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【2444410】私立中学の価値ーゼロ 

投稿者: 適性   (ID:RfnxxivKKcs) 投稿日時:2012年 02月 25日 16:18

内容は、私立中学の価値から続く話題です。教育全般です

条件は1つだけ・・「最初から、誰かを、無視する意図がある人を除く」です。

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  1. 【2581589】 投稿者: 適性  (ID:8dwRaJ3Aa1Q) 投稿日時:2012年 06月 15日 17:39

    ■高校生親さん

    **********************************************
    ただ、だからと言ってテロ行為、人の命を奪う行為は許されない、というのが譲れない一線ではないでしょうか。私がオウムを承認しないのはこの点、人の命を奪ったという一点です。ライフスペースも同じです(そもそも宗教と言える程度の教義があったか、という点は別として)。
    **********************************************

    私は・・人の命を奪ったという「一点」だけでなく。

    拉致も、隔離も、薬物も、虚偽(騙し)も・・承認できません。
    多くの信者の「未来」を奪ったことも・・承認できません。

    **********************************************
    「攻撃性」は内心に留まっている限り否定はできないように感じます。それが物理的暴力として外面化した時には絶対否定するのが私の考えです。
    **********************************************

    そうですね。
    物理的(そして精神的)暴力として、『外面化』したら、社会的に否定されるのは「当然」です。



    ■スループさん
    **********************************************
    もしかしたら、オウム真理教をテロ行為に追いやったのは、自分たちとは価値観のことなるかれらを、異様なもの、不気味なものとしてさげすみ否定した、わたしたちの心ではなかったでしょうか?
    **********************************************
    というのは、いくつかの点で違和感があります。

    すべての社会的問題が、社会的背景や、社会の人々の心が、作り出している。
    という、単なる「一般論」としてならともかく・・・

    もしかしたら・・とは書いてありますが、テロ行為は「わたしたちの心」の「責任」なのでしょうか?
    また、本当に、「わたしたちの心」が「追いやった」のでしょうか?


    私たちの「心」と「行為」を段階を追って書いてみます。

    ①異様なもの、不気味なもの を見て、自然と「異様、不気味」と感じる

    その心は、否定されるものではありません。反応ですから。

    ②異様なもの、不気味なもの だから「蔑み 否定」する

    これは、ダメだとは思いますし。そう教育されているでしょう。簡単に結びつけてはいけません。
    しかし、内心で、そう思ってしまっても、それは、他人は強制できません。
    それに、警戒心を持つことも、普通です。警戒心あるうちは、距離をとるでしょうね。

    次に、現実的に。思うだけでなく、行為、攻撃までいく。

    ③異様なもの、不気味なもの だから「蔑み 否定」し「攻撃」する。

    しかし、そこまでした人は、いるのですか??(※反社会性がないという時点で)


    ①と②という、「わたしたちの心」が、テロ行為に『追いやった』・・

    それは、オウムは「追い込まれて」しかたなく、テロをしたというのでしょうか??
    そういう表現に思えます。とても違和感がありますね。

    テロは①と②という、「わたしたちの心」の「責任」とまで言えるもの、なんでしょうか??



    知り合いのマナー講師の話です。

    客の自宅で作業する、作業員の、服装、身だしなみ、態度について・・・講習したそうです。

    「たしかに、どんな格好でしようが、『する作業は同じ』だと思っているでしょう。
    それは、そうです。
    そして、どんな、格好するのかは、確かに、あなた方の自由でしょう。
    しかし。あなた達は、常に、ほぼ「初めて」お客様の家に伺うわけですよね。
    有名な会社の名前が入った作業服は着ているが、髪は伸ばし、茶髪で、胸元はだらしなく、挨拶も適当、私語も多い・・なら、その家の人は、「不安」になるのではないですか?いい気分にもならないのではないですか?少しのミスも気になるかもしれません。評価も低くなるかもしれません。

    では「不安」になるのは、その人のせいですか?見た目で判断する、お客様が悪いのですか?

    そうさせている、あなた方です。

    「不安」にさせたり、気分を害したり、してほしくないのなら。
    誰にでも「安心」して、受け入れられる、服装、身だしなみ、態度を、あなた方が、積極的に提供することになります。

    マナーとは、「形式」ではなく、相手を不快にさせない為にする「気配り」ことです。相手を気遣うことが前提です。

    この話は・・つまり・・自由でいい・・奇抜でもいい・・ちゃんとリスクを自分で受けなさい。
    「人のせい」にするなってことです。

    同じです。
    私は①②までは、そう思ってしまう「心」の責任ではない。と思っています。
    「責任」は、異様なもの、不気味なものと感じさせている側にあるのです。

    人は、危機回避の為に、異様なもの、不気味なものから、離れようとするのは、しょうがない。
    あぶない目をした人には、近づいてはいけません。
    もし、それが、問題ないと分かれば、普通に対応すればいい。

    それから・・
    オウムの物理的(精神的)暴力が外面化する前に
    ③の「攻撃」が、酷く、
    その反発として、暴力が外面化したのですか????

    そうであるなら、③は批難されるべきだと思いますけどね。トリガーになってますから。

    このテロ行為に関しては・・
    麻原は、たしかに社会の理不尽さを感じて、反社会的になった部分があったとしても・・・
    社会や、人の心が、あの行為に「追いやった」という表現には、私はしませんね。

    「追いやった」「追い込まれた」というのは、他に取るべき道がない、もっと切迫した状況です。

    麻原のやったことは、もっと「主体的」「選択的」な行為だと思っています。

    *********************************************************
    だれしも内心に攻撃性を隠し持っていると思います。それを肥大化させ外面化させたのには、まわりにいたわたしたち自身にも責任の一端があるのかもしれません。
    *********************************************************

    オウムの話で①②の段階で、具体的に、私達は、なにか、できることがあるのですか?

    「確かに、わたしたちは、責任の一端はある。オウムにもっと好意的であるべきだった」
    と、反省や、懺悔の気持ちを持った方がいいとも・・思えません。

    オウムのもっと 好意的であれば、テロは起きなかったのですか?(それは無理でしょう)
    オウムを国会議員に全員当選させて、麻原が、総理大臣になれば、さすがにテロは起きなかったでしょうけどね。

    責任の一端があると思うなら、どのような責任かを理解し、反省し、なんらかの方法で、その責任のとるべきでしょう。

    私には、社会を構成する一員としては、どんなことにも、まったく責任がないわけではない・・というぐらいの曖昧なものとしか感じられないのですが。


    高校生親さんの
    **********************************************************
    >私も改心(会心じゃないですね)プロジェクトと軽口を叩きましたが、彼らを改心させようという裏に人の内心を否定することになってしまう痛みは感じていました。
    *********************************************************
    は、たしかに、相手の内心を否定する行為をしないと、説得になりません。痛みが伴うでしょう。
    でも「異様なもの、不気味なものとしてさげすみ否定」したのではなく「社会的に問題がありすぎる」と確信しているから、説得したのだと、思います。

    「社会的に問題がありすぎる」と確信してるなら、手を出せるなら、出していいのだと思います。
    そうでないなら、カルトや、占い師に、洗脳された、人を説得、奪還することも、否定されますからね。


    それから、

    「自分たちとは価値観のことなるかれらを、異様なもの、不気味なものとしてさげすみ否定」し、「攻撃」することは・・前に、書いたように、「相互承認」に反すると思っています。
    私は、基本的には「相互承認」からスタートする方がいいと思っています。

    (しかし、オウムはすでに「相互承認」を破っています。)

  2. 【2581709】 投稿者: 高校生親  (ID:PRfb5WRAKHY) 投稿日時:2012年 06月 15日 19:11

    適性様


    人の命を奪う一点に限る必要はない、限るべきではないのかも知れません。拉致も、隔離も否定するべきだというのも良くわかります。ただ、私は主義主張の為に外的な行動に出るということを否定しきれないんです。全共闘世代にはさすがに間に合っていませんが、その残党がまだ高校にはいた世代で、彼らの、力で破壊するべきものが世の中には沢山あるという主張を心情的に否定できなかった経験が影響しているのかも知れません。ただ、外的な行動の中で命を奪う事だけは許せない。相手の将来に向かった全ての可能性を消し去ること、つまり命を奪う事は誰にも認められていない、という考えが私にとってギリギリの一線です。


    わたしたちの心が追いやったという部分ですが、スループさんの考えは分かりませんが、私はさすがに私たちの内心の動きが追いやったとは思いません。また、私自身、そういう心に基づき彼らを迫害する行為を行った訳でもありません。しかし回心させようとする時に、(その時は少なくとも私は、彼らが拉致、隔離、殺人を行っているという認識はなかった)少なくとも彼らのことを理解しようとしたか、新興宗教なんてマトモな訳はないという思い込み、色眼鏡で行動しなかったかという点に痛みがあります。こういう態度が、マスコミによるバッシングを支えることになり、それが追いつめることにならなかったか...。マスコミにとっては格好のネタでしたよね?。そういうことにこそ簡単に乗るのではなく、本当は何を言おうとしているのだろうと理解することが必要でなかったか。


    勿論私一人が理解しようと思おうがマスコミには関係ないというのが事実でしょう。しかし、そう思ってしまってはいけないように感じるのです。妄想かも知れませんが、それが例えば国家権力による特定思想の迫害などの根っこになっていくのではないか。例えば大本事件のような例です。大本教は今でも生きているので、詳しくは申し上げませんが、国家による宗教迫害の典型的な例です。今の時代では起こりにくいだろうとは思いますが、やはりそれを支えるのは我々の心なのではないか。適性様の言葉をお借りすると、相互承認が重要ということなのだろうと思います。


    済みません。相変わらず上手く書けません。意見を戦わせる目的でないことはご理解ください。

  3. 【2581972】 投稿者: 公立一貫  (ID:vclT8GuPNYk) 投稿日時:2012年 06月 15日 22:25

    ハリーポッターさん


    > 特に長男は超の付く頑固者ゆえ、反抗期も激しく、中学高校時代は親の言うことの
    > わざわざ反対をやらかすことに決めていたそうで、会話?コミュニケーション?何のこと?という状態でした。


    親と一緒で、我が家の息子も超頑固者でした、わざと反対のことをしていたかどうかまでは判りませんが、自分の
    決めた通りに物事を進めました。
    会話?コミュニケーション?何のこと?→ここまでは極端で無かったかもしれませんが疎ましかったのでしょう。
    それなりの反抗期でしたよ。


    > その長男も、大学生になってすっかり穏やかになりました。相変わらず頑固なところもあり、普通に話をしてて
    > もすぐ議論にな っちゃうのですけどね。


    まあ、大人になったのだと思いますよ、だんだんと頼もしさも出てきたのだと思います。


    うちのも専門課程の進路がやっと決まり、今後応用生命科学の方に進めるようです。
    高校1年時に応用生命化学への道を志すも、大学入学後教養学部で挫折、ついこの前までは文系企業を目指す
    などと言っていましたが、当初希望していた専門の道を進める可能性が出てきたので、この選択は親としても
    ほっとしています。


    > 大学の構内は、ところどころ建物が新しくなっているものの、ほぼ昔どおりなのに対し、
    > 住んでいた下宿のあたりはすっかり変わっていました。
    > そんななかで「おぉ!あの喫茶店、まだやってたか!」とはしゃぐ父親を見て、息子たちも、
    > 髪の薄くなった親父にも若き悩める日々があったことを初めて知った!みたいな顔をして面白がっていました。


    ご主人の心境手に取るようです。
    私も原点に帰りたいとき、母校のキャンパスを訪れます、私の下宿もなくなり雰囲気もだいぶ変わってしまいましたが
    大学前にある古びた喫茶店は、学生時代と変わらず私たちを迎えてくれるのは本当にありがたいです。
    日曜日なんか結構OBが来ていますよ、どちらからといわず全くの見ず知らず同士なのに、いつの間にか思い出話をして
    しまうなんてことも時々あります。

  4. 【2582136】 投稿者: 通りすがりの企業人  (ID:ViYpP5Zy2r2) 投稿日時:2012年 06月 16日 00:26

    オウムの信者で、個人的に知っている人はいないので、何とも言えないのですが、麻原の俗物ぶり、ペテンくらい、見抜けよ、と思ってしまいます。前にも書きましたが、美人信者に汚いゾウの着ぐるみを着て踊らせ、自分は黒塗りの大型ベンツで悠然と乗りつける、その勝ち誇ったような顔を見て、吐き気がしました。

    オウムでないカルトにからめとられた人は、自分でものを考えない人だったかどうか、私にはわかりません。しかし、その数人の顔を思い浮かべると、全員、おおだやかで優しいんですね。競争から自ら降りてしまうようなところがある。

    これに対して、私が学生のころも残っていた反社会的学生団体にはいってしまう人は、はいってしまう前から非常に攻撃的でした。

    高橋も菊池も平田も、17年の逃亡です。彼らの人生を棒に振らせるようなマインドコントロールは、いったい何だったんでしょうね。

  5. 【2582310】 投稿者: 動機が大事だよね  (ID:.4bmfQVt51w) 投稿日時:2012年 06月 16日 08:07

    >全共闘世代にはさすがに間に合っていませんが、その残党がまだ高校にはいた世代で、彼らの、力で破壊するべきものが世の中には沢山あるという主張を心情的に否定できなかった経験が影響しているのかも知れません。



    全共闘世代が仙谷や菅直人です。当時は左翼であらずば人に非ずという風潮でよく勉強する真面目な学生が学生運動を主導したものです。


    転機は連合赤軍とよど号乗っ取り事件でしょうか。鉄球が浅間山荘の壁を崩し機動隊員が狙撃され運び出されるのを一日中テレビで見ていました。


    永田弘子や森の命令でリンチ殺人が行われ多数の活動家が殺されました。
    連中も読書し議論しいろいろ考える人たちのはずだったのだが・・・・・・どこかで「正義を行うものは敵を殺してもいい」という独善的な考えにとらわれてしまった。


    行くところまでいっちゃうのが純粋で本物。途中で日和見したり離脱するのはいい加減・・・・・・・と言われると・・・・「まあ、ちょっとその辺は自分はついていけないな」・・・・・となってサラリーマンやその他になって世間に入っていったのが大多数。


    でも社会主義に対する盲目的な崇拝や憧れはその後のチェコ侵入やカンボジアの大虐殺、中越戦争などで次第に薄れていきました。


    ・・・・・・そしてバブルを迎えてオウムの出現だ。



    バブル時代の日本人は確かにとちくるっていたと思う。筑紫哲也が番組で山手線の終夜営業を(タクシーがつかまらないので)大真面目に提唱していたのですから。

  6. 【2582329】 投稿者: 凡才  (ID:J5L3OiX8KfY) 投稿日時:2012年 06月 16日 08:26

    宗教の話ですので、一般人には立ち入れない部分がありますが、少なくとも関係のない一般人

    に危害を加える、ましてや、人を殺めるなどもってのほかの行為だと思います。

    私は、指名手配犯が次々と捕まる事により、何かを後ろに隠しているようなとても嫌な気分が

    あります。

    捕まったと言う事より、その後ろにある問題から目を離さないようにしないと、きっとまた何か

    起こるのでは無いかと思います。

    この様な問題こそ、終わりが来る事無く続いているので、一般人としては出来る限り色々な事に

    目を光らせて注意する必要があると思います。

  7. 【2582795】 投稿者: スループ  (ID:Zd9T1xtkKcI) 投稿日時:2012年 06月 16日 15:25

    適性さん

    わたしのコメントを詳しく分析したいただきましたので、すこし補足させていただきます。

    >すべての社会的問題が、社会的背景や、社会の人々の心が、作り出している。
    という、単なる「一般論」としてならともかく・・・<

    オウム真理教の問題をかたるにあたっては、この一般論(=一般にあてはまる論)をわすれてはならないと思います。

    >①異様なもの、不気味なもの を見て、自然と「異様、不気味」と感じる

    その心は、否定されるものではありません。反応ですから。<

    この①はわたしの述べた内容とは異なっていることにお気づきでしょうか?わたしは「自分たちとは価値観のことなるかれらを、異様なもの、不気味なものとして」と書きましたので、対照するとおおむねつぎのようになります。

    適性さん: 不気味な人々を-------不気味と感じる
    わたし:  自分たちとことなる人々を--不気味と感じる

    適性さんのばあい、対象となっている人々が不気味であることは既定の事実として取り扱われています。ですので不気味と感じるのは「自然」だし、「否定されるものではない」という主張になるのでしょう。マナーの例から『「責任」は、異様なもの、不気味なものと感じさせている側にあるのです。』と帰結されるのも同じ理由によるのでしょう。

    わたしは、不気味と感じるかどうかは、対象となる人々の外見や行動様式だけでなく、感じる側の異質なものにたいする寛容度などにもよると思います。わたしたちの社会は、この点において改善の余地があると思います。

    >②異様なもの、不気味なもの だから「蔑み 否定」する

    これは、ダメだとは思いますし。そう教育されているでしょう。簡単に結びつけてはいけません。
    しかし、内心で、そう思ってしまっても、それは、他人は強制できません。
    それに、警戒心を持つことも、普通です。警戒心あるうちは、距離をとるでしょうね。<

    この点は適性さんのおっしゃるとおりと思います。

    >③異様なもの、不気味なもの だから「蔑み 否定」し「攻撃」する。

    しかし、そこまでした人は、いるのですか??(※反社会性がないという時点で)<

    ここもなにかの誤解があるようですが、わたしは「攻撃する」とは申していません。「蔑み 否定」については、高校生親さんが指摘されたように、バッシングやいやがらせはあったと思います。

    >①と②という、「わたしたちの心」が、テロ行為に『追いやった』・・

    それは、オウムは「追い込まれて」しかたなく、テロをしたというのでしょうか??
    そういう表現に思えます。とても違和感がありますね。
    テロは①と②という、「わたしたちの心」の「責任」とまで言えるもの、なんでしょうか?? <

    下に同じご質問がありますので、そちらでお答えします。

    >それから・・
    オウムの物理的(精神的)暴力が外面化する前に
    ③の「攻撃」が、酷く、
    その反発として、暴力が外面化したのですか????

    そうであるなら、③は批難されるべきだと思いますけどね。トリガーになってますから。<

    先に申し上げたように、わたしは「攻撃」ということばは使っていません。

    >このテロ行為に関しては・・
    麻原は、たしかに社会の理不尽さを感じて、反社会的になった部分があったとしても・・・
    社会や、人の心が、あの行為に「追いやった」という表現には、私はしませんね。
    「追いやった」「追い込まれた」というのは、他に取るべき道がない、もっと切迫した状況です。

    麻原のやったことは、もっと「主体的」「選択的」な行為だと思っています。<

    表現が紛らわしかったですが、これについてはわたしは適性さんと同じ意見です。「テロに追いやった」は「わたしたちが彼らを追いやったので、かれらはテロの道を(選択肢の中から主体的に)選んだ」と読み替えていただければと思います。わたしたちがかれらをテロしかない状況に「追い込んだ」のではないのは、そのとおりと思います。

    >オウムの話で①②の段階で、具体的に、私達は、なにか、できることがあるのですか?

    「確かに、わたしたちは、責任の一端はある。オウムにもっと好意的であるべきだった」
    と、反省や、懺悔の気持ちを持った方がいいとも・・思えません。 <

    わたしにも責任の一端があると考えるのは、「わたしたちが彼らを追いやったので、かれらはテロの道を選んだ」の前半部分にたいしてです。それについては、わたしたちは、自分とは異なった価値観や行動様式をもった人々にたいして、より寛容な社会を築くよう努力する必要があると考えます。

    >オウムのもっと 好意的であれば、テロは起きなかったのですか?(それは無理でしょう)<

    やはり起きたかもしれませんし、起きなかったかもしれません。

    >責任の一端があると思うなら、どのような責任かを理解し、反省し、なんらかの方法で、その責任のとるべきでしょう。<

    2つ上でお答えしたとおりです。

    >私には、社会を構成する一員としては、どんなことにも、まったく責任がないわけではない・・というぐらいの曖昧なものとしか感じられないのですが。<

    最初の「一般論」のところでのべましたように、この点が重要だと思います。ふたたびおなじような悲劇がおきないよう、オウム真理教の事件を、わたちたちのコントロールのきかない災害としてとらえるのではなく、わたしたちの社会の問題ととらえ、そこから教訓を学びとる姿勢が大切だと思います。

  8. 【2582839】 投稿者: スループ  (ID:Zd9T1xtkKcI) 投稿日時:2012年 06月 16日 16:23

    高校生親さん、

    高校生親さんの適性さんへご返事には、わたしはとても共感します。

    ありがとうございました。

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