アートの才能を伸ばす女子教育
私立中学の価値ーゼロ
内容は、私立中学の価値から続く話題です。教育全般です
条件は1つだけ・・「最初から、誰かを、無視する意図がある人を除く」です。
動機が大事だよねさん
>どこかで「正義を行うものは敵を殺してもいい」という独善的な考えにとらわれてしまった。
戦時中の日本仏教も同じだったようです。以下はネットの別々の2箇所からのコピペです。
「戦争によって敵に殺すことが結果として多くの生命を生かすことにつながるのだから、正義の戦争であれば躊躇無く敵を殺してもいいのだ。いたずらに殺生を厭うことは「小乗的」な戒律解釈に過ぎない」という主張は、もともと戒律に縁の薄い真宗のみならず、広く近代日本の大乗仏教に共有されてきた。
やりすぎ度から言えば、日本仏教の戦争協力は、オウムのテロと比較にならない程罪深い。ただ戦争を是とする社会的合意の有無が違う。オウムは反社会的殺人肯定。日本仏教は社会的殺人肯定。形而上学で具体的な殺生の罪を誤魔化したのは同じ。
■スループさん
責任の取り方ですが・・
>わたしたちは、自分とは異なった価値観や行動様式をもった人々にたいして、より寛容な社会を築くよう努力する必要があると考えます。
は、一般論として、「わかります。」(私は相互承認で述べたとおり)
一般論を、「オウム」にもあてはめるなら・・
スループさんは
「オウムに対しても、より寛容で、好意的に対処するべき」だ。とお考えですよね。?
私は、結果的には、オウム(相互承認を破った後も)に社会が「寛容」であった部分が、暴走を止められなかった。
理由でもあると思ってますけど。
私は、殺人しなければ、相互承認が守られているとは思っていませんので。テロの、もっと前の段階です。
>適性さん: 不気味な人々を-------不気味と感じる
>わたし: 自分たちとことなる人々を--不気味と感じる
この部分については、違いますかね。
「自分たちとことなる人々」と認識しているから、「不気味な人々」 と思うことができるのです。
「自分たちと一緒」なのに、不気味と感じますか????感じないでしょ。
不気味とは、すでに、自分たちとはことなることが、大前提に近いのです。
>「テロに追いやった」は「わたしたちが彼らを追いやったので、かれらはテロの道を(選択肢の中から主体的に)
>選んだ」と読み替えていただければと思います。
読み替えしなけらば、ならないような表現は、どうなんでしょうかね。
それに、この表現は、どんな、犯罪者にあてはめられる書き方ですよ。
「追いやった」 は 加害者的立場の強調で
「追いやられた」 は 被害者的立場の強調です。
オウムの責任の、拡散、分散に、なりますよ。
NYの地下鉄はねんがらねんじゅうそうですよね。タクシーもいっぱい走っているけど。
公営だからこそ、できるんでしょうかね。
テロこそが世の中を変えていくっていうのが、日本においては、失われた20年の教訓でしょうね。
「赤報隊」は逃げ切って、日の丸賛美あたりまえの時代にしましたからね。
何かの事件があって、勿論、加害者の人が悪い事は当たり前ですが、それの一番の問題は被害者
であろうが、加害者であろうが、人生において両方ともにかなりのダメージがある事です。
それに関わってしまった人全員が、何もなかった以前に戻る事は出来ない事が、一番の問題だと
思います。これが、自然災害であっても一緒の事です。
それからは、又、違った人生を前向きに見て行くしか、選択の方法が無い事です。
宗教のことは本当に難しくてわかったような顔はできませんが、感じるところを2つ書かせてください。
一つは、オウム以外の宗教はマトモかという点です。信者の方が読んでおられるかもしれないので実名は避けますが、複数の新興宗教の教祖・主宰側の人を何人か知っていますが、彼らを外から見る限り、俗物・ペテンとしか言えない者ばかり。教義に至ってはオウムの方がマトモで、教祖の高校・大学の哲学の知識を切り貼りした教義(なんちゃって教義)のところが大手団体だったりします。私たちとは異なる、異様だというのが承認可否の基準だとすると、私にとってはほとんどの新興宗教はバツです。新興宗教だけでなく、京都のお寺さんの祇園あたりでのご乱行ぶりを見ていると、まさに俗物で、こういう人たちが法話を垂れるのには異様というか、強い違和感を感じます。
そういうことがあるので宗教は苦手なのですが、こういう人たちを全て否定する気にはなれない、というか否定してはいけない気が直感的にします、故に、承認できるか、否定すべきかの基準は、あくまで外に対しての許されざる行為ということにおいています。そんなこと言ってオウムを承認できるかと言われれば、彼らのその後の行動を知っている今となっては承認できるわけはありません。ただそういう行動に出ていない時点、あるいは出ているということ知らない時点ですでに否定してしまっていたのではないか、とのが問題になる点だと思います。
もう一つは相互承認です。異なる宗教の間で相互承認が成立しているかどうか、かなり怪しいように思います。例えばキリスト教とユダヤ教、イスラム教とその他全ての宗教は相互に承認することはない、相容れることはないのではと思います。ある意味で宗教は他に対して不寛容であることによって成立しているという面がある。それは内心の問題に留まらず、対外的な武力行使=殺人というのも延々と行われている。それぞれの言い分は、相手が先に相互承認を破った、なんだろうと思います。相手が破ったらこちらも行動にでるというのはまさに中東紛争を支えている論理であり、私はこの論理を承認してはいけないように感じます。
現実には、世の中には色々な思想があると思います。そして、実際に混ざり合った状態で普段の生活があると思います。では、反目すれば良いのでしょうか、又、同調すれば良いのでしょうか。それは、どちらも不可能な事だと思います。
私たち一人一人が生活する上で安心と安定を手に入れるのに一番大事な事は、生活の上で弊害があるかどうかだと思います。一般の人の知らないところで、支障の無い行動をされていれば問題は無いと思います。
但し、洗脳を強制されてしまった人たちは、被害者であり、加害者であると言うかなり難しい立場だと思います。
この様な場合は、矛先については信頼出来る専門家の助けが必要だと思います。
一般の人においては、生活において無害である事が一番大事では無いかと思います。
>「オウムに対しても、より寛容で、好意的に対処するべき」だ。とお考えですよね。?
はい、そうです。過去においては、信教の自由という点から、犯罪行為をおかすまえのオウム真理教にたいしてより寛容に接するべきであったと思います。現在または将来においては、オウム真理教の流れをくむ宗教団体とその信者にたいして寛容に接するべきと思います。
>私は、結果的には、オウム(相互承認を破った後も)に社会が「寛容」であった部分が、暴走を止められなかった。
理由でもあると思ってますけど。
社会の寛容性ではなく、警察の無能がその理由であったと思います。
>私は、殺人しなければ、相互承認が守られているとは思っていませんので。テロの、もっと前の段階です。
犯罪行為のあるなしがひとつの基準になると思います。
>不気味とは、すでに、自分たちとはことなることが、大前提に近いのです。
この点についてのわたしの意見は反対ですが、いまはじゅうぶんな時間がとれませんので、機会をあらてめさせていただきます。
>それに、この表現は、どんな、犯罪者にあてはめられる書き方ですよ。
たとえば裁判で「情状酌量の余地なし」とされるようなばあいには、おそらくこの表現はあてはまらないのだろうと思います。
>オウムの責任の、拡散、分散に、なりますよ。
「わたしたちにも責任の一端がある」というのがわたしの主張ですので、そういうことになります。































