充実した教育環境の日大付属高校
私立中学の価値 2校め
既スレが調子悪いので、とりあえず立てておきました。
動機が大事だよね 様
昔は、失う物は無く、右肩上がりでした。
今は右肩下がりですし、失敗すると立ち直りが大変です。
親も私学に入れてくれるくらいの財力はあるので、どうしても守りの姿勢になる人が多いです。
無常感様
>子どもたちの世界だけは出自(経済力)の問題で、受ける学校教育に差が出ることがすごくイヤなのですね。
その通りだと思います。子供達も、自分が受ける教育の差を早くから体感させられてますね。
戦前に戻った様です。また「階級闘争」の時代が来るかもしれません。
適性さま、
適性さんのカバーされている範囲がとても広く、しかもそれにもかかわらずその読込み・読解が上滑っていない。機微を巡る部分の読解力・観察力は余人に代え難いと思ってます。・・前に書きましたが、「船に乗れ」などは、どうしてこのようなものを見つけられてタイムリーに提案できるのか、興味がありました。(今回もいちいちうなずいて拝見しております。)
喬太郎師匠を選ばれたところ、仰る通り、大変に共感ができています。
古典と新作を極めて戦略的にされているところ、今後1番将来が期待される落語家さんと思っています。
「午後の保健室」・・・そうですね。これもマクラが秀逸ですね。
立川流の落語家さん方は「後がない」的な緊迫感の中で、マクラから客に強く働きかけて作込みをしていくアプローチを工夫する。狭量も土台にある。家元談志さんのある意味で、教育之スレー無ですね。その部分がしたがって型に嵌っています。柳家はむしろ本寸法の本編の落語に、自由でオリジナルなマクラ。無くてもいいということもありえる。
喬太郎師匠は、客層、落語の組み立ての状況、その場の客席の様子、など場面にきめ細かく応じて、おかしさ、面白さをダイナミックに増して、話に入っていくようにもされます。このあたりは、五代目柳家小さんの家の落語のマクラの基本かその線だということで、その進化形の小三治師匠、また本寸法のさん喬師匠の一番弟子の喬太郎師匠と極めて近いモノを感じます。その表現の仕方は、他に誰もできない、大変工夫がこらされたモノですね。時代のセンスをかぎ取るアンテナの高い喬太郎師匠ならではの芸ですね。<吾妻橋の当たりで飲むとさん喬師匠の最近のお話など、店のおやじさんから聞くことがありますが、さん喬師匠や海老一の師匠に剣道の稽古をして頂いたことが昔懐かしいです。>
さて、書かれた戦隊モノでは、ガオレンジャーなどを見た記憶では、確かに仰るように、白波五人男な、お決まりの作り込みがありますが、動と静、具体的な場面では大きな流れにストップモーションを掛けるなどハイライトするところがありますね。ある意味、北斎の神奈川の波濤のダイナミズムを切田しようなセンスとか、フェルメールの真珠の耳飾りの少女とか、モネの日傘の女とか、ドガの踊り子などの「静」の中の「動」、「動」の中の「静」というところ。その要素も喬太郎さんは、芸の中に消化して取り入れていると思います。
佐渡裕さん、松本人志さんが、偶々、枝雀落語の「表現」を暗に取り入れられていることをそれぞれの番組で暗示をされてました。枝雀師匠は、瞬時の静止画までも研ぎ澄ましてしかも前端のつなぎコミもなめらかにするというような別時限の芸をもっておられたですが、喬太郎さんの表現と間の取り方には、アプローチ、突き詰め方違う形ながら、そのような要素による幅が感じられますね。
「見栄を切る」のも、考えると、本来ダイナミックな動きを止める作用。そして静止画像的な時間の流れで、動的なバランスを強調して、瞬時のバランスのおかしみをも、同時に表現する効果などがあります。さらに、そういうところは、適性さんが仰るように、現実離れしていますが、それがまたさらにコミカルな味も出してこれる要素になる。それを採用していますね。(喬太郎さんのマクラ・落語では「顔芸」の要素も、「間」とともにいれながら作られていますね。
このような表現は、日本の芸術が長けてはいるものの、19世紀フランスの絵画や音楽でゴッホやモネ、あるいはドビュッシーの取り入れたジャポニズムとして取り入れられた部分は言うに及ばず、グローバルスタンダードとしての価値を大分前から認識されていると思います。
その仕組みで戦うなら、という前提の話があるわけですが、知的社会で働くには、概ねそのような作り込みは、普通である。、
「キャラ」の上で必要なので、積上げ部分が必然的に大きくなるわけですね。「アメリカンカジュアルで日本人が生きたらおかしくないか??」というキャラ立ちの部分。この部分は、中高校生の意識がないところでしょうか。・・適性さんの書かれた、教育絡みの部分、わたしももう少し、その線で考えて改めたいと思います。(続きます)
適性さま、
適性さんのカバーされている範囲がとても広く、しかもそれにもかかわらずその読込み・読解が上滑っていない。機微を巡る部分の読解力・観察力は余人に代え難いと思ってます。・・前に書きましたが、「船に乗れ」などは、どうしてこのようなものを見つけられてタイムリーに提案できるのか、興味がありました。(今回もいちいちうなずいて拝見しております。)
喬太郎師匠を選ばれたところ、仰る通り、大変に共感ができています。
古典と新作を極めて戦略的にされているところ、今後1番将来が期待される落語家さんと思っています。
「午後の保健室」・・・そうですね。これもマクラが秀逸ですね。
立川流の落語家さん方は「後がない」的な緊迫感の中で、マクラから客に強く働きかけて作込みをしていくアプローチを工夫する。教養も土台にある。家元談志さんのある意味で、教育のフレームですね。そのため、その部分があることについては型に嵌っています。柳家はむしろ本寸法の本編の落語に、自由でオリジナルなマクラ。無くてもあってもいいということもありえるし、かなりの自由度。
喬太郎師匠は、客層、落語の組み立ての状況、その場の客席の様子、など場面にきめ細かく応じて、おかしさ、面白さをダイナミックに増して、話に入っていくようにもされます。このあたりは、五代目柳家小さんの家の落語のマクラの基本かその線だということで、その進化形の小三治師匠、また本寸法のさん喬師匠の一番弟子の喬太郎師匠と極めて近いモノを感じます。その表現の仕方は、他に誰もできない、大変工夫がこらされたモノですね。時代のセンスをかぎ取るアンテナの高い喬太郎師匠ならではの芸ですね。<吾妻橋の当たりで飲むとさん喬師匠の最近のお話など、店のおやじさんから聞くことがありますが、さん喬師匠や海老一の師匠に剣道の稽古をして頂いたことが昔懐かしいです。>
さて、書かれた戦隊モノでは、ガオレンジャーなどを見た記憶では、確かに仰るように、白波五人男な、お決まりの作り込みがありますが、動と静、具体的な場面では大きな流れにストップモーションを掛けるなどハイライトするところがありますね。ある意味、北斎の神奈川の波濤とか、フェルメールの真珠の耳飾りの少女とか、モネの日傘の女とか、ドガの踊り子などの「静」の中の「動」、「動」の中の「静」というところを切り打数せんすとか。その要素も喬太郎さんは、芸の中に消化して取り入れていると思います。
佐渡裕さん、松本人志さんが、偶々、枝雀落語の「表現」を暗に取り入れられていることをそれぞれの番組で暗示をされてました。枝雀師匠は、瞬時の静止画までも研ぎ澄ましてしかも全体のつなぎコミもなめらかにするというような、エンジニア的なこだわり方、別時限の芸、をもっておられたですが、喬太郎さんの表現と間の取り方には、アプローチ、突き詰め方違う形ながら、そのような要素による幅が感じられますね。
「見栄を切る」のも、考えると、本来ダイナミックな動きを止める作用。そして静止画像的な時間の流れで、動的なバランスを強調して、瞬時のバランスのおかしみをも、同時に表現する効果などがあります。さらに、そういうところは、適性さんが仰るように、現実離れしていますが、それがまたさらにコミカルな味も出してこれる要素になる。それを採用していますね。(喬太郎さんのマクラ・落語では「顔芸」の要素も、「間」とともにいれながら作られていますね。
このような表現は、日本の芸術が長けてはいるものの、19世紀フランスの絵画や音楽でゴッホやモネ、あるいはドビュッシーの取り入れたジャポニズムとして取り入れられた部分は言うに及ばず、グローバルスタンダードとしての価値を大分前から認識されていると思います。
その仕組みで戦うなら、という前提の話があるわけですが、知的社会で働くには、概ねそのような作り込みは、普通である。、
「キャラ」の上で必要なので、積上げ部分が必然的に大きくなるわけですね。「アメリカンカジュアルで日本人が生きたらおかしくないか??」というキャラ立ちの部分。この部分は、中高校生の意識がないところでしょうか。・・適性さんの書かれた、教育絡みの部分、わたしももう少し、その線で考えて改めたいと思います。(続きます)
さくら(未来)さん、
遅くなりました。いただいていたコメントですが、
私にあっては、鉄緑も、SEGも、メプロも、ひとつの学びの場、と言う意味ではほぼ同等ではないかなとの評価です。
合格実績とかで目をうばわれることはないと思います。結局はこども本人に合うかどうかでありましょう。
(あまりに実績が違うと、なにか違う要素があるかなと気にはなりますし、そういうところは避けることはあるでしょうけれども)
本人が使いたいように使えば良い、というスタンスでずので。
(週3-6時間とは、たかがされどという時間数ですが。)
<さくらさんWrote>
SEG,MEPRO も良いようですね。
ふうさん
>無常感様
>>子どもたちの世界だけは出自(経済力)の問題で、受ける学校教育に差が出ることがすごくイヤなのですね。
>その通りだと思います。子供達も、自分が受ける教育の差を早くから体感させられてますね。
戦前に戻った様です。また「階級闘争」の時代が来るかもしれません。
これは、あくまでも個人的意見ですが・・・
「自由」と「平等」と相矛盾する命題があって、これをどう整理するかなんですが、
私は個人的に、「平等」を「結果の平等(社会主義、共産主義)」ではなく、
「機会の平等(自由主義)」と解釈すべきだと思うのですね。
それであってこそ、「自由」と「平等」は並立しうる。
出自(経済力)の差で、子どもが受ける学校教育に差が出る
・・これは、機会の平等(自由主義)に反することだと思っています。
いま、アメリカで社会全体の富のうち25%を、1%の人間が支配している・・
このことに抗議運動がおきていますが、自由も平等も成立しない社会は、長続きしないと思います。
>ええと、ある種のコミュニティと、自分と家族の全人生を切り離すことが、私の人生の目標のひとつだったので、この部分については、結構、考えてきました。
>まあ、医者でも弁護士でも、大丈夫ですよ。
企業人さんは強烈な過去があるから仕方ないのでしょうけど、私は、人は同じだと思ってます。
「同じ」だと思うか「違う」と思うか。
企業人さんや、格が違うと殴った東大生とか、人を「選別」してるのですね。
小学校の時に偏差値で選別される中学受験組のほとんどはそう。
薬物使用で捕まった人間を選別する人は、勉強ができるかどうかで人を選別する。
「格が違う」と口に出すほどバカでないだけで、頭の中ではそう思ってる。
小学校時代にそういう選別意識が刷り込まれることは、中学受験の大きな弊害でしょうね。
それで、ある種のコミュニティーの選別は差別ではないですか?
ねえ適性さん。
視点さん
>薬物使用で捕まった人間を選別する人は、勉強ができるかどうかで人を選別する。
>「格が違う」と口に出すほどバカでないだけで、頭の中ではそう思ってる。
ちょっとした例で挙げただけですが、実はこの人はそれほど悪い人ではなかったです。ある種の才能もあった。でも、家庭環境のせいか、弱いところがあったのですね。それよりもっと悪質で危険な人々もいました。彼らは家庭環境が悪い上に性格も曲がってしまっていた。 彼らと高校で分かれられたのは、身の安全と言う意味で良かったです。
>小学校時代にそういう選別意識が刷り込まれることは、中学受験の大きな弊害でしょうね。(視点さん)
まあ・・私学助成に文句は言えても、
日本は自由主義国家だから、私学設立の自由を止めることができませんしね。
差別の問題ですか・・
たとえば、東大、京大、国医の定員数枠を、
公立と私立の生徒数比で分けてしまうのもいいかもしれませんね。
アファーマティブ・アクションですね・・アメリカだったらすぐやれそうですが。
受験というのは、学力の絶対値を上げるものではなく、
競争試験、ゼロサムゲームだから、受験に教育費(公費、私費ともに)をかける社会的な意味って、
なんなんだろう・・ときどき、疑問に感じるのですね。
受験に教育費(公費、私費)をかけようと、かけまいと、
毎年、東大3000名、京大2500名の合格者は生まれるわけで、そこで習得された受験技術が、
そんなにお金をかけるほど、社会的に値打ちがあるものなのか・・






























