アートの才能を伸ばす女子教育
私立中学の価値 2校め
既スレが調子悪いので、とりあえず立てておきました。
(雑談ですので、ご興味無い方はスルーください。)
地域時代さま、信頼感さま、企業人さま、公立一貫さま、
続きをまったり書かせていただくことを許していただければ、鑑賞者の目線でみると、演奏者の側でのValueは高まります。それは聴衆にこびるということではなく(そういう要素が場合によってアルかとは思いますが)作品、あるいはパフォーマンスの中に、作り手と鑑賞者の共同作業があるのだと思います。
クラシック音楽のように、演奏者が介在する芸術は、パフォーマンスの瞬間にメッセージが再創造され、それが演奏者の評価に直結していますね。
このことに意識的に気づいたのは、正月のテレビ朝日の「カルテットという青春」で、植村太郎さんが、「自分はVnを弾くことに今まで苦労したこともなく、音楽家の家に生まれて表現することについても実は苦労を感じたことがない、しかし、欧州に留学して見て、はじめて意識の大きな違いに驚き困惑もした」という部分があります。そのとき、これは楽譜の外に現前とその社会が補修している過去の記憶例えば、、「時代性の認識」とかそれの固まったある種の「お作法」の類などではないか、と。(・・・実は、ある種の鑑賞者はこれらには近い立ち位置か?)
再生芸術、落語などでもそうですが、元の作品を再生する瞬間に、鑑賞者の立ち場が一瞬といえども作り手側にはあります。その際に、分析してから統合する作業(*)は必要なことが多いので、鑑賞者との会話も多くの場合、成立します。(**)
作り手を聞き手/視聴者の関係は、自分の生活の中では、勿論どこかで逆転することがあります。佐渡裕さんや松本人志さんが、死弱酸の落語を必死に菊野は、聞き手として聞くことで、作り手から解放されることを無意識に望むと同時に、作り手としての死弱酸に思いを馳せている、この2つがあるのだろうと思います。
われわれのような理工系の知的作業の分野でも、アル瞬間で自分の提示するコンテンツが、
鑑賞者(すなわち上司、あるいは業界、官庁の方)にどう響くかをみながら、順を追って造りにいく瞬間があります。
そのときに役にたちます。ときには「作り手」の立ち場として大きな差別化になることもあります。そういう作り方で仕事の説明資料を用意する人が多くないからです。
(*)無意識に出来るレベルと出来ないレベルの作業があると思われます。絵画や彫刻あるいは作曲家などでは、作り手の一方的な作業だけで自分の責任範囲を終える異ができるので創造プロセスがかなり違いますね。
(**) 立川談笑さんの落語会ではアフタートークを評論家広瀬氏と一緒に良くしていますね。それもその作業です。談笑さんのように、合理性と言語化された落語のストーリー性に重きをおいてつくる再生芸術、あるいは新作の落語が、聞き手にどう響く。どう映っているかは芸の死活問題で、意識してやっているか無意識にやっているかは別にして、とても合理的な行為に思います。別の例では1975年のカールベームの来日公演のDVDを今見ると、ベームが持ってきた各種曲目を選択する時に、聴衆に最高のウィーンフィルのパフォーマンスを見せるとすれば、どの曲が良いのかを選び抜いたことが伺えます。指揮者は聴衆目線は恒にありますよね。昨年のベルリンフィルのコンサートでも、マーラーの第9番、ブルックナー第9番(3楽章)が満を侍して、というかたちで日本の聴衆に披露され、とくに11/22、11/24に演奏されたマーラーの第9番は、エポックメイキングな演奏でした。ベルリンフィルの100周年記念コンサートのカラヤンのものに如何に挑むのか、それが今、問われるという風圧をラトルは感じつつ、アンサンブルの精緻さプラスαに磨きが掛けられて、会場に居合わせた聴衆が涙するような深みをのぞき込むような演奏だったなと思います。
企業人様
インターネットの広告関連企業で(上場企業)役員をしている知り合いがおります。
彼は、週末だけピアノ弾きとして活動しています。(ジャズ系のライブハウスで)
自分のバンドとかじゃなくて、セッションでの活動です。
ある意味インプロの世界だからできるのかもしれないのですが….。
彼は、プロなのかアマなのか….それは聴衆が判断すればいいし、どっちでもいいんだなと思います。
彼と企業人様の音楽への立ち位置とをオーバーラップさせちゃってます...勝手に。
企業人様も彼も…私にとってある意味理想だし羨ましとさえ思います。
もちろん両立するにはそれなりの準備が必要でしょうが、それをサラっとやっちゃうところがニクイんですよ。
仕事も音楽も手を抜かないスタンス….素晴らしいですね。
これからもどんどん演奏活動をされてください。
昔に比べると活動の場って結構ありますしね。
今回のお話、いろいろ参考になりました。
ありがとうございました。
(*)無意識に出来るレベルと出来ないレベルの作業があると思われます。絵画や彫刻あるいは作曲家などでは、作り手の一方的な作業だけで自分の責任範囲を終える異ができるので創造プロセスがかなり違いますね。
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量的様
さすが量的様、その通りかと。
もちろん、私の場合、広告分野と大きく繋がりますので「私の表現」を前面に出しながら、そこからはその他専門家達とすり合わせをしていく共同作業の部分もあるのですが、オーケストラとは全く違うと思います。
(学校でのピアノの伴奏、連弾、ピアノの先生宅での声とチェロとの合奏経験、しかないですので、音楽に造詣は深くありませんが、、、)
私の分野は「作り手の一方的な作業」から、始まりますから。
さすが量的差です。
昨日、私はもちろん「表現者側」の意見として書かせて頂きましたが、今朝の量的様のお話を読んで「んん、私の伝えたい事が、いま一つ量的様に伝わってないかも。。」と思いました。
私は量的様の浮世絵に関するお話を否定なんか絶対にしておりません。
むしろ、量的様らしい知識の詰まった素晴らしいお話だな、、と。
ただ、私以外の企業人様や公立一貫様のお書きになった事を「ある意味でレッテル貼りの議論で、底の浅い議論になる可能性もあるように思います。」という風に感じられたのなら、それは「そんな事はないですよ」と伝えたかったのです。
評論家からの酷評はまあ、辛いもので。。。。
しかし、「おいおい、、まるで違うんですけど~」って時も多々ある。
一度、私の生い立ちを勝手に想像して「だから、このような~」みたいな書き方をされた時は怒髪でしたね。
「まるで間違ってるんですけど~!!!」みたいな。
でも、それも仕方がない。(と、いいつつ、相手はプロですので、その後、色々とありましたが、(笑))
また、一番怖いのが、他国の宗教などを「このレベルでなら大丈夫だろう」と、表現したものが、その国の人達の逆鱗に触れる、傷つける、という事。(私はそのトラブルに巻き込まれた事はないですが、結構頻発します。)
無意識でやった事が、別分野への挑戦状と受け取られる事もあったり。。。
なぜ、そんな事が起こるのか、、それは、量的様おっしゃる所の「作り手の一方的な作業」から発するものだから、です。
その過程で私達を支えてくれる身内(職人さんや社長)さえもそれに気づかなかい、広告代理店、企業の広報さんも(彼等は常識ある理解者)見逃したものが世に出て、「あちゃ~。」となる事もある。と。
つまり、「議論」するなら、私の作品に限っては正解は「私のいう事」になってしまう。
しかし、そうではない。
絶対にそうではない。
発信側と受信側は対等であり、そして受信側同士も知識の量になど関係なく対等である。という事。
「エエもんはエエ」「興味ないものは興味ない」。
名だたる評論家の評も、芸術に全く理解がないうちの母の評も、私にはどちらも「そ、、そうなのか。。。」と、そこに区別がつけようもない、、という事になるのです。
私の表現を、作品を見て「僕は(私は)こう感じた」。
それが全てである、、と。
なので「議論」というより「談義」なのでしょうね。
(雑談です。ご興味ない方はどうぞスルーされてください)
公立一貫様、
カラヤンとチェリビダッケの違い・同じところは面白いですよね。
クラシック音楽のビジネスやキャリアをどう考えるかという根本は違いますが、オーケストラをマネジしたり、コンサートに向かう姿勢や作る音楽には実はかなり共通する部分があるようにわたしも思います。例えば、
*二人とも、今は存在がほとんどない、指揮者の強い時代(=巨匠が存在した時代)の指揮者で、強力なトップダウンで音楽を作る。
*オーケストラをトレーニングする。特に弦のアンサンブル
*共に限界を超えたと思われる楽器の音を使った音楽を好まない。・・・だからマーラーの復活などは嫌い。
*共に、職人芸的に音楽の色彩感を出すこと、テンポの管理には圧倒的に秀でたモノがある。
*共にロシア系で根強いファンが獲得出来る。(チャイコ)
*バルトーク、R.シュトラウスの管弦楽曲は名演が多い。
違うところは、チェリビダッケが、ラテン系、スラブ系をとくに突出して得意にしていたことで、ラベルの道化師の朝の歌、ラヴァルス、バルトークのオケコンなどありますね。リムスキーコルサコフのシェラザードはオケのコントロールとドラマ性がすばらしいです。わたしはチェリビダッケが読響を客演して振った演奏がとても印象に残っています。チェリビダッケはバルトークはオケコンを良くやりますが、弦チェレはあまりなかったように思います。
チェリビダッケのブル6は、SONYがLDを出すために、1991年頃に集中して何回か演奏会をしていた記憶があります。
わたしもたまたまミュンヘンガスタイクホールで同曲を聞きましたがとても良かったです。
展覧会の絵は1980年のロンドン交響楽団の来日でやったりその前には読響でも。評論家には結構、不評なようでしたが、聞いていると展覧会に行っているようでわたしも演奏を楽しみました。卵の殻を被った雛の踊りなどは、すばらしい表情ですが、こういうものもコントラストが徹底しているのがチェリ流なのでしょうか。
<公立さんwrote >
さて、チェリビダッケについてですが、すべてカラヤンのアンチテーゼとして存在した人のように 思います。 でも、二人は芸術の方向性は実は似ているのではと思うのです。 テンポもメロディーの歌わせ方も正反対ではありますが、外面的という面では、熱狂的な彼らの
ファンには申し訳ないのですが、とても似ていると思っています。 で、ふたりとも嫌いなのかと言われれば、複雑なのですが好きなのです。
ときどき、私の琴線にふれる演奏があるからなのでしょう、期待を裏切られることも多いのですが 素晴らしい演奏もあります。 チェリについては、ブルックナー№6、と展覧会の絵を挙げておきたいと思います。 私の中では同曲中№1です。
地域、時代さん、
これから出張なので、取り急ぎ手短に書きますと、「レッテル貼り」を意識していた(*)のは、わたしの方で、それについて浅いレベルに留まる可能性とは「自分」について記載したので、地域・時代さまのことではありません。・・・ですので、お気にされないでください。
(*)文脈では、ドビュッシーの表現が真の意味で日本的かどうかという他の方の問いかけにたいして、「ジャポニズム」というレッテルを貼って、日本人の考える「日本的」と欧州人の考える「日本的」が違うと切り出し方をまずしたのですが、それは、議論の進みの中で否定するつもりだったのです、本音としては。。
信頼感さま、
芸術や文化的なことも、理数的な仕事においても役立つということを最近はいつも思っています。「横断的」なことは価値がありますよね。我々の方では「シナジー効果」などともっともらしくいっていますが。
他の分野をみることで気づくことは、視野が狭くなることを防ぐことにもなりますし、本当に大丈夫かな、というところで多面的に見ることで、他の方を説得する際の安心材料にもなります。
この辺を、こどもの教育やセミナーのイントロダクションのところで使えていけたらいいなと思っています。「ざる」の話は、まだまだその稚拙な入り口なのですが。。。
量的様
>作り手の一方的な作業だけで自分の責任範囲を終える異ができるので創造プロセスがかなり違いますね。
地域、時代様も仰っておられますが、作り手の立場を熟知されていますね。
そういう方ってホント、少ないと思います。
>ときには「作り手」の立ち場として大きな差別化になることもあります。そういう作り方で仕事の説明資料を用意する人が多くないからです。
量的様は、抽象化レベルの高い方なのだな感じています。
芸術や音楽も作り手側の内面に入り込んで一旦思考し、次に受け手の側からのインパクトも客観評価してみる。
仰るようになにも芸術、音楽に限らず、コンテンツという観点から説明資料を捉えるなら、作り手の主張を劇的に展開出来る大きな舞台となるでしょうし。
さらに横断的知識を使って主張に迫力(信憑性)を与えるんでしょうね....ちょっとした魔法を掛けたように。
臨場感(現実の)ある芸術や音楽を物理部分(テクニック)と抽象部分(主張)に明確に分け、抽象部分の意味合いだけを抽出し、他の臨場感あるコンテンツ制作にエッセンスを応用されているわけで、高度な抽象化(置き換え)が必要です。
物理部分(テクニック)を別のコンテンツに物理部分として応用することは、ある程度出来る話。
量的様のアプローチは、本質部分を抽象化し、他の臨場感あるモノに応用して、別の価値を生み出そうされる手法の様に感じました。
これは、誰もが出来るようなことじゃありませんよね。
自分に関しては、特に物理部分の限界から逆算してしまう悪癖があり横断的、俯瞰的に本質を見極められない質です。
コレがコンプレックス化するとレッテルになっちゃうんでしょうね....。
物理部分を自己から切り離せたなら、テクニック部分に迷わされずにすむのですがね....。
地域、時代様
>>それも、エエと思える所に接近し過ぎる悪癖があり、全体を見渡せないという有様です。
↑
>分野は違えど、わかります、わかります。すご~くわかります(笑)。
地域、時代様は、接近しすぎるかも知れないけど俯瞰的捉えられる方....私なんぞ足下にも及びません。






























