アートの才能を伸ばす女子教育
私立中学の価値ーゼロ
内容は、私立中学の価値から続く話題です。教育全般です
条件は1つだけ・・「最初から、誰かを、無視する意図がある人を除く」です。
通りすがりの企業人さま、
こんばんは。ご無沙汰しております。
また、ボチボチ書きたいと思います。適当にお付き合いをいただければと思います。
以下、雑文/乱文で失礼します。
彼ら(若者)を観察したり、高校のセミナーの後などで直に話したりして、わたしが理解してきたことは、思いつくままに4点ほどです。
1) 学ばなければいけない、という「切迫感」あるいは知ることへの「飢餓感」は、われわれの時代ほどにない。
2) 「知識全体」はWEBにあるからいつでも検索できる。情報は逃げない。「これはという情報」を追求することに重きは置かれてない。
3) 人生については、高校で、主な「知識」をインプットしてもらえば事足りるか、概ね良いはず、と素直に信じている。
4) 「思考」については、先人がだれか考えているだろうから、結果だけ教えてネ。入試問題で問われるのは、仕方ないから対応はする。
しかし、できたら考えることでよりも、パターン認識の繰り返しで、対応する。(※)
というわけでありまして、
”自分の周辺、子供たちの周辺を見て、圧倒的に読書量が不足していることを感じます。通勤電車の中で、少し空間があると、中年以上の人が日経や文庫本を読み、若者はスマホ、という感じ、しませんか。”
という現象には、全く同じ感覚です.(社会人もノウハウ本・実務本・ビジネス本という頭を使わないものを読んでいる人が案外に多いようにも思います。気のせいかもしれません。)
では、考えるということを放棄した「(若い)日本人」がマスとして増えることは、そもそも、良いか悪いか、これについては慎重な議論が必要なのでしょう。・・「ゆとり教育」では、おそらく出来る生徒はよりでき、できない生徒はより怠けてできないという状態で高校を卒業していました、これは勉強にとどまらない。ですから、「ゆとり教育」世代の方がトップ層は伸びて、オリンピックなどでも活躍できる。それは一芸に秀でていて、立派な自己実現でしょう。 これはまた、授業の密度アップで根本から見直されはじめたところです。
すこし掘り下げてみます。
(1)一部のひと、例えば1-2%の人がしっかりすれば良いか?
例えば、確かに若者の平均的な読書量は少し下がっている、思考力も実際に下がっていることは各種の国際比較や、東大、慶大の学生対象の追跡試験、(=同じ問題で経年変化を見たもの)などでも出ているけれども、優秀な奴は優秀だということに、どこかで、もしなれば、一概に悪いことではないのかもしれません。
わたしは最近、知的な領域で、考えることができる日本人の若者を全くと言って良いほど、不幸にして見てはいません。それは、いないということではなく、分野によっては、どこかに1ppmくらいはいるのだろうと希望も込めて思います。出来ると感じた生徒は見ていませんが、ひょっとして伸びたら見込みあるのかなと思える生徒は、1-2名は見ました。
それがほんとにいない、となればいよいよ日本の教育の大失敗でしょうし、
これから、人口も減り、高齢化する中で、世界人口は増加する。2050年には、本気でまずいでしょう。(※※)
(2)上半分の底上げも?
以上がこれまで考えてきたことなのですが、最近は、考えを変えて、一部の人がものを考えれば良いということはないのだと思いはじめています。日本は、世界でも与論やマスコミの意見が、制作に反映されやすい国で、政治のイニシアティブは弱いですね。一部の優秀な人が動かそうとしても国民がついてこないと動かない。これは、世界の中で、日本ほど特異的に人口密度、主王妃エネルギ-密度が高い国は他にはなく、脱~帝国主義・資本主義の国の「キャラ」を21-22世紀に作るとすると、ユニークな「キャラ」にならざるを得ず、国民の知的貧困は、場合によって母国の国土に社会的な居所が得難い(=住みにくい)という世界が想像されるからです。世界中でこのような可能性のある国の一番手は、日本ではないしょうか。
こういう発想をすると、ごく、1-2%の話ではなく、高等教育での、上半分くらいの”普通の”生徒について、底上げも見過ごせない教育課題なのでしょう。今後は、この辺を記述する表現力が教育に携わる官僚に求められてくるように、わたしには思われますし、企業人全般も、発信すべきメッセージに思えます。日本という国のキャラは、知的かつワイルドな国でないと、「キャラ」としても。世界において生き残れないと思います。
いかがでしょうか。
アメリカのようになることはありませんが、テクニックとして、アメリカに学べることはまだまだ、多いと思います。
この点は、Agreeです。
(※)
この部分は、中学受験の算数の例、「立体の問題」でまず、書いてみます。
子供の受験で、大手塾で間近に見た衝撃を思い出します。
TK,SGなど算数が難しいとも言われる学校で、立体の切断の問題は、かなり寝られたものがポツポツ出ます。
頭を使うようなものに見えます。・・・しかし、子供の通っていたSAPIXという大手塾では、まとめた問題資料の
反復練習を最後の最後、入試直前に狙いすましたように行なって、対応しているのですね。
よくよく見るとTKやSK問題も問題それ自体は良いのですが、「パターンで対応できる」程度の難問題なのです。
したがって、塾の対策は理由のあることで、じっくり考え得る児童は、パターン認識の繰り返しをした生徒よりも点がとれない。
・・・つまり一言で言えば、問題が塾の対策に屈服しているのです。
で、最近気づいたことは、以前は、私立大学にとどまっていたこのような類似の大学入試での現象が
これが名だたる国立大学の大学入試にも影響している可能性があるように見えるということです。
(※※)
2050年には今、70億人の人口が91億人に、日本の人口は、1.2億から、0.8億人へ、さらに高齢化の極みになる。そこで、GDPも世界の1%を切るような存在になり、しかも、若い世代にもし「考える力」が備わっている人がでないならば、相当に大変。陸奥宗光のような優秀な人は、おそらく揺るぎない知的環境の中で、バーチャルでない生活感覚を失わず、兄弟・家族・友人など、強烈な対人関係の中で揉まれてできる(=珠も磨かずば光るまじ)上に、揺るぎない勉強をしているはず。これが実現するには、公立か私立かという不毛な議論よりも、「形式的卒業主義」「現役合格主義」を放棄して、駅弁大学的な大学が少子化で淘汰されて、真に競争的になった時に、回復されるかもしれませんね。それが、社会のエリートとちう形になれば、大多数の国民の支持は得られない状況ですので、そのあたりの教育プロセスと、キャリアパス作り込みが必要でしょうか。
地域・時代さん、
お返事に感謝です。
<地域・時代さんWrote>
真の学びの中には、臭い言葉で言えば、汗や涙がある。
決してそれはお手軽なものではないんですよね。
泥臭い作業がそこにあるような気がします。
・・・全くと言って良いほど、接点のないような世界にお互い生きていて、使う単語すらもおそらく違う地域・時代さんと、会話が成立することが多いのは、世界をバーチャルとリアルの両面、常に見ようとする点で、基本線が大変に近いからなのでしょうね。わたしはこどもに、「『君たちの学び』は、うわっつら知識で満足しやすく、基本、バーチャル偏重だと思われる。そのために、かえってワクワクすることがこぼれ落ちていて楽しくないのでは??」と伝えています。たとえ、高校生としては、遠回りでも、何事もコンテクスト(文脈)全体を受け止めて、大きく考えることをボチボチ積み重ねたら?と言ってみてます。・・・大学時代・大学院時代で「得られる知の矮小化」という症候群を避けるには、まずは、中学・高校からの良い学びの習慣だと思います。
量的様
「うわっつら知識」
ああ、、わかる気がします。
人は自分の経験していない世界は推測、憶測するしか出来ないのですよね。
ですので、『想像』する。
ほぼ日の中でイトイさんが「自分と全く違う分野の人から言われた事でハッとする事がある」と書かれていますが、私はその言葉はすごく良くわかります。
ただ、、、「実際にそれを実現していく」のは「やってる人達」なのですね。
イトイさんの場合は、「実行していくのはイトイさん」なんですよ。
周りの人に支えられながら。
バーチャルの世界で気をつけなければいけない事は「自分のキャラをおいてきぼりに出来る事」かと。
誰だって夢の中では社長になれるし、政治家にもなれるし、オリンピック選手にだってなれる。
幸せなお母さんにだってなれる。立派なお父さんにだってなれる。
しかし、現実は「その立場になるまでの道のり」にこそ、大切なものがある、というのが私の考え方です。
そこの部分がバーチャル世界では「体験」出来ない。これがバーチャル世界の限界でしょうね。
ある日目が覚めたらオリンピック選手になってるんじゃない。
一つの国の王様になってるんじゃない。
医師になってるんじゃない。
企業人になってるんじゃない。
芸術家になっているんじゃない。
幸せな家庭の親になってるんじゃない。
そこに至るまでに千差万別の物語(ストーリー)がアル。のですね。
バーチャルの限界は「そこ」にある。と私は思います。
■地域、時代さん
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ある日目が覚めたらオリンピック選手になってるんじゃない。
一つの国の王様になってるんじゃない。
医師になってるんじゃない。
企業人になってるんじゃない。
芸術家になっているんじゃない。
幸せな家庭の親になってるんじゃない。
そこに至るまでに千差万別の物語(ストーリー)がアル。のですね。
バーチャルの限界は「そこ」にある。と私は思います。
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そうだと思います。
千差万別の物語(ストーリー)がアル = それこそ『リアル』であって。大切にする必要があるのでしょうね。
教育現場こそ、子供の「リアル」であって、良い部分は、守る努力が必要です。
教育現場に存在する「良い部分」を、私立も公立も増やすことは、問題ありません。
適用範囲を広げ、深く、意味ある学びを、多くの(教育現場)場所で、提供可能にするのですから。
しかし、ある種の、「理想論」から、私立に「良い部分」がないという断定のもと、私立の「良い部分(多くは、親子とも満足している部分)」を『削る』方向に流れをもっていくことは、決して、良い結果にはならないでしょう。
「ある」もの、使う。
「ある」ものを、壊すと、なかなか、元に戻らないということは、公立の歴史が証明していますからね。
公立を、ある意味壊したのも、ある種の「理想論」でしたね。
■量的さん
>日本という国のキャラは、知的かつワイルドな国でないと、「キャラ」としても。世界において生き残れないと思います。
知的 かつ ワイルドですか~。そして、「考える」・・・
よく知識が先か、思考が先かという話になりますが・・平行すべき課題で、バランスの問題だと思っています。
そこを、リードする、先生?師?という、「存在」が・・ないのが、気になります。
適性様
おっしゃる事すごく理解出来ます。
バーチャルの弊害の一つに物語性がないからでは?という私の考え方をベースとすれば、ストーリーのないところに教師や師は「存在しない」のですね。
私がバレーの想い出話をする時、そこには「バレーを教えてくれた学校の先生達」がいて下さった。
自分の仕事の話をする時、師と仰ぐ方がおられ(その方の事はここでは書けませんが)、素晴らしい方達の存在があり、私は彼等から叱咤激励、時に嫉妬など、色んな「心の交流」を経て今に至るわけです。
これは、皆そうでしょう。
私は00という仕事をしています。
私は00ちゃんのお母さんです。
そう自分の立場を一言で語る裏には、苦労、涙、喜び、感激。色んな感情が伴い「今」があるわけです。
それが「経験」「リアル」なんですね。
ネットで、メディアで、どんな情報に触れても、それを通すフィルター(読み手、みる側)のフィルターに「色」が付いていれば、自分の都合のよいように何とでも解釈出来るよな、、私はそのようにいつも思っております。
バーチャル(ネット、自分の分野外の情報)の扱いの難しさはここにあるかと思います。
地域、時代さま
コメントをありがとうございます。
おっしゃる女性の職業やキャリアに対する見方、共鳴できるところが多々あります。
最近、読んでおもしろかったページをご紹介します。
遥なるコンシェルジュ 「男の悩み、女の嘆き」 日経BPネット 遥洋子
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20120808/235418/?rank_n
もしかしたら会員登録が必要かも知れませんが、無料ですし、大きな声では言えませんが、偽名でも捨てアドでもOKと思うので、ご興味あれば。
遥さんは、関西で活躍するタレントですが、なかなかに核心に迫る部分もあるように思います。Q&A形式の割に、まったくかみ合っていないところもありますが。。。。
女性のキャリア形成について、いくつかの示唆を含んでいるように思います。































