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【2339213】中学受験の副作用

投稿者: 問題提起   (ID:1pHT5OfLTaw) 投稿日時:2011年 11月 26日 15:06

何故中学受験組は「大学までの人」になってしまうのか?


米国の論文に掲載される化学現象を発見したのも、お受験私立ではなく、茨城の公立高校の数理科学同好会の生徒たち。


偏差値最高峰の東大理Ⅲからノーベル賞がでたことはないし、でる気配もない。
京大医学部を引っ張っているのは、高校生のときには京大医学部には届かなかったであろう、神戸大卒の山中先生。
医学の世界でのノーベル賞候補はiPS細胞の山中さんや公立高校出身の大阪大学医学部の教授。
東大模試でトップを切る偏差値最高峰軍団は、東大合格後どこに消えてしまうのか?
中学受験組は、大学入試では点がとれるのに、大学合格後鳴かず飛ばずになってしまうのは何故なのか?


仮説①:大学入試で結果がでるのは、フライング(小学校低学年からの勉強)とドーピング(鉄緑等の塾まみれ)によるもので、そもそも大した才能がなかった。
仮説②:小学生の時から点数でのみ評価されてきたため、点数がつかないことには興味を持てない人間に育ってしまった。
仮説③:小学生の時から勉強の目的が受験なので、東大合格とともに勉強する意味を失ってしまった。
仮説④:最初から答えがある問題を解く受け身の受験勉強に慣れてしまい、自分から関心のあるテーマを見つけ、研究するという自発的かつ積極的な学問ができなくなってしまった。
仮説⑤:小学校低学年からの点数や偏差値を目標とした塾通いで、未知に対する知的好奇心という、学者として(人として)大切なものを身につけることなく育ってしまった。
仮説⑥:小学校からの塾通いで、塾がなければ自分で勉強できない人間に育ってしまった。



参考ブログ「天才小学生たちはどこへ消えた?」
http://blog.livedoor.jp/kazu_fujisawa/archives/51655722.html



中学受験にのめりこめば、本当に大事なものを失うかもしれない。
中学受験をされるにしても、お子さんが「大学までの人」「受験勉強だけの人」にならないよう、副作用には気をつけましょう。

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  1. 【2387066】 投稿者: ハルヒ  (ID:VYEBIz7.5p2) 投稿日時:2012年 01月 17日 00:43

    >模試または駿台模試、偽名、優秀者、などで検索すればいろいろ出てくるところ。


    偽名と言えば、子供が受験生の頃「朝比奈みくる」さんが有名でした。
    1桁には入っていましたよ。

  2. 【2624478】 投稿者: 動機が大事だよね  (ID:h16oi7Ve1fY) 投稿日時:2012年 07月 20日 22:33

    心ある人たちが現行の中学受験についてどう思っているかまだ・・・・・分からない人がいるようだから灘高出身、東大医学部出身 月田承一郎先生のエッセイも引用しておきます。


    この反論として「では先生の子供は公立に行ったのか?」というのがありましたが今なら洛北や高校入試で堀川という選択もあったかもしれませんね。先生はもともと灘ですから私立中高一貫に対する私のような思い込みはないでしょう。・・・・・・・・それでも自分のころとまるで違う現行の中学入試に疑問を持ったということを・・・・・・よ~く読み取ってみてください。



    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    中学入試における異様な体験



    この冬は、息子の中学入試で大変だった。 普段あまり勉強の面倒を見てやれなかったので、年末の願書の提出から、1月10日から20日までの受験シリーズを徹底して付き合うことにした。 


    実際、自分の息子の試験でもないと、現代の中学入試の実態を肌で感じることはできなかったであろうから、大学に身をおく教育者の端くれとして、ある意味では貴重な体験の日々であった。 

    なぜ、この私的な体験について「つぶやいて」みようと思ったのかというと、大体、大学の教職者の多くは子供を持ち、多くはこのような中学入試の実態を親として経験しながら、誰もこれが「変だ」と騒がないのが、「変だ」と思ったからでもある。
      

    そもそも、中学入試の状況は、地域によっても異なるようである。 我が京都が存在する京阪神間は、全国でも屈指の教育熱(?)の高い地域のようである。 そういう僕も、神戸に生まれ育ち、「灘中高等学校」で6年間を過ごしたのであるが、僕が中学を受けた頃とは中学入試を取り囲む状況そのものが全く別物だと言ってよい。


    それを如実に表しているのが、灘中学校にもっとも近い小学校である我が母校、魚崎小学校から灘中学校に受かる人数の変遷である。 僕が灘中を受けた頃は、大体クラスの上位の人が各クラスから一人ずつくらいは受かったように思うので、10人前後はもっとも近い小学校から灘中学校へ移ったのではなかったろうか。 


    考えてみれば、これでも変で、それ以外の人はほとんど歩いて通えない距離から灘中に通っていたことになる。 ところがである。 最近は、ほとんど、魚崎小学校から灘中へ行ける人がいないというのである。 


    曰く、灘中は昔と違って全国区なのですよ、と。 それは、大袈裟にしても、かなりの子供が、かなりの長距離を通学しているらしい。 やはり、普通に考えると、これは「変」じゃぁないか?
      


    なんてことを、息子と受験事情に僕よりは詳しい家内と相談しながら受験校を決めて、願書を書き始めながら考えていた。 願書を4つくらい書いたか。 今から考えると、これも「変」な気がするが、自分の子どものこととなると、全く客観性がなくなっていたことに今になって気づく。 ほんの直前になって受験に関わり始めた僕でさえである。 でも、これは「変」なことの序章でしかなかった。



    まず、最初に、難関と言われる某中学校(念のため、灘中ではない!)の入試があった。 ひょっとしたら息子以上に僕は緊張していたように思うが、朝早く起きて、電車に乗って、入試会場へついていった。 びっくりした。 広い校庭中にテントやビニールシートがところ狭しと置かれ、息子は自分の通っていた塾の鉢巻きをして旗を持ったお兄ちゃんに「おい、月ちゃん、頑張れよ」と言われて、あっという間に、その塾の子たちが集まるビニールシートの方へ連れ去られてしまった。 そして、そこで始まるのは、入試直前ゼミである。 



    今、こうして書いていると、書いている方が恥ずかしくなって、笑ってしまうのであるが、そりゃ、そこで授業やれば、まさに「入試直前」ゼミに違いない。 でも、その途中で、となりのビニールシート、すなわち、息子が行っていた塾のライバル塾の方から、突然(に思えたのであるが)、シュプレヒコールが起こり始めた。 「XX中学校に絶対合格するぞー!絶対合格するぞー!」と、多分塾長と思われる鉢巻きしたおじさんに合わせて、子供たちが拳を天に突き上げて叫んでいるのである。



    度肝を抜かれていると、目の前の息子達の集団がヌクっと立ち上がって、もっと大きな声で「XX中学校に絶対合格するぞー!絶対合格するぞー!」と叫び始めた。 前で音頭をとっているこちら側の塾長も真剣そのものである。 このシュプレヒコール合戦が終わると、子供達は、鉢巻きのお兄ちゃんたちに誘導されて、試験会場へと消えていったのである。 


    その場にいると、馬鹿な父親である僕もシュプレヒコールの最中、「おー、頑張れよー!」と心の中で叫んでいたような気もするが、やっぱり、後で考えると、これも滅茶苦茶「変」である。 大体、誰の許可を得て、塾が中学校の校庭を使っているだろう。 塾に行ってなかった子が、この中学校を受けにくると、自分だけシュプレヒコールができなくて、とても不公平だ!? 我が京都大学の受験で、予備校にグラウンドを開放して、こんなことしたら、大変な問題になるであろう。 なぜ、中学入試だけ許されるのだ?
     


    息子が入試会場に入ってから、保護者控え室というところに、論文の材料を詰め込んだカバンを持ち込み、コンピューターを広げて仕事をしようとした。 が、無理であった。 そこにいたのは、ほとんどが母親だったのであるが、その母親の間の会話が強烈で、こちらの耳がロバ状態になり、とても集中して論文書きが出来る状態ではなかったのである。 



    ある母親は、「XX中学は、去年は何点までが合格で何点までがその後の補欠合格だったし、##中学はそれが何点と何点だっし、++中学は何点と何点だったし------」とすべてを諳んじていて、しゃべりまくっている。 ある母親は、壁に張り出された算数の入試問題を頭から解き始め、去年より難しいとか易しいとか議論している。 過去の問題を全部やって、覚えているのか? 


    試しに、横から問題を覗いてみて、またまた驚いた。 難しいし、量が多い。 これをどうして60分間で解けというのだ? でも、その母親は、この問題だと100点もいるだろうと騒いでいる。 


    嘘だろう! これが時間内に全部解けるということは、それは「数学(算数)」の実力とは別物だ。 小さい時から鍛え上げた曲芸のようなものだ。 まともに考えていたら絶対に時間が足らない。 まぁ、自分の子供を曲芸のできる達者な子供に育てることは、親の勝手で、とやかくいう事ではないとも思ったが(うちの子だって、曲芸を習わせるのが一般よりはかなり遅かったにせよ、習わせていた訳であるし)


    、一番僕が常識を疑ったのは、出題する側の良識である。 なぜ、このような曲芸のうまさで、子供を選抜しようとするのだろう? これが、本質的にものを考える子供を選ぶ方法として、明らかに不適切なことは、数学が好きで教育者になった人なら、当然分かるだろう。 



    何故だろう。 と、ボーと考えていたら、結局、大学の入試のあり方が、その根本にあるのかもしれないという、自省の念が生まれてきた。 6年制の私立中学・高等学校は、要するに「良い」学校として評価され、健全な経営を成り立たせるためには、世間でいう「良い」大学に卒業生を多く受からせなくてはならない。 




    これ自体は当然で責められることではない。 きっと、これらの学校は、本質的にじっくりとものを考えられるような(曲芸のできない)子を中学入試で取るよりも、信じられないほど鍛え上げられた曲芸の達者な子を取った方が、大学入試の結果が良いという判断(または経験)をしているのであろう。 



    普通に考えれば、そんな小さい時から詰め込んだら、人生の途中で疲れてしまうだろうと、誰でも思うが、とにかく大学に入るまでに燃え尽きてしまわなければ、私立中高の戦略としては、良いと言えば良い(正当な教育論としては良い筈はないが)のであろう。 


    この学校の入試説明会にいった家内が言っていたことを思い出した。 曰く「入試の時のトップ30人くらいは、そのまま大学入試までトップ30位以内を保つんだって」。 要するに、マラソンに例えれば、小学校の時から、トップ集団にいないと、後から追い上げようとしても、少なくとも大学入試までには、差がつきすぎていて追いつけない、すなわち先行逃げ切り型のランナーでなくてはならないということだ。


    この状況も僕らの頃とは、全く違う。 灘中高の僕の学年でも、高校3年生ぐらいから急激に伸びる友達が何人もいた。 でも、今は、このような追い上げ型の人間は、まず、中学入試でふるい落とされ、大学入試でふるい落とされ、どんどん人生の中でハンディを負うようになる。 



    これは「変だ」と言っているレベルではなく、ものすごく恐ろしいことではないか? 



    では、大学入試をどうすれば良いのか? 今のような形の選抜では無理なのだろう。よく言われているように、アメリカ的に入学希望者に対しては、門戸を思い切り広くして、大学の中で絞り込めば良いのか。 でも、そのためには、大学の教職者の数を大幅に増やすとか、設備も大幅に拡充するとか、そういった手当が絶対に必要である。ありきたりの結論になってしまった。 


    しかし、これもありきたりの議論であるが、教育は国の将来を決める根本である。 


    僕と息子の間のたった一世代で、これだけ変な方向に迷い込んでしまっている教育システムを抜本的に変えないと、孫の時代のこの国は駄目になるんじゃぁないか。
      


    この日を皮切りに、いろんな事を体験した10日間であった。 つぶやき疲れてきたので、このぐらいにするが、驚くこと、怒りを感じることの連続であった。  
     

    (中略)



    教育者である筈の僕が、こんなレベルの教育に対する認識かと笑われるかもしれないと、つぶやきながら考えたが、毎年講義をしている学生さんに「目の輝いている」子が少ないことが常々気になっていた僕にとって、少し謎が解けたような気がしたので、つぶやいてしまった。 でも、悲しい複雑なつぶやきではある。

  3. 【2624487】 投稿者: 投稿先間違い  (ID:h16oi7Ve1fY) 投稿日時:2012年 07月 20日 22:40

    間違えました(動機が大事だよね)

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