アートの才能を伸ばす女子教育
私立中学の価値ーゼロ
内容は、私立中学の価値から続く話題です。教育全般です
条件は1つだけ・・「最初から、誰かを、無視する意図がある人を除く」です。
■地域、時代さん
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量的様
「リーダー湿布」
これ、誤変換だと思うのですが、すごいエエ感じです♪
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量的さん、けっこう・・ありますよね。(笑)
「リーダー湿布」・・・マツキヨで。800円で販売中、効果1日
「志ん生風景」・・・あじわい深い風景のこと。
「月齢会議」・・・赤ちゃんの3ヶ月検診の時にする会議。
ウソ。
早いものでもう9月ですね、
9月も後半になれば、そろそろ運動会シーズンに突入でしょうか?
私の子供の頃は、小学校の運動会といえば、町をあげての大イベントで
家族総出で、席取りをし、昼休みなんかはゴザを引いて家族みんなでわ
いわい宴会(実際大人は酒を飲んでいました。)我が子の活躍は酒の肴
といったところでした。
子供同士もみんな知っているし、その親も子供たちのことはなんでも知
っているようなもので、田舎なのでとても狭い世間でした。
いじめ、いたずらの類も多くあり、私なんかも石をぶつけられて、頭から
血を流す、なんてこともあったし、よく民家のガラスも割りました。
その度に親が子供を連れてきて、二人で頭を下げて、けがをさせたりした
時は、お菓子ひと包みをけがさせて子に渡して、ごめんなさいで一件落着
と簡単なものでした。
時間は過ぎて、今日のいじめ問題を見るにつけ、根本的に何かが違うと思
います。
どうしてこんなになってしまったのでしょうか。
いじめの内容も行き過ぎだし、それぞれの親の対応もどうしてこうなって
しまったのだろうと思う事多々あります。
世の中はるかに豊かにはなったのですが、とても大事な何かを置き去りにし
てきたように思っています。
脈絡のないことを書いてしまいました、運動会を思い出していたらふと書き
たくなりました。
適性さん、
落語家のすごいところは、している話がおっしゃるとおり”普通”の話であることです。
にも関わらず、一度きたお客さんには、「また、次回、木戸銭払ってきてくださいね。・・・」ということを、非常に多くの方に実質してて、実現できているところ。テレビなどだと、お金を払っているという意識はなく、手軽さと広告宣伝でちょっと違う作りになっている。すごいことです。人間の深いところで行動の「選択」に影響をしている。
シーナ・アイエンガーさんの白熱教室の慶應ビジネススクール版に共感を覚えているのは、リーダーシップとは、肩書きででてくるものでもなく、ヒエラルキーでもない、と喝破して、目指すべきものを明確にし、そこと各人の、人生の「選択」を、そこに至るためのツール結びつけているところですね・・。「選択の達人」を目指せ、というキャッチフレーズで、ぐいぐい引き込んでいく。
自分がやっている業界横断的普通の仕事を、「皆さんが落語を聞きたいと思うように、真摯且つ楽しみにして」ご参加いただけるように、自然に作込みできたらよいな、と思います。
<適性さんWrote>
「リーダーシップのエッセンス」・・・・
「普通の話」を、『相手』が、集中して、喜んで、継続的に、飽きずに、聞こうとしてますね。
そして、それが、『相手』の心に「積もる」わけです。
「普通の話」も「魅力的」な話になる。
相手は、普通の話の各シーンを思い出して、いつでも、再生可能になる。
普通の話 いや、素晴らしい話でも、相手が、脳に届かなければ・・・価値がほとんどないですからね。
たしかに、リーダーに、欲しい能力です。
※先生にも、欲しい能力ですよね。先生でも、話が上手な人は、落語で研究したりするようです。
適性さん
完全に酔っぱらいの雑題ですが・・
志ん生の落語も、小さんの落語も、録音で結構聞いた時期がありました。志ん生の落語は、「お直し」などはとても良いですよね。聞きたいな、と思う聴衆の心情がわかる気がしています。
・・山下達郎が志ん生を好きなのは知りませんでした。でも、氏の聴衆からの根強い支持の根底に、そのエッセンスがなにかしら、流れているのかもしれません。
たけし、が言っている談志評は全く同感です。噺家になるには、ちょっと理詰めを感じるのですよね。立川流は、家元がそれなのでそういう作りの人が多い。談笑、志らく・・。談春でさえ。わたしは寝不足の時、談春は波長が合わせられず、すぐ寝てしまいます。。
志ん生は、クナッパーツブッシュをほんの少し、さらにカジュアルにした趣を芸風にわたしは感じますが、実像のクナッパーツブッシュは、「ケツのあな!」なんてオケに叫んで顰蹙買ったり、砕けた面があった人のようですね。
志ん生とクナっパーツブッシュは、ともに「呼吸が深い」芸風で、「縦の線は合わせない、天衣無縫」・・絶妙のバランスで重くしない、どんなときも自然に流れせることが、聴衆にはたまらないのかなと思います。
枝雀に惹かれる人たちは、キャラからなにから「突き詰めてられているから」プロの目線(=作る側の視点で)、好きなのではないでしょうか。楽しむというよりも。これは枝雀ファンに改めて聞かないと本当のところがまだわかりません。志ん生やクナのような芸風は、興行ごとの当たり外れも大きいですね。でも、聴衆はそこも込みで見ている。この振幅が耐えられない人はプロであれば、演じる側では当然たくさんいますし、普通はお客が離れるのでできないはず。
現在、二つ目のこしらは、別格なのでわたしは好きです。かれは、誰よりも巧まず演じることができ、聴衆を強引に納得させるものを何か持っている。しかし、おしつけがましさが少ない。だから落語らしきもの、と言いながら、かれが演じるものでも、聴衆は聴いてしまう。彼の「東北の川下りのアトラクションでみかん箱で落語する話」(何かの枕でした)は、ホントに傑作。でも、真打になったりすると、却って壁がでるかもしれません。このままの「こしら」でもう少し進んで欲しい。
以前、適性さんとおはなしをした、小三治の「野ざらし」の枕。小三治は、枕の”自由度”を楽しんでいて、講談社文庫のま・く・らも面白いですが、こしらは、さらに天衣無縫に作れるキャラを構築していて、現代でヨタ話で魅了できる最短の位置にいるようにも思います。
落語も、ビジネスモデルが難しくて、食うためには、なかなかタイへですよね。これは教育ビジネスに携わることとと似たところがありますね。・・・それに比べると、理系の大学・大学院で企業で働くルートは・・
戯言もキリないので、そろそろ寝ます。
マツキヨで買ったリーダー湿布を今夜も寝る前に貼ろうっと。
<適性さんWrote>
なぜか、二人とも、志ん生なんですよね~。他の人も聴いているのでしょうけど・・・ 刺激(インスピレーション)を受けて、「何か」を、自分の中で、「血肉化」したいという願望でしょうか?。 きっと・・『どこか』に、思わぬかたちで、ふっと、現れるのでしょう。
志ん生と言えば・・ビートたけしも・・
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オレはね、落語に関しては
志ん生さんはね、やっぱり、すごいと思う。
先鋭的なものから骨董品になっていくよさがある。
だから、各時代にいいのよ、あの人は。
・・・
談志さんなんかもさ、
志ん生さん的なことがあったら、
もっとよくなるのになって思う。
だけど、いまだにあの人ね、ギンギンなの(笑)。
志ん生さんの味がないの。
・・・
落語では、文楽と志ん生が
双璧だとオレは思うんだけど、
どっちかって言うと、やっぱり、
志ん生さんの方が好きだねェ。
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と・・志ん生のファン。
わかりやすいのは・・ビートたけし、の『口調、言い回し』は、志ん生だ。と書いてる人がいました・・・・同じ、芸人になると、そこに、現れるでしょうか?。意識的なのか、どうかわかりませんが・・好きだと、似てくるのでしょうね。
お二人とも、声がいいわけじゃなく、ちょっと、聞き取りづらい・・・(子供(志ん朝)は、声が素晴らしいし、正統派なのに・・・)
でも・・私には、正直、志ん生は、遠い感じがします。世代的にも・・録音も悪いですし・・・・
公立一貫様
>時間は過ぎて、今日のいじめ問題を見るにつけ、根本的に何かが違うと思
います。どうしてこんなになってしまったのでしょうか。いじめの内容も行き過ぎだし、それぞれの親の対応もどうしてこうなってしまったのだろうと思う事多々あります。
いろいろ思考してはいるものの、イジメの発生する根本原因は昔と変わっていないと思うのです。では、環境面で考えると相違点は、少なくとも2つあり、一つは、ネットの普及により言葉を発することなく不特定多数で意思疎通ができるようになったこと。まるでテレパスを手に入れたが如く。皆さんご存知のことだと思います。
もう一つは、ある校長先生のお話で・・・
以前は、問い質すと観念したものだが(小学生レベル)、最近は、「シラを切り通すようになっている」とのことでした。つまりウソをつき通すことに成功し、イケルと思わせてしまっている。人権意識の高まりによって、持ち物検査や問い質すことへの配慮が一因でもあるようです。
一つの解決策として(私は賛成しませんが)イジメを認めない子に対してクラスの連帯責任として罰を与えることだそうです。イジメっ子は、クラス内での自分の立場を気にする習性を利用した打開策です。この方法は、イジメっ子の手口と同じ手法と云えなくもないのですが・・。
公立一貫様
いじめ。。。
私は弱い相手をいじめる奴の気が知れん。って所があります。
ですので、体力的なものや立場的なもので、強い力を持っている奴が、、のパターンは、最悪だと思っています。
しかし、自分が相手を「強い、弱い」と勝手に決めつけているだけ、という場合もある。
と、、いじめに関しては、あまり複雑に考え過ぎると、わけがわからなくなると思います。
ですので、私はいじめに関しては非常にシンプルに考えるようにしています。
「いじめをする奴は弱い奴」って。
そう言いながら子供を育ててきました。
いじめは、「その時、その時の」非常に複雑な要因がからみあって発生する気がするのですね。
原因は「その時、その集団の中で起こっている」。
ですので「いじめ’問題’」として捉えるのは第三者が語れば、やった側もやられている側も傷つける。
事を複雑にするだけだと思う部分もあります。
発生の要因は様々だと思うからです。
両者ともに「言い分」時に「言い訳」(言い訳すんなよ!と個人的には思いますがね)があると思いますから。
大人として我が子を「いじめをする子にしない」ように育てる努力する事は出来ると思います。
「人に対して嫌な事を言わない子にしよう」と、育てる努力する事も出来ると思います。
クラスの中でいじめが発生している時、「それを解決しようとする子」に育てる努力する事も出来ると思います。
■信頼感さん
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もう一つは、ある校長先生のお話で・・・
以前は、問い質すと観念したものだが(小学生レベル)、最近は、「シラを切り通すようになっている」とのことでした。つまりウソをつき通すことに成功し、イケルと思わせてしまっている。人権意識の高まりによって、持ち物検査や問い質すことへの配慮が一因でもあるようです。
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私も、この「シラを切り通す」小学生を、子供の小学校で、経験し。。まあ、唖然となりました。
問い質す 時点で、ある程度、状況「証拠」は、あるわけです。第三者から見て、ほぼ確定。
でも、子供は「知っている」のです・・・。
自分が、「認めた」・・『とたん』、先生は、安心して、説教を始めるだろう。
= 自分が、いやな気分になる。
= 自分が、悪いことが確定する。
= 自分が、あやまらなくてはならない(責任を取る)
自分が、「認めない限り」それは、なにも、始まらない。
自分が「認める」という条件・・・これが、クリアされないと・・・本格的に、説教さえできない。
・・・と「知っている」のです。
どう考えても、その方が「得」だろう。
逆に、先生に対して、攻撃さえ、できる。
絶対に、自分は、あやまりたくない。
(それほど、罪悪感もないのかもしれません・・・)
・・なら、否定すればいい。
大人だって、そうです。
「うちの子が、なにしたっていうの?うちの子が、してないって言ってるのだから、してないのよ。証拠はあるの?」・・と「否定」が「スタート」の大人も、けっこういるでしょうね。
(子供を信じること、味方になること、子供を守ることは、大切ですけどね・・・・)
そりゃ、子供が、それを横で「見てる」のですから、「同じこと」するでしょう。
逆に・・
「すみません、じっくり、自分の子に確認してから、返事させてもらいます」
と対応して・・後で・・
「子供は絶対してないと、言ってますが・・私は・・たぶん、したと思います。
申し訳ありませんでした。・・
しかし、子供が、してないと言ってますので、私も、親なので、全否定はできません。
今後、同じようなことがないように、釘はキチンとさしておきます。
また、同じことが、あれば、言ってきてください。」
と・・正直に言う人もいます。が・・
皆さんも、子供のしでかしたことで・・相手の家に、菓子折りもって、謝りに行ったことがあるかもしれませんが・・・きっと、親が「すみません」と謝る姿を、子供に見せた方がいいんですよね。で、一緒に頭を下げる。
私も、子どものときに、親と一緒に、謝りに行きましたが・・・『覚えてます』よね。
ほんと・・いやだった。親にも、悪いな・・と思いましたし。
でも、責任とるということは「そういうもんなんだ」と、思うようになる。
たいがいは、相手は、それで「手打ち」にしてくれますね・・・
ただ、最近は、被害者の方も、「あなたが悪いなら、誠意を「かたち」で。」みたいな人も、出てきたようなので・・・・・どこで、おさめるのか・・・難しいとこは、ありますね。
ここだって、「俺は、悪くない」から、スタートの人も多い。
これは、酷い表現であって『誹謗中傷』と、「多くの人」が、思っても、
これは、『相手』に「イヤな気分になってもらいたい」のだな・・と「多くの人」が、感じても。
『本人』が、「私の発言は、すべて、老婆心で、本当のことを、言っている『だけ』。」とシラを切ればいいわけです。つまり、真っ白だ・・というわけです。
絶対に、誹謗中傷と、本人が認めなければ・・・『老婆心という名の誹謗中傷』が、まかり通るわけです。子供が、真似したって、しょうがないかもしれません。
そういうことは、とにかく「かっこ悪い」と思わないのでしょうかね。
短期的「得」(怒られない、責任をとらなくていい、攻撃できる)を重視して、「信用」とか、「自分の成長」という、長期的「得」の発想が抜け落ちているわけでしょう。
シラを切られた側は。。「あの人は、信用できない。信頼できない。」となる
しかし、『相手』が嫌いな、人たちから「えらい、よくやった(自分はそこまで言えないけどね)」と「ヒーロー」扱いうけるかもしれません。ある種、愛国無罪に近い感じでしょうかね。
なぜか・・・道徳心とか好きな人が、道徳心がない行為を好む????
■「事実を認める」ことは、必要なのか??
できれば「事実を認たくない」・・非常に、苦しいし、イヤなことが多いですから。
事実だからって、なんでも、かんでも、認めなければならない・・というわけじゃない。
自分の、体力の衰えを「認めない」・・別に、かまいません。
しかし・・
■『人の利害と関係すること・人を傷つけたこと』においては、「事実を認めない」と、クリアできないことが、やはり、あるわけです。
■ネルソンマンデラの『インビクタス/負けざる者たち』という映画がありまして。
ラグビーワールドカップを、南アフリカですることになった時の実話が元になっています。
wikiでは・・
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南アフリカ代表のラグビーチーム「スプリングボクス」は当時低迷期にあり、黒人選手もわずか1人という状況だった。ラグビーはアパルトヘイトの象徴として、多数を占める黒人の国民のあいだでは非常に不人気なスポーツだった。政府内では「スプリングボクス」のチーム名やユニフォームの変更を求める意見が多数を占めており、一時はその方向で決まりかけていた。しかしマンデラはこのチームが南アフリカの白人と黒人の和解と団結の象徴になると考え、チーム名とユニフォームの存続を求め周囲を説得し、一方でチームの主将フランソワ・ピナールを茶会に招いて言葉を交わし、励ました。
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アパルトヘイトの象徴と思われた「スプリングボクス」のチーム名やユニフォームの変更を、全会一致で決まりかけたのを、マンデラは「今まで我々は白人たちに脅かされた。しかし我々は白人たちを協力する寛容の心で迎えるのだ」と会議参加者との意見の異なるスピーチを行い『決定?を、ひっくりかえした』わけです。。
「怨念やら恨みやら憎しみやら敵意」の象徴を、「無くそう」とする黒人の心は理解できるが・・・それは、白人たちが「大切にしてきたもの」であることも、分かっていた。
■発想を転換させたわけです・・・
それを「怨念やら恨みやら憎しみやら敵意」に乗って『奪い・壊す』のではなく、白人が「大切にしたもの」を「残し」さらに、現実的に、和解と団結の行動を国民に見せ「怨念やら恨みやら憎しみやら敵意」の象徴を、みごと「和解と団結」の象徴に変えた物語です。
今も「怨念やら恨みやら憎しみやら敵意」の原因になる、具体的黒人差別が「ある」なら、「そこ」は、排除しているでしょうが、同じチームに、すでに白人も『黒人もいる』のですから・・・そこは、「クリア」されていると考えたのでしょう。
「現在」と「未来」を見ているわけです。
感情としては現在も続く「怨念やら恨みやら憎しみやら敵意」から・・現在を見て・・・「白人が大切にしているもの」を守ったわけです。
「現在」を見るとは、「事実」を見るということです。
ネルソンマンデラは、「現在」の「事実」を確認して・・「未来」を予測し、排除するもの、変えるものと、残すものを指示したのだと思います。
「白人」にしても、差別してきた過去の事実を「認め」、そこから、次のステップに、共同参画させたわけです。
■寛容とは、どういう時に可能になるのか???なにが、条件になるのか??
「現在」は「排除的団体」とは言えない、ラグビー代表から、「名前を排除しようとした意見」を、マンデラは「排除」したのです。
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マンデラ政権下でツツ司教を代表とする真実和解委員会 (TRC) は、残虐を受けた側、行った側の両方から話を聞き、真実を記録すると共に被害者側の痛みを共有し、『真実を語った』白人には恩赦を与えていた。
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■白人が、『過去の行為』を、「事実として受け入れる」ことを、やはり、前提にしています。
「事実を受け入れない」のであれば、やはり、先にすすまないのでしょう。
(※その当時は、当たり前のことで、悪いとも、おもっていなかったでしょうけど)
現在、いじめの問題が、社会をにぎわしていますが・・・
■加害者側が、客観的な「事実を受け入れる」こと・・・それなしに、先はないでしょう。
いじめではなく「じゃれあい」・・・です。なんて、言っているうちは・・・
かつての支配者、白人は、黒人大統領の下になり、戦々恐々としたハズです。
黒人大統領は、「黒人の感じた痛み」を、同じ方法(奪い、壊す)で、白人に痛みを与えることで、チャラにするのではなく、白人が『事実を認めることで』チャラにしたのです。
白人が『事実を認めない』ままで。黒人が、白人に同じことをしたくなる、気持ちを、抑えることは困難であることは・・・大統領もわかっている。(大統領は、とても、現実主義でもある)
南アフリカには、まだ問題が多くありますが・・・・とても、参考になる、事実じゃないでしょかね?































