アートの才能を伸ばす女子教育
私立中学の価値 2校め
既スレが調子悪いので、とりあえず立てておきました。
量的様の静と動の考察....興味深く拝読しました。
といっても半分も理解できていないんですが....。
横断的知識は、感じ方や楽しみ方も別の次元へ連れて行ってくれるのだなと感じました。
絵画のことは、ド素人となので地域、時代様の仰るように(とっても解像度の低いレベルで)「エエものはエエ」としか感じ取れません。
まぁ、それでイイと開き直っているところもあります。
音楽に関しては、演奏する為の知識はあれど、芸術レベルの話になると相変わらず感覚のみ。
それも、エエと思える所に接近し過ぎる悪癖があり、全体を見渡せないという有様です。
地域、時代様は、描き手の立ち位置で感じ方を述べられているのでしょうね。
量的様は、多分、鑑賞する立場でのご発言なのでしょう。
どちらの考察も私にとって大変有意義なものでした。
改めてお二人に感謝いたします。
企業人様のジャポニズムに関する投げかけは、プレーヤーとしての企業人様の話だと勝手に想像して弾き手の立場として述べさせていただきました。
ここでも弾き手の感覚と鑑賞する側の感覚の微妙な温度差を感じとれました。
若かりし頃、知識でJAZZを語るヤツを軽く見ていたのですが、(量的様のことではありません)当時を振り返ると感じ取るツールが違うだけのことだったのだと気づきました。
私は、どうしても弾き手側のフィルターの掛かった感じ方をしてしまうので、量的様の仰るレッテルに関してその存在を強く意識するのですが、なかなか排除出来ないジレンマを抱えています。というか...排除なんで出来ないんでしょうね。
量的様のご指摘は、私にとってバランスあるご意見でした。
地域、時代様は、描き手の立ち位置で感じ方を述べられているのでしょうね。
量的様は、多分、鑑賞する立場でのご発言なのでしょう。
↑
信頼感様
その通りかと思います。
なので、量的様のお話、興味深く読ませて頂きました。
それも、エエと思える所に接近し過ぎる悪癖があり、全体を見渡せないという有様です。
↑
分野は違えど、わかります、わかります。すご~くわかります(笑)。
視点様
>これって偏差値最高峰を目標にしろって言ってるわけでしょ。
>だから、大学受験で、医者に興味がなくても、高い目標=理Ⅲを目標にするわけなのか(笑)。
「山登り」を例で。
山を登ること・・・プロセス
高い場所に立つこと・・・結果
より高い山に上りたいと思うこと・・・高い目標
→その目的が: より難度の高い「山登り」に挑戦したい・・・Good
→その目的が :より高い場所に立ちたい・・・ん?何故??(ヘリコプターでも使っていけば)
結論:
「プロセス」を重視する人が、「高い目標を持つ」のはGood。
「結果」を重視する人が、「高い目標を持つ」のは???。
信頼感さん
一流でもないアマチュアががドビュッシーの後期とか、まあ、不遜なんですが、思いっきり表現側で悩んでいたときに、量的さんのコメントがツボだったので、うかがってみました。
表現側も観賞側も、ご意見参考になりました。
ただ、今までの私の演奏の中で、ドビュッシーの後期は比較的評判良かったほうです。どうも、ワケわからない曲のほうが得意のようです。
量的さん
紹介いただいた、コダーイのガランタ舞曲YouTubuで聞きました。
リズム・メロディーともにマジャール的で木管のソロパートに特徴のある曲と思えました。
さて、マジャール系の大作曲家といえば、やはりバルトークという事になるのだろうと
思います。
今まで幾多の作曲家がいろいろな名曲を作曲してくれたおかげで、今でも楽しませてもら
っているわけですが、これまで、個人的に時代を変えたと思われるエポック・メーキング
な曲を挙げてみようと思います。
バッハ・モーツァルトは置いておくとして、順番にベートーヴェンの交響曲№3、べルリオーズ
幻想交響曲、ワーグナー、トリスタンとイゾルデ、ストラビンスキー、春の祭典、バルトーク
弦楽器とチェレスタのための音楽、シェーンベルク、月に憑かれたピエロになるのかな。
これらの曲は実に革命的であったのではないでしょうか、それまでの常識を一新してしまうような
インパクトのある曲であったのだと思います。
さて、チェリビダッケについてですが、すべてカラヤンのアンチテーゼとして存在した人のように
思います。
でも、二人は芸術の方向性は実は似ているのではと思うのです。
テンポもメロディーの歌わせ方も正反対ではありますが、外面的という面では、熱狂的な彼らの
ファンには申し訳ないのですが、とても似ていると思っています。
で、ふたりとも嫌いなのかと言われれば、複雑なのですが好きなのです。
ときどき、私の琴線にふれる演奏があるからなのでしょう、期待を裏切られることも多いのですが
素晴らしい演奏もあります。
チェリについては、ブルックナー№6、と展覧会の絵を挙げておきたいと思います。
私の中では同曲中№1です。
・・・・・・・・・さん
英語の例は、SFCです。ちょっと極端な学校で、25%は帰国子女枠です。帰国子女の中でも、日本人学校主体だった人と、現地の学校に行った人の間には、ずいぶん語学力の差があります。SFCの帰国クラスの英語は、後者をターゲットにしていますが、ときどき、入れ替えをやります。帰国子女以外で、帰国クラスにはいると、死ぬ思いをするので、普通の人は断るのですが、子供は、何も考えずに帰国クラスにはいり、文字通り死ぬ思いをしました。
一例さん、さくらさん
東大でも京大でも、余裕で受かる人もぎりぎりで受かる人も居るので、極端なケースを述べているとは思います。
しかし、学力的余裕のほかに、まわりに物差しになるクラスメートが居るかどうか、というのは、心理的余裕として、非常に大きいです。私の場合ですが、クラスで10人前後は現役合格するだろう、と予測され、自分の順位もわかりますから、まあこのくらいなら逃げ切れるだろう、とか考えて、源氏物語ばかり読んだり、ベートーヴェンの交響曲やるためにトランペットとかオーボエとかをしごき上げたりしていました。
筑駒の例をあげましたが、上位三分の一あるいは半分くらいの人は、理III志望を除いて、こういう感じなのではないかと推測します。
いくら遊んでも、いくら落ちこぼれても、周囲は何も言ってくれず、ある日突然留年させられるような怖さはあります。
地域時代さま、信頼感さま、企業人さま、公立一貫さま、
動と静の件、それぞれ、皆様のお考えでいただいたコメント、
どうもありがとうございました。
音楽で言えば、演奏者、聴衆。絵画や浮世絵で言えば、鑑賞者、購入者
・・・どのジャンルの芸術においても、聞き手・鑑賞者・視聴者(=作品のメッセージを届けられる側)という明確な立ち位置がある、ということで、敢えて書きました。
ですので、わたしもそのキーワードで、コントラストを切り出して、書込みしようかと思っていた矢先だったので、
信頼感さまのコメントは仰るとおりで、大変タイムリ-なご意見をいただきました。
その作品を巡る、様々な議論の文脈で、何がハイライトされるかは、作り手、聞き手/鑑賞者の赴くところなので、
特に、一線で”戦っている”作り手からは、意識がされない議論というのもあると思います。
わたしは、聞き手や鑑賞者が全くなければ、「芸術」は社会的に存在しないと思っているので、作り手にとってその鑑賞者が良き鑑賞者であるかはともかくとしても、「慎重な鑑賞者」の立ち位置で「こういうところが良いね、その理由は」というのを追い求めたり、鑑賞者が自分の中の作品への反応を言語にしようとすることは、Value のあることだと思っています。
ありがとうございました。御礼まで。






























