充実した教育環境の日大付属高校
私立中学の価値 2校め
既スレが調子悪いので、とりあえず立てておきました。
企業人さま、
そうですか、プロコですか。
プロコフィエフはいいですね。とても好きですが、それが日本人的な要素を持っているかは、ちょっとわかりません。
プロコフィエフの交響曲第6番が好きです。レニングラードフィル/ムラヴィンスキの来日コンサートでやっていて強烈に記憶してます。
わたしには、プロコはメンデルスゾーンと共通のところがちょっと感じられて、何を聞いても「気品の良さ」を基本で求めて、作っているような印象です。ベートーベンとかの形式そのものによる品の良さというよりも、作曲者の曲の仕上がりから受ける、品の良さというか。戦前の演奏はそういうところを取り出したような叙情的な演奏も多いデスよね。
ところで、ロシアの音楽や、リズムのねっこは、ウイグル系とトルコ系とモンゴル系の騎馬民族の音楽・リズム感に近い独特なところもいろいろありますよね。プロコのスキタイ組曲とか、驚きです。バルトークでも弦チェレ、オケコンとか、そういうところが強くありますね。
・・・「日本的か」のお題で、ひとつ言えそうなのは、ドビュッシーなどの理解した、「日本」は、ジャポニズム、というもの。ですので、われわれ日本人が思っている「日本的」とは当然、感覚的にも違うのかもしれないと思いますね。
でも、彼らがそれを「日本的だ!」というなら、そこにわたしは、「日本的なモノが、確かにあって、それが発見された」のだと言いたいなとは思っています。で、それが標準になっていつか日本由来とは思われないとすれば、それはそれでよいかと。
外人と飲んで、歴史から音楽から、原爆から、エネルギーから、いろいろ話すと、かれらが我々と違う感覚で生きているところがつぶさに見えます。わたしは外国勤務は無いですが、そういうところから、付き合い方のヒントを得ています。
そのセンスで言えば、日本人は、ベートーベンの中のアル要素が結構、本来の日本的なモノにもあって、すきなのだろうなと感じます。
プロコ以上かどうかは判らんですけど。
適性さま、
「ざる」の話を直しました。まだまだ、うまく書けず、
えぐみがありますが。
父:「なんか、少し話をしようか。・・・「本読み」。時間掛けたからと言って、学校の特定の科目の勉強がすぐさまできるようになったり、国語力がましたりはしない、ということを話そうか。」
子:「案外、重くない? まあいいけどね。・・・効果がでるまで、時間がかかるということ。役に立たないことをやっているということではないよね?」
父:「そう時間がかかる。また、敢えて回り道をしている。急がば回れだから。重要なことは、学びに「ざる」で水をイメージを持つこと。 (とキッチンから、全面メッシュで丸い底のある、ざるを取り出してくる)
・・・このざるに水をためるために紙を貼っていくとする。貼られた紙が少しのうちは、水はじゃあじゃあとメッシュの隙間から漏れるよね。貼っても貼らなくても同じと言うほどに。」
子:「そうだね」
父:「水漏れをしなくするためには、少なくとも、ざるの底の当たりの部分に最初に紙はらないといけない。で、まあ、たいてい底の部分はだれでも貼るわけね。で、目標として 最終的に、4/5程度の高さまで水を張りたいとする。わかる?」
父:「・・・半分ではなく、4/5というところが、みそなわけ。この点、覚えておいて。」
子:「わかった。」
父:「4/5まで貼るのか、例えば2/5の高さまではるのか、という目標の違いがあるわけ。」
子:「高さによって、貼る面積も違うとか? それが例えば勉強量・・」
父:「で、今は、4/5と決めておくわけ。問題を簡単にしている。で、目標は4/5を上手にはる仕方がいろいろあるが、目標が4/5であることが判ったら、張り方には、実は、それほど選択の幅は無いわけね。もちろん、いくつか流儀があっても。」
子:「どういうこと?」
父「このような紙をはろうとする。・・・」
(短冊形のA4コピー用紙の切れ端、さっきゴミ箱にすてておいたものを出す。)
「長手方向に横に何枚か下の方から貼ることをすると、抜け・かさなりは有りながら、枚数重ねて、大体4/5位の所までいくイメージができるわけね。」
「で、下から貼るとして、一段上がる毎に、単位時間がよりかかるとする。つまり紙の底辺の最低当たりの貼る枚数が決定されるとする。・・そうすれば、どう貼ったら良いか?」
子:「紙の長手方向を縦になるように貼った方が有利だよね。底辺が低い位置で貼れるから。」
父:「そう。だけれども、そのような貼り方を、途中で評価すると考える。途中で水をくもうとすると、どうか。」
子:「そりゃ、長手方向を横にして順番に貼らないと、途中の評価では、汲める水の量は、少なくなる。」
父:「そう。だから、4/5の高さを貼るという最終目標があるときに、2/5位が晴れているかをチェックするというのは、貼り方が一緒 のモノ通しではいくぶん比較できるが、紙を縦にして貼るか、横にして貼るかというような張り方が違えば、比較できない。また、同 じ縦長に貼る場合に、少し傾けて貼っていることもアルかも知れない。それについては、覚えておいて。」
子:「・・・。で、この紙の長さは、任意に長いものがあるの?」
父:「良い質問。・・このようにいろいろな長さがあるとするが、基本、大差のない同じような短いモノが多数あるだけとしよう。1枚半で4/5位まで到達するとすれば、傾けて貼ることがあるね。」
子:「なるほど。」
父:「すると、目標が4/5の高さまでというと、斜めに貼っていった人が効果的だが、全体としては、低い高さに貼っていないところがあると、そこで水漏れして、全体でくめる水の量は限られてくるけど、一定の時間がかかったあと、どうだったかを後から調べれば、その貼り方が、本当はうまかったかが判る。また、貼る努力をしたかは、結局のところ、水の量で大体はかれる。」
子:「で、学びのイメージで、水の量が学習の量的なものね?」
父:「そう。で、本読みの話。」
子:「マクラが長いね。喬太郎さんの「午後の保健室だね」」
父:「「本読み」というのは、この少し斜めにに貼るようなことをしているわけ。目標に対して2ステップで到達するとすれば、本読みは、2ステップ目を斜めに貼っているわけ。」
子:「イメージはできる・・」
父:「で、大抵、この4/5まで目標とか、が高校生には最初はわからないわけね。当然だよね。人生ノ先の話なんて普通は全く見えないからね。お父さんは大人だから、一般に高校生より、目鼻が効くわけで、この場合はどこが目標かな、ってわかるけども、高校生自身は手探りなわけだ。」
子:「お父さんの高校時代もそう?」
父:「そう。まず、特殊なケースしか、高校ではわからない。分野が決まっていて、なおかつ優れたコーチがついて小さい時から道を示している場合とか。バイオリニストとか、ピアニストとかの音楽家などがそうかもしれない。
特殊な場合を忘れて、まず、その到達点を知ろうというのが高校生のレベルでは極めて大事で、次に、具体的には大人に聞いたり、アドヴァイスを受けながら、大体こんな線かなと、当面の目標レベルを割り出すことが必要なんだが、ここが難しいのだね。」
父:「大体目標は入試レベルに設定することが多いけれども、大学教養レベルにすることもあるね。 そうすると、ところどころ目標の高さには違いが出てくる。
子:「そうすると、目標値よりも高くなるっていうこと?」
父:「そう。部分的にね。」
子:「勉強の効率では、もったいないということ?」
父:「いやいや。一部では、そういうことは当たり前だから底を回避は出来ない。判るところだけの話だが、一部分で目標を個人的に5/6の高さにしてもよいよということ。これは自由な部分と考えてほしい。」
子:「ちょっと判りににくい。」
父:「今、ざるは、全方位の学びを表していて、大体この辺りは理数系、こっちの方が語学系、こっちの方が国語や歴史、経済、思想系としようか。」
子:「大まかな分野があるということ。」
父:「そう。全体が学びを表す。で、本来、不可分な全体的な学びを、考えやすさの便宜上、分けてみます、ということ。そこで理系なら、数学とか物理とかさ、より高くすることもあるわけね。」
子:「数学5/3とかでもいいや、国語と歴史は4/5まで必要、5/6まで必要とか」
父:「そんなイメージ」
子:「それは、そして一人ひとりの個性で選べるということ・・」
父:「それは違う。生徒一人一人の目標が違うというのは「個性」の違いとしては見ない。・・・単に専門分野の特性が選択に強く依存して、外部からもある程度、達成レベルや能力で目標が決められるとも言えるから。だいたい「個性」ということばは、低いレベルで簡単に使えない。例えば、その目標分野がある程度きまれば、例えば、理工系で医歯系ではないとか、が決まると、自ずとそのざるの高さ目標高さの領域差、みたいなものは見えてきて、文系なら、大体このくらいみたいなモノは出てくる。」
父:「科目別偏差値を言っているのでは無いよ。」
子:「それは判っているよ。偏差値論者ではないからね。でも、経済学部を受けたり、法学部を受けたり、それは生徒の「個性」というのではないか?」
父:「僕の言葉の使い方は、「個性」ではない。例えば、お父さんは、物理系に興味があったが、最近は、数理的な要素は文系分野でも多い、数理的とはわかりやすく言えば大抵微積分だけど、そういうのが多く出てくる。経済系の勉強をしようと思えば、微分が沢山出てくる。お父さんという「個性」は高校3年生で同じであるのに、分野別の到達目標は変わるよね。「個性」の違いではなく目標や分野の違いもある。」
子:「目標の違いね?」
父:「それと人の側。目標と個人のレベル差=ギャップの問題」
父:「・・・少し掘り下げて言えば、学びの能力が乏しかったり、勉強時間がなんかの理由で足りなかったり、ということがある。ざるの例で、一枚の短冊の縦や横が短かったり、短冊の枚数が少ないと言うことになれば、簡単な計算で、目標の高さが違うよね、ということがあらかじめ判る。理工系でも、到達レベルが違ってくることもある。あまりにも無理ならチャレンジなんかしないよね。」
子:「短冊を大きくして、枚数は必要で高くしようということはだいたいわかるけど、でも、もし、その枚数が少なくても、小さくてもそれだけで目標をあきらめてよいわけ? 」
父:「それは、同じ分野でも違うよね。過程の差がレベルの差とまでは言えないが、例えば、理工系でも博士過程の中でも最高レベルまで行くか、学部をギリギリ卒業できるレベルまでのイメージをもつ例での技術的名トレーニングの違いだと、同じ分野でもいろいろ差がある。 それが社会にでていくと専門だけの話ではなくkyラの話。要は総合評価な部分もあるわけ。組み合わせで、目標を変えるという作業があるわけね。ちょっと分析的名物言いをしているけどね。
企業の研究者だと、結構国語ができないと辛いよね。それに英語もね。平たく言えば。君は文系だよね。だから本読みは、「ファインマン物理学」とか、とういうものではないことをしているわけ。やりたけりゃどうぞ、だけど、まあ普通しないよな。」
子:「大学レベルで、やることの先取り、ということ?」
父:「学習をより進める方法は、「先取り」と「深耕」という2つがあるわけ」
子:「しんこう。」
父「耕す方の深耕。深更というと夜ふけだからね。で、もともと、大学でやることが理系だと量子力学とか、全く新しいこともあるし、物理の力学や解析でも、新しいことはあるわけ。でも、文系科目、これらを人文・社会系というけれど、こちらの方は、元々、大学の一二年、教養レベルでは、「深耕」ってことをする。その深耕の先取りというと、結局、深耕」
子:「文系の場合、深耕の先取り、というわけね」
父:「例えば、○山先生がいたよね。」
子:「高校講座世界史の先生。地中海世界専門の世界史の先生ね。」
父:「そうだね。さらに狭い分野で言えば、特に地中海世界でイスラム世界とキリスト教世界野縮図としての、シチリアの歴史を注目して見ている先生。」
子:「・・・そうそう、あのね、○大の2010年の入試問題の大問の1番は、○山先生が作ったのではないか、と言っていたよ。」
父:「誰が?」
子:「学校の世界史の先生」
父:「そうだね。俺もそう思う。・・ていうか完全に予想できる問題なんだよね。」
子:「お父さんは理系だけど、専門でなくても、そんなこと見て判る?」
父:「本読みしたし、講座世界史見たからね。他にも地中海世界の歴史を放送大学でやっているんだよね。」
子:「ふーん。」
父:「いや、趣味で勿論、○山先生のものを興味もって見ていたことはあるのだけど、結局大学院レベルで放送大学でもやっているのをチェックしたわけね。」
子:「何のため?」
父:「本読み教材が適切か確認のため」
子:「目標レベルの設定ね」
父:「・・・今日はこの辺までだね。話は難しかった?」
子:「難しかったけど、わかりにくくはなかった。」
子:「ちょっとひとつだけ。なんで、紙を貼るとき、段があがると、時間がかかるってしたわけ? 与えた条件だからいいって言えば、まあいいんだけど、気になったから。」
父:「学びって、お話で行けるところは、やっぱり暗記よりもそれで行った方が良いわけね。年代を個別に暗記するよりも、エピソードの中で、理解するものなのね。だから結局、案外、「深耕」が効率良い勉強な訳。数学でも物理でも、化学でも。もちろん、世界史なんかの歴史でも。」
「1789年にフランス革命、1815年に四国同盟って、改めて暗記しなくても、モーツアルトが1756-1791年だって覚えていて、「英雄」をナポレオンが皇帝になったときに、ベートーベンが激怒して、それをやめたこと、「序曲1812」などを思い出せば、良いよね。」
子:「音楽に詳しい人はいいけど。それって、モーツェルトの生没年とか、チャイコの曲を知っている方がレアじゃない?」
父:「いや、連関してるからね。お話で覚えていればということさ。国1うけたときに、ハイドン、ベート-ベン、モーツァルトの生年の順序の正しい順番で書いたものの記号を書けという 問題がでていたよ。」
子:「30年位も前の、その試験問題覚えている方が順番そのもの覚えたことより、尋常じゃないんじゃない?・・・その順番、そのものは特に無理して覚えてはいないんだよね。」
父:「モーツアルトはハイドンセットのSQをハイドンに献呈したし、モーツァルトの生年はしってたから。」
子:「まあ、嬉しかったというわけね。・・・でもそんなこと試験で聞くなんて、ほんと面白いね。大事な知識なのかな。そこで聞いている教養って一瞬なぞだね。
子:「お父さん、もう、鍋のお湯がとっくにぐらぐらいっているよ。 」
父:「おっと」
子:「・・昼御飯はなににするの。かけよりは、せいろ。
父:「いや・・やっぱり、今日は、ざるそば、にしよう。」
(*)原注
そういうことをすると当然、「点を取る」という部分からみると、できないところが出てくるのではないかと思います。 しかし、それはいずれ追いついて追い抜くことが出来ればよいわけで、というか、追う着くも追い抜くも、将来必要なときににできるようになっていれば良いだけで、途中では評価も何もない。それが高校2~3年で実現することもあれば、大学以降になることもあるということではないか。
企業人さん
横からですがよろしいですか?
> ドビュッシーをさらいなおす必要があり、昨日は、ピアノに向いながら、ずっと考えていました。
> 交響詩「海」が北斎の「神奈川沖浪裏」のインスピレーションであることは有名ですが
確かにそのように聞いておりますが、「海」については実際どのくらい北斎のイメージがあったのだろう
と考えます。
私にはあの曲については燦々と輝く太陽のもとの地中海の穏やかな夏の海しか思い浮かびません。
(行ったことないので、勿論イメージです)
あの北斎のダイナミズムとは対照的とも言える「靜」を感じます。
> 彼、ほんとうに、日本のなにかを取り入れたんですかね。
結論として、深く賛同いたします。
さくらさん、
わかります。そういう部分が見つかれば、塾や予備校も、○○とはさみのように、結局のところ、使いよう。
高校生には、そんなところを見つけられるかというのが正直なところ。
それ以上の判断は、人生で喧々したことで考えられる「大人のもの」ですよね。
言いたいことは、
肯定的な面:
*塾・予備校を目のかたきにしても、One of Themの学びなので、多寡が・・&されど・・・というお話。
*塾でまなぶ「学び」が100%、本当の学びでないとは言い切れない。
*出会いがあって、人の「キャラ」に影響受けることあり。
*塾・予備校の友人も一生の友達担ったりする。
否定的な面:
*ほんとうは大して効果があるわけではない。・・難しい国立大学(覗く医学部?)ほど、
決定的なことは、自分に向き合って考え続けることが必要。そしてそれが最も、追い込みで「効率」の良さを発揮する力。
*通うことで勉強した気になること。
*金のむだである可能性もあること。
なんてことかも。
わたしが影響を受けたのは、自転車で5分ほどの町の塾で、東大の文学部卒業(就職大変だから)
の若い先生でした。「哲学入門」とか、さまざまな本を教えてくれました。クラシックは渡しの方が詳しかったですが、
ヤナーチェックなどは、高校の頃、たしか、その先生から教えて貰いました。
<さくらさんWrote>
量的さん
確かに、予備校や塾というのって必要ない環境もありますね。 量的さんのご家庭のように。
大学の予備校的なSEGとかメプロなどは、 よき仲間や、その教科をさらに面白くする魅力のある 授業があることに開眼しました。
確か、私の記憶では量的さんも塾の先生との出会いがあったような。。
記憶ちがいでしょうか?
先生の人間性というのも出会いのひとつですね。
よき出会いの場所であるかもしれないのかなと思っています。
量的さん
お話を伺っていると、スラブ・マジャール系の音楽がお好みなのでしょうか。
バルトークはともかくとして、正直、ヤナーチェクやプロコフィエフについて
は殆ど知りません。せいぜいシンフォニエッタやキージェ中尉・交響曲第5番
くらいなものです。でも確かにリズムは独特で面白いですよね。
もう少し聞き直してみようかな。
後、コダーイについては彼が合唱曲を多く残してくれたおかげでいくらかは
親しみがあります。
でも彼の合唱曲、演奏がとても難しくいまだ敷居が高いです。
音楽は興味の対象外の私でしたが、本スレに少しばかり触発され、昨日N響アワーを"つけて”いました。そしたら本番組は3月で終了とのこと。でも、新番組「ラララ♪クラシック」はクラシック初心者で「聞いてみたいけど、何から始めていいのか」という人にも気軽に楽しめる番組だそうで、この機会にイロハを知るのもいい機会かなと気を取り戻しました。
オランダ滞在中には、幾度かコンセルトへボウでクラシック鑑賞をしていたのですが、ただ雰囲気を味わいながら鑑賞していただけで、音楽的なことはよくわかりませんでした。ただ、最後に鑑賞したのが不協和音の現代音楽で、「こ、これは・・」ハズレかと思っていたら、指揮者が現代音楽の典型的な構成と聴き方を演奏の合間に優しく説明してくれ、これは素人には分かり易く、終わった後は音楽的な満足感は?マークだったものの、ほんのちょっぴりですが少し分かったことで嬉しかったことを思い出しました。そんな気分をまた味わってみましょう。笑)
それと参考に慶応大学はみなが知っている私立の雄であり社会から高い評価を受けている大学である。しかし私が見たその実態はかなりひどい面がある。以下志望者に私の体験談を参考にしてもらいたい
1生徒の質、レベル、人間性が低い
実際入ると欧米へのキャッチアップ型の学力の人がほとんどで、それに相性よい人が入学しており本物の学力を持ってる学生は少ない。それに応じて自分の国を大事にするという当たり前の常識が欠如している。日本固有の理念が希薄である。
2受験問題に欠陥がある。実は慶応の入試問題は欧米へのキャッチアップ型の学力の人をより優先的に入学させるもので実は合格難易度が均一でない。地方出身者には難しい。さまざまな人がいてクラスなどの人間関係で苦しむかもしれない。慶応経済は穴です。私のクラスでも南尚比古(駒東)、木村陽一郎(武蔵)、伊勢修(麻布)、大川康生と4人も学年びりがいました。
3本当にできる人が本当にいない。実際は東大落ちや国立落ちの人が少ない。
企業人様
クラッシックに疎い私ですが…。
ドビッシーは好きです、と云っても代表作ぐらいしか知りませんけど。
>動と静の対比ということであれば、うなずけるのです。そして、このころのドビュッシーが多用した、5音や全音階は、東洋的と言えなくもない。
ペンタトニックやホールトーンって東洋的なのですか?批判とかじゃなくて、そういう感覚がなかったもので。
「海」で多用されているホールトーンも波=ランダム性の象徴的スケールって解釈しか感じませんでした。個人的な意見として調性を単に不安定にしたければ、ディミニッシュやミクソリディアンを使うのでしょう。ホールトーンって、円周率のような周期があるようでないイメージがありませんか?そういうイメージと波の持つ無限ランダム性がピッタリはまった感じがします。
インプロビゼーションの世界で考えるとフランス人と日本人って同じツボだと思うんです….理屈っぽいところとかシニカルなところとか。プレイスタイルも似ているように感じています。後付けかもしれないけど、フレンチ(料理)のソース作りも複雑で微妙、味わい深いし、食べる順序にまで拘る理屈っぽさ。攻めと調和、理屈のバランスを大切にしているような気がします。それと無関係だけど英語の発音が苦手ってところも似ていますね。
文化的背景を考察すると日本文化を拒否する理由が見当たらないし….だから、日本文化にドハマリしちゃうこともわかるような気がします。
ただ、それが日本的か?と日本人に問われると、「う~む」という感じもします。
支離滅裂ですみません。






























