アートの才能を伸ばす女子教育
私立中学の価値 2校め
既スレが調子悪いので、とりあえず立てておきました。
老眼様
早々のお返事、嬉しいです。
>言わば試験官と受験生の関係ですが、お互い自律性抜群のプロ同士。
しかしそこには厳然とした試す側と試される側、がありました。
これを上下関係とは言わないと思いますが、意味合いとしては同じかと。
この情景を視ていないので正確なところを共有しきれていないのですが、私的には、「申し送り」の意味合いかなって感じました。あくまで対等でありつつ.....でもでも、もう一度思考してみます。
輪廻転生の話....輪廻の概念として「過去」「現在」「未来」においての因果律が、差別を作り上げているように感じたのです。
その差別は、自律性に起因しているのかなって...主体的判断の優劣を基準にするなら、自律性の差を好むのかなって....こちらも再思考してみます。
老眼様とのお話は、深淵で考えさせられ毎度勉強になります。未来様や地域、時代様同様、最近、少し寂しく感じておりました。これからも宜しくお願いいたします。
地域、時代様
>私は、失敗は成功のもと、って本気で思っています。
同感です!ずっとそう思っています。
>その人の人間味に繋がるように感じる事もあるのが面白い所で。
なるほど、、深いですね。
多分、「失敗」だなんて本心では感じていないのでしょうね。それでイイと思いおますし。
>心のどこかで「自分だって、そうだろう」と、己を反省する事が多いです。
で、また子供は子供なりに、冷静に見ていると、ほんのちょっとづつ、進歩してたりするんですよね。
仰る通り、我が身を振り返ると、言えた義理じゃないんですよね。
ちょっと話が変わりますが、以前、根本的様と「個」の話をしていて、、それを未だに考えているんですけどね...。
ユングも云っていますが、個=自我=我って他人を通して感じ取った己ということだと思うのです。つまり他人から自分はこう視られているだろうという思い込みによる実態だと思うのです。物理的に「個」という転べば骨折するような我はあるにせよ、その「我」の本質は、他人を通して獲得した空虚な仮想でもあるように感じています。先日お話した「心」の様に外的要因でころころ変わる「心」をよりどころにする「我」とは、極めて世俗的で常に他人との比較(相対性)によって実態を把握する手続きが必要なのだと感じています。しかし、そこには、魂の叫びのように外的要因から影響を受けない部分もあり、それこそが、「個」なのかなって....でもその存在をはっきり自己が把握することって、きっと出来ないのかなって思う次第です。
まとまりのない話でスミマセン。
信頼感さん
お父様ご冥福お祈りします。
私も父が亡くなってなんだかぽっかり心に穴があいたようになりました。
今は、話したくなったらお線香をあげています。
難しい人でしたが、やはり親ですから。
信頼感さんのお父様はお優しい方だったのでしょうね。
老眼さんとのやりとりいろいろ考えながら読ませていただいています。
>個=自我=我って他人を通して感じ取った己ということだと思うのです。つまり他人から自分はこう視られているだろうという思い込みによる実態だと思うのです。
信頼感さんがこのように書かれていますが、
ここのところ、自分のことしかわからないのですが、
他人からみて自分はこう見られているということを意識した我っていうのは
まったく考えていませんでした。
確かに思春期のころは他人からの視線などは意識していましたが、
他の方のことはわからないのですが、通常皆さんは
自我に対してこのように比較で考えるものなのでしょうか。
私にとっての自我は、どろどろしたものも含め弱さも愚かさも含めた
すべてトータルで自分というところから生まれてくるものだと
感じています。そこには自分の国のアイディンティティもこみで。
>私にとっての自我は、どろどろしたものも含め弱さも愚かさも含めた
>すべてトータルで自分というところから生まれてくるものだと
>感じています。
私もそう思います。
でも、そこを意識していない人もいるのかもしれません。
目を背けることも錯覚することも自在でしょうから。
他人の視線はやはり気になります。
人からこう見られたいとか、人との比較というものとは違うのですが。
他人の視線を気にならない境地に達したいです。
でも、人への思いやりと反比例するようなところがあると思うんですよね。
コントロールが難しい。
ただ、気にしているようでは、たぶん何も成せないのだろうなと思います。
>他人から自分はこう視られているだろうという思い込みによる実態だと思うのです。
>自我に対してこのように比較で考えるものなのでしょうか。
>気にしているようでは、たぶん何も成せないのだろうなと思います。
生命に神経系と免疫系というものが生まれ発達してきたわけを想像すると、反応することがむしろ自然のように思います。
非自己の数と非自己から与えられる刺激の数が日常あまりにも多過ぎてその反応をいちいち意識できる暇がないこと、
ほとんどの反応は皮質を介さないところで処理されていること、
そして意識することをあえてブロックする機能も有していること等から、
反応することは自然なことだけれども無意識下に行われることが圧倒的に多いということだと思います。
しかし、その中にあって、明らかに「気にする」ということもたびたび経験するのは確かです。
気にする場合、それは自己にとって特別なこと。
気になる対象自体を考察するとド壺にはまり、気にする理由や背景を考察すると一歩進むことができるような気がします。
その時、何を考えるか・・だと思います。
未来様
通常皆さんは 自我に対してこのように比較で考えるものなのでしょうか。
↑
私の場合これは、強烈に意識しますね。
私の場合は、個体としてもオリエンタル集団の中では異質感がありますので、初対面の人と出会うと、まずこの話題を相手から振られる。逃げる事が出来ない身体的個性に物ごころついた頃から振りまわされてきている。
ただ、私の場合自分の中で「みんなとの比較」「みなを羨ましがる事」をやめた時から、心が軽くなりました。
恩師にそれを教えて貰った時から、心が軽くなりました。
なので私は信頼感様のおっしゃる
「個=自我=我って他人を通して感じ取った己ということだと思うのです」
↑
私の場合は意識したくなくても、人から意識させられてしまうので、ものすごく良くわかります。
人は私を「強い」と評します。
それに反論するのもめんどくさいので、私もそういった自分を「演じる」。
結果間の空いた人達からはそう思われていると感じます。
しかし、一歩踏み込んだ親しい人間関係になれば、自分が思う「己」と、他者からの「私」に乖離がナイ。
「弱い」「くそ真面目」(笑)と。
結果、この人間関係に救われて、助けられて日々過ごしている気がします。
「わかってもらっている」
この部分にものすごく安心するのです。






























