。
まあ、そんなことは、・・
この場で、言葉をどう解釈して議論するかという単なる「決め」の問題に過ぎず、
ここで「個性とは何か?」などと形而上学をやっても仕方ないので、
とりあえず「個性」=「優れたもの」という前提で書きますが・・
ざっと思い浮かぶ論点が2つあるのですね。
① 個性として「優れたもの」とジャッジメント(評価)するのは誰か
②「優れたもの」の解釈に幅があることも、「個性」ではないのか
・・このあたりの根本的さんのご意見は、いかがでしょうか。
>>リバタリアンというのはかなり極端な思想です。(無常感)
>そうでしょうか?たしかに日本では極端かも知れませんが、アメリカでは共和党主流派の思想かと思っておりましたが。(根本的さん)
根本的さんのおっしゃっている「リバタリアニズム」は、「ネオリベラリズム」ですね。
経済学的には、
古典派【功利主義】 → ケインズ経済学【リベラリズム】 → 新古典派総合【ネオリベラリズム】→ ?
という感じです。
民主党オバマはかなり苦戦していますね。
おっしゃるとおり、単なる「リベラリズム」では克服できません。
しかし、同様に「ネオリベラリズム」に戻るのもどうか・・
具体的にどういうこと? さん
>30年以上前の話ですが、私が小学校5年生のとき、夏休みの自由研究で「心霊写真」の研究発表した友達がいました。神社やお墓で撮った写真を模造紙に張り付けて、"ここに霊が見えます"なんてインチキな発表をしてました。クラスは大うけでした。このインチキ自由研究対して担任の先生も笑って見てるだけで、特にお咎めはありませんでした。 これは、個性を伸ばす教育ですか? 私は単純に先生が大らかだっただけだと思います。
この話はおもしろいのですが、
この先生がどういうつもりだったのか分かりませんが、
要は「さばき方」次第ではないかと。
Aさん、Bさん、Cさん・・に同じものが視界に入っていたら、
Aさん、Bさん、Cさん・・に同じものが見えるのだろうか?
私は、同じものは見えないと思うですね。
たとえば、①一般の方、②バードウォッチャーの方、・・ ① と ② の方が同じ森を見ます。
②の方には鳥は見えますが、①の方には見えません・・「鳥はいない」に等しい。
なぜ、そんな差が出るのかというと、①の方 と ②の方 では問題意識が違うからです。
それが「個性」というものではないか、それを教えてあげればいいのではないか・・と個人的に思います。
物体でさえそうなのだから、概念語なんてさらそうですよね。
現に、このスレをご覧のとおり、「個性」という言葉の解釈について「個性的」に百家争鳴です。
>そうだ。「反社会的行為」の原因となりうるのは、「違い」だけではありませんね。「共通性」だってなりうる。「標準」のひとたちが「共通性」をもってやっていることが、「反社会的」になることだってあるでしょう。その意味でも、「違い」の部分を適切に維持することが、社会にとって重要な意味を持つのではないでしょうか。 (根本的さん)
そうそう・・これはとても正しいと思います。
子どもが見る番組で・・ゴレンジャーあたりからですかね。
正義の味方5名が、よってたかって1匹の怪獣をやっつけるわけですね。
ヒーローが孤独に耐え、ひとり戦うメンタリティを支持するものからすると、
卑怯、独善的に見えるわけですね・・とても、カッコ悪い。
>「標準」のひとたちが「共通性」をもってやっていることが、
>「反社会的」になることだってあるでしょう。
端的に 「いじめ」 の問題がそうですね。






























