アートの才能を伸ばす女子教育
私立中学の価値 2校め
既スレが調子悪いので、とりあえず立てておきました。
適性さん
> それが、まったく、意味不明であっても、「これエエよ」を言語化していることだけは伝わりますし
> ・・・・現在意味不明で・・今後も意味不明であることもありますが・・ある価値が、ある人にとっては
> 『存在』していることは・・わかります。
中略
> でも・・そういう世界が「存在」していることを、聞くことは、私は・・けっこう好きですね。
> (理解できなくても・・)
コメント切り取って申し訳ありません。
いつもながらの観察力に、本当に感服しています。
自分とは違う価値観についてまず、そういった価値観があることを認めようということだと思うのです。
最近のスレの流れで、信頼感さんや地域・時代さん鋭いコメントに暫し呆然としているところです。
いろいろな物事を見るのに、ここのスレの住人さん達は、私の私見にすぎませんが「直観力」にとても優れて
いる人たちだと思っています。
物の本質を見る目は実に厳しいように思います。
落語については全く詳しくないのですが、一生懸命読ませていただいております。
また、楽しい話をよろしくお願いします。
量的さん
> 実はかなり共通する部分があるようにわたしも思います。
> 評論家には結構、不評なようでしたが、聞いていると展覧会に行っているようでわたしも演奏を楽しみました。
> 卵の殻を被った 雛の踊りなどは、すばらしい表情ですが、こういうものもコントラストが徹底しているのが
> チェリ流なのでしょうか。
量的さんの上のコメントは、とてもうれしいです。
特に展覧会の絵について、評論家の批評などは全く無視で良いと思っています。
終局のキエフの大門に至るまでの過程を逆方向に見ていくと、どうしてこういう
表現になったのか、私的にはとても納得できるし、素直に感激できるのです。
でも、ボレロはだめなんですよね、何でなんだろう。
相変わらず適性さん、守備範囲広いですね~。
私は幼い頃からクラシックに親しみやすい環境にあったわりには、
ほとんど関心持てず、そっちの話は全くダメ。
誰のどんなコンサートに行こうとネコに小判。連れて行かれただけ、って感じ。
落語にいたってはチンプンカンプン。
リアルタイムで何年も読んでいた、ワンピースのほうがまだわかるかも。
さすがにジャンプはここ数年ご無沙汰とはいえ。
(上の子が幼稚園に入った頃に、ダンナに止めてくれと懇願された)
これ、両さんなみに続いていくのかしらね。すごいな~。
さくらさん
当時、毎週ジャンプとモーニングを読んでたのね。
でも自分の妻がジャンプを毎週読んでいるのは許せなかったらしく、
子供が大きくなってきたことを理由に、ジャンプは止めさせられたのよ~。
中学生の時から読んでたのに!
で、自分はスポーツ新聞読んでるくせにぃ!
これを持ち帰られるのは私が嫌なので、家には持って帰らず
捨ててきてもらってますけど(仕返し~笑)
でも私、モーニングは許されているので、まだ読んでるよ。
やんわりと、趣味の話題のご案内をいただいていたようですが、
たぶん、いま渦中の方もいらっしゃるので、
当たり障りないところに、話題が偏っている部分もあるのだと思いますよ。
私も視点さんが喜びそうな、2月1日と塾関連ネタとか一度書いたんですが、
気が向いたら、6日以降にアップしようと思いとどまりました。
さくらさん、
SEGなどの内容は私もパンフレットで、5-6年前に興味深く読みましたし、そこの説明会にも行き様子を自分なりに見ましたので、ご意見には賛同します。(わたしは「塾も楽しんだら派」?なので。)
以下、受験勉強と真の学びに関わる、予備校の利用法の雑談ですが、
予備校の先生からの影響というのも、大学入試のばかりに案外と留まらないと思います。
自分の記憶している例で面白いことがありました。
駿台には伊藤和夫さんという英語の先生がおられて、英語の入試問題の要約問題(それなりの量の英文について要約を作る問題、英語力と国語力の両方が問われる)の授業されたとき、
「生徒の要約答案には、案外うまくできているなと思って読んだ答案でも、 ”要するに~”と書いてくると、どうもその後でどうにもしょうかない、点がつけられない内容になっています。そこで考えを停止してしまって、安易なまとめをつけてはいけない。」
と指導されました。今でも会社で、わたしはそれ以来、「ようするに・・」を一切使わない様に心がけていますが、なるほど、他の人が「要するに・・」を使っているのを、すくい取った内容が実は違うということが沢山ある。
塾で学べることは、そういう言葉についての感覚を教えてくれることもあると思います。
本当は、中学高校の英語や国語の先生がそういうことを上手に伝えて頂ければ、と思うところもありますが、
授業では、案外とそういうことはあまり教わらないのですよね。
駿台には、奥井さんという英語の先生もおられて、授業の話の半分は脱線で、みんな脱線の話を楽しみにしていたところがありました。
震洋というモーターボッとの特効兵器の乗員として訓練を繰り返していたときの話とか、してくれました。軍事オタクでもある量的には、忘れられない授業になりました。
予備校とか塾とかは、良い先生とは、いずれも「キャラノ立った」先生達ですね。
普段の読書の時の読み方や普段の考え方の一部も、さまざま影響を受けたことが記憶されます。
ようは、自分で勉強する気になる「何か」、自分のエトスを覗き込んで理解するきっかけが、学校、意外にあることが
肝のように思います。予備校にいったから合格するという「因果関係」だけで、ものを考えるのは狭い考え方でしょうね。
といっても予備校、塾の礼賛者ではありません。企業人さんとどうよう、「しかるべき参考書を自分で見つけて、頑張れば、国立大学にはいることは難しくはない」との考えです。そういう資質がある生徒には、勿論、中高が公立だって実際かまわないデスね。
信頼感さま、採用担当さま、適性さま、
「レッテル」の議論はとても大事な議論だと前々から思っています。
生きていく上で、「レッテル」でものを考える考え方は、良いか悪いか、というと必要悪に類するモノだと思います。人間が判断の処理速度を速めなければならなくなったとき、注目点を設定してそこで評価をしに行きます。絵画、音楽の芸術でも、誰それさんの演奏のCDだからちょっと内容を見てみよう、などということがよくあると思います。これはフィルターにかけて、絞っている訳です。クラシックを聴かない化t方は、クラシックのCDだと判れば手に取らない、とすることがあればそれは、意識無意識にかかわらずスクリーニングという作業をしていることになります。
なにか人の特性を議論するときにも、その人の所属する組織の様々な集合を記述して、その重なり(=部分集合)で、その人を浮かび上がらせようと人はします。曰わく、かれはこういう小学校-中学校-高校でそのあと○○などを経験して、大学は△□というところ、就職先は○☆△というところ・・・などと言うように。
で、今、就職の採用の場面であれば、もちろん多くの応募者のプロフィールをそういう観点で纏めて、理解しようというシーンは創造が可能ですし自分でもしていると思います。
でも、本当のところは、そういう作業とは、あまりにも受験者が多くて処理仕切れないから、
スクリーニングで使ったりする面が大きくて、本質的なセレクションでは勿論無いはずですね。
もっと、お金と時間を掛けて、ひとりひとりに向き合えば、違った評価方法、違った結論は出ます。
このような作業の丸ごとを否定して、もっと時間と金を掛けて何度でも丁寧にやれ、というのは理想論で、
他に優先度の高い仕事は沢山あるし、時間・金も限られていれば、これをやらざるを得ない。
そういうスクリーニングがワークする考え方であるかは、よくよく振り返りながらやる、こんあところが現実解ではないでしょうか。
話変わって、中学で、進学名門校、なんていうのも、「レッテル」を貼っていて、底に通っているひとは出来る、というイメージも、正しい間違っているかは様々あり、それらは「レッテル」デス。
レトリックを駆使したり、面白おかしく議論する場合には、レッテルを貼って持ち上げたり、くさしたりを繰り返しマスが、ちょっと考えるとそこには真実が無い、簡単化しすぎて正確さの多少なりともある議論しようもないことが多いです。その場合には、レッテルを矧がして、議論すべき内容を見つめ直すしかない。
私学の価値を「学校名」で議論したり、東大合格者数で議論するというのは、「レッテル貼」から出発した議論で、このような難しい問題にしては、出発点が間違っていますね。「進学校Aのよしあし」なんているのもその類ですよね。
レッテル貼はしないと現実解はないようなことも多いのですが、こと本質に迫る議論が目的ならレッテル貼は如何ですね。
って、「レッテル貼」という言葉に、レッテルを貼りに行った?と非難されるかもしれません。そこで出てくるのが、そもそも言語を使って、論点を出すという、「言語での切りだし」との違いがなんなのか、ですよね。
わたし自身は、「レッテル貼」ということばには、「・・本来そのように括って議論してもしかたのないようなことや、センセーショナル・感情的に対照群を括り名付けること」と言い、内容を議論しようとして、言葉を選んで付けて行って、議論を進めることを「言語化、言葉による論点の切り出し」というものの、実はこの問いは重い。
なぜなら、言葉による切り出しとは、「レッテル貼」に極めて近いことを本質的にしつつあり、言葉で纏めた瞬間、内容の深い理解はたしょうなり犠牲になるように思われる上、言葉で語ったことがまた影響を及ぼすという具合だからです。
それでも「言葉による切り出し」は、人間が、社会を営む上では不可欠で、書き言葉が比較的あたらしい地域もありますが、それは後進的地域の場合以外にも、”話言葉”もつ意味が、とても大きく、商業的な行為(契約とか含む)というものウエートが低かった地域の、社会の要請がそうさせたという要素さえあると思います。そいうところでは、人々が脳内に敢えて記憶している伝承こそ、Valueが高いという面も大きいと思います。
日本列島では、ながらく言語の痕跡は残っていません。勿論、日本の風土では書いた者は残りにくいという面がありまするモノの、商業の民フェニキア人がアルファベットを発明したようなニーズはなかったのでしょう。
今のようにインターネットか社会でも「言語の果たす役割」「使われ方」は、問われなければならないのですが、
忙しさ+情報の洪水、にかまけて、ますます、ものを考えないことに誘導される昨今の日本です。特に若い人にはその傾向が大きい。
必然的に、中高生の文字・言語によるの学びも、実は大変に深いところで影響をうけているように思います。・・・かれらはマスコミや本屋の平台にならぶような本の、表面的なフラッピーなもの、あるいは「レッテル」に、容易に反応し、左右される風潮のただ中にあります。
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